8. 不安な予感
8-1
アパートに着くと、郵便ポストに小包が届いていた。厚みがあり、重みもそれなりにある。送り主住所は実家だった。筆跡からして、母親が送ってきたものだろう。
正直開ける気にならなかった。小包のサイズを見た僕は、その中身に思い当たる節があった。
『話せそうな時が来たら、僕もなにか話せるといいな』
縦コン明けの朝、左良井さんの部屋で僕は確かにそう呟いた。その時は、口ではそう言いながら、思い出すつもりなんてなかったけれど。
『私は越路くんのその顔しか知らない。だから私は特別じゃないわね』
この小包はきっと、左良井さんと見るのが一番いい。そう思って僕は小包を放り投げ、携帯電話を開いた。
ドアノックが部屋に響く。インターホンが壊れて鳴らないことは事前に言ってあった。
一つ深呼吸して、覗き窓で訪問者を確認する。U字のドアロックを外して鍵をひねり、扉を開ける。
「やっぱりここ、遠いわよ」
「やあ、いらっしゃい」
ドアを大きく開け半身で部屋の中を指し示すと、左良井さんは固い表情で一歩を踏み入れた。
「お邪魔します」
「狭いところですが」
物が少なければ、頻繁に掃除しなくても手入れが簡単だ。話を付けてから小一時間の掃除で、少なくとも人を招き入れられる程度には整頓することが出来た。
『見せたい物と、話があります。左良井さんが良ければ、うちまで来てくれないかな』
『ちょうど良かった。
私も、話したいことがあるの』
左良井さんは早くもなく遅くもない返信で、そんなことを言っていた。
「ええと、お茶でも出そうか」
「おかまいなく」
ボトルのお茶とコップを二つもってくると、座布団が一つしかないことに気づいた。その一枚を左良井さん側に敷いて、僕はベッドに腰掛けた。
いただきます、と小さく呟いて左良井さんがお茶を一口含んでから、一つの雑談もなく彼女の方から話は切り出された。
「話したいことって?」
「ああ、ええと……」
ちらっと机の上に戻された小包に目をやる。
「たぶん、長くなる。左良井さんの話から聞くよ」
そう、と呟いた左良井さんはまたしばらく沈黙を保った。みんなが言うほど沈黙はちっとも息苦しくないと思っている。
息苦しいのはきっと、相手を意識しすぎるからだろう。
「そっか、手短に終わらせたほうがいいのかな」
「いやいや、別に時間なんていくらでもありますし」
なぜか緊張した。目の前の左良井さんも緊張しているように見えたから、謎の敬語が口から飛び出した。それを左良井さんは笑ってくれなかった。
「色々あったけど、ようやく近頃ちゃんと言おうって思えるようになって、でもどう切り出したらいいか、本当に言ってもいいのかずっと迷ってて……」
「僕もなんだよ。奇遇だね」
その時の彼女の顔をどう表現したらいいのか、今でもわからない。ただ、どうしてそんなに自信なさそうなんだろうとは、思った気がする。
「付き合ってる人がいるの」
正座した自分の膝を見つめて、一つ深呼吸してから彼女が言ったセリフがこれだった。
その言葉は今まで二人でしてきたすべての会話の流れからも、今までの僕らの関係からも唐突だった。僕が何を言ったわけではなかったが、話を進めていいと判断したのか、彼女は続けて告白を始めた。
「付き合い始めてもうすぐ、二年くらいになる」
二年。それは僕たちがお互いの存在を知るよりも前の話。
「ど……どうして今まで言わなかったの? どうして今言ってくれたの?」
詰問っぽくならないように気を付けても、僕の言葉は彼女の顔をさらに俯かせるばかりだった。
「越路くんのことが、好きになりそうだったから、言えなかった」
そして僕の目を覗きこむようにして、彼女は続ける。
「越路くんのことが、好きになったから、言った」
「僕のこと……」
こくり、彼女は顎を引いて頷いた。僕のことを、好きに。彼女の言葉を頭の中で反芻する。
「少し前から、このまま越路くんと関わっていたら越路くんのことを好きになってしまうと、薄々気付いてはいたの。あなたに、『左良井さんは付き合ってる人がいる』って思われるのが、何となく辛いと感じ始めていた。
でもそうしているうちに、私は本当にあなたのことを好きになってしまった。こんなに好きなのに、私はいつまでも嘘をついて隠し続けている。それに、私は耐えられなかった」
普段の彼女の持つ、凛とした声の響きさえ今ではもはや失われていた。
「こんなの不誠実だって、分かってた。でもあなたがいい人で、私は……」
一旦閉ざしてしまった彼女の唇が再び開いたとき、薄い前歯に唇が持っていかれそうになっていたのが見えた。
「私は、私の都合のいいように動いてしまったの」
すがるような目で僕を一瞬見つめ、何かに気づいた様子を見せて左良井さんはまたうつむく。そして聞こえるか聞こえないかの声量で「……ごめんなさい」と呟いたのだった。
僕に許しを請うわけでもなく、ただ謝罪の意を述べる彼女を目の前に僕は、どうして彼女が謝っているのかを考えていた。
確かに僕が彼女のことを考える時間は、日に日に僕の一日の多くを占めるようにはなっていた。それを形はどうあれ、『好意』であると自覚しないほど僕は愚かではない。
黙っていることは嘘とはまた別だ。聞いてもいないのに答えなかったからと言ってそれを「隠す」と表現するのは少し厳しいと思う。
それに僕は、彼女に対する気持ちを言葉にしたことは一度もない。
つまり今この部屋には、彼女が謝る必要も、僕が傷つく理由もないのだ。
もしかしたら彼女は、形のはっきりしない僕の気持ちに気付いてこんなことを言い出したのかもしれない。それは実に合理的なことだ。
付き合ってる人がいるのに、その人のいないところで他の異性と仲良くするのは、程度の差こそあれ好ましいことではないと聞いたことがある。彼女の言葉を借りればそれは、『不誠実』だ。
実際彼女はそれに罪悪感を感じて僕に事情を打ち明けたのだ。僕に対する考慮を差し引いたとしても、合理的な範疇から数ミリも越えない。
それなのに。
「そっか、じゃあ左良井さんにとって僕は何でもないただの一人の男だったのか」
はっとしたような表情で、彼女が僕の口元を見つめた。
「僕が君を見ていたときも、君の心には僕じゃない人がいた」
「ち、ちが……」
僕は彼女のことをいつも「左良井さん」と呼んでいた。君、だなんて他人行儀な呼び方をするのは初めてだった。
「違ってはないでしょ。君はその彼氏と僕とを比較していた、何も間違っちゃいない」
そして僕は天秤の皿から落とされた。
「違うなら、どう違うって言うのかなあ……僕には分からないよ」
僕が何よりも得意な笑顔という表情で話しかけているのに、左良井さんはだんだん息を詰まらせていっている。
「それは……」
僕は彼女だけを見つめていた。そして彼女も同じように、僕のことだけを見つめてくれていたと思っていた。でもそれは甚だしい勘違いだったのだ。
僕は彼女の何を見つめていたと言うのだろう。今では彼女を見つめることさえ辛くて仕方がなかった。お互いがお互いを思っているはずなのに、それが今は何よりも辛かった。
「裏切られるくらいなら、嫌われた方がずっと気楽だったなぁ」
彼女はあまりに、身勝手だ。
そして彼女だけを責める僕もきっと、同等かそれ以上に身勝手だ。
僕の口をついた台詞に、彼女は何の言葉も返さずただ涙で頬を濡らしていた。何か言いたそうな顔をしているのに、涙のせいで上手く言葉が出てこないようだった。
「あの、でも、言いたかったのはそのことじゃなくて……痛っ!」
「きっと僕が目の前にいるから話せないんだと思うよ、もう帰った方がいい」
彼女の声が鼓膜を震わすだけで、彼女の姿が目に入るだけで、僕は形にならない感情でいてもたってもいられなかった。彼女の腕を強く掴んで玄関へと引っ張る。
「待って、待って、まだ話が」
そう言いながらもこれ以上その先を言い出してこない彼女の相手はこりごりだった。無理矢理にドアの外まで追い出す。
話をさせたって、あの大きな目から大粒の涙を流して不幸ぶるんだ。どうせそうに違いない。
「嘘は望むだけだって言ったのは誰なのさ」
玄関先、扉を開ける前に僕は彼女に問いかける。
「あ……」
「自分のことを棚に上げて人を嘘つき呼ばわりしたの? そりゃないよ」
彼女を外気に晒し、バタンと扉を閉じる。すぐさまコンコン、と小さく扉が鳴った。
「言ってくれたじゃない、一緒に夢の中で昼に生きようって、言ってくれたじゃない」
扉の向こうで左良井さんが、僕に話しかけている。
「でも越路くんの『特別』は、私じゃない。……そうなんでしょ?」
左良井さんが言うように、本当に『特別』がただ一つだけの事を言うのなら。
「……そうかもしれないね」
僕の『特別』は確かに、左良井さんにはあげられないのだ。
「お邪魔しました……さよなら」
僕だけが残された部屋は、さっきから静かだったような振りをする。やり切れなさとともに、ベッドに ダイブする。引っ張られる腕の痛みを必死に訴える彼女の顔が、胸を刺した。彼女を泣かせたのは、僕のせいなのだろうか。
裏切りは、契約があって初めて生まれるもの。僕らは何を契約したわけでもない。
僕はただ、心のどこかで信じていただけだった。でもこんな思いをするなら、何も信じない方が良かった。今日のことも、今までのことも、やっぱり全て無くなってしまえばいい。
『全部嘘だったらな、なんてこと、あるよね』
そうだ。本当にそうだ。
もういっそ左良井さんとの今までが全て嘘で、彼女への思いだけが真実であればいいと思った。
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