7-4
バレンタインデーという特別な日が、世間には存在するらしい。今年の僕にとって二月十四日は、集中講義の最終日という意味しか持っていなかった。
「一人一個ずつだよ~」
学科の女の子が、お徳用の小さなチョコレートをみんなに配っていた。いわゆる、義理チョコだ。
「おっす」
「おは……うわ、何だその袋」
「永田、これはもしかして……」
過剰に反応する男子達の視線を集め、にやっと口の端で笑ってつまらなそうに永田が答えた。
「チョコだよ」
男子諸君からはおおっと低い歓声があがる。
「爆発しろ!」
「俺もほっしー」
数人分の紙袋を両手に持ちながら、永田は四方八方から肘でどつかれている。男子には遠慮というものがない。
「いてっいてっ……欲しいなら全部やるよ」
「お前がもらったやつなんか、いらね!」
「しねっ」
力技で永田は教室の外に閉め出された。小窓からは苦笑いしながらぶらぶらと紙袋を揺らして歩き出す永田が見える。とりあえずロッカーにでも置いておくつもりなのだろう。
帰ってきた永田は、教室の隅で文庫を開く僕の隣にやってきた。
「ざっと確認したら本命も一個あった。困ったね」
確認しないと分からない本命チョコなんてあるのか、と僕はそちらに驚いた。
「困ったねえ」
「告白は男から〜とか言うくせに、世の中は女……バレンタインが先だ。矛盾にもほどがあるよな」
「一つも貰ってない奴が聞いたら殴られそうだね」
だってさぁ、という永田の反駁は教授の入室によって遮られる。僕も文庫を閉じてノートの白いページを開いた。
予鈴のない大学という空間に入ってからも、僕らは何かに縛られたように時間を過ごす。きっと人は、誰かに縛られるか誰かを縛り付けておかないと生きていけない生き物なのかもしれない。
それなら僕も、心当たりがある。
「……って、永田がぼやいてたよ」
集中講義最終日は午前上がりで、余裕のある午後を迎えていた。
「それは女子だって同じように文句言ってるわよ。なんで女子が先に言わなきゃなんだって」
まるで他人事のような口ぶりはいつも通りの左良井さんなのに、どこか僕の胸に何かがつかえているような感じがした。
左良井さんと、二月十四日のキャンパスを横に並んで歩く。ニュースの一件以来、ぎこちなくもこうしてまた話せるようになった。離れかけたものを繋ぎとめることは、思ったよりも気を使ってしまう。気を使わないように気をつける、このさじ加減が難しい。
夏のあの日、左良井さんは僕にすがりつき、僕はそれを拒まざるを得なかった。今の僕たちを見てそんな出来事を推測できる人は、きっと誰もいないと思う。
「男子はそういうイベントにこだわらない傾向にあるからかなあ」
「自信があるから、告白なんて出来るのよね」
左良井さんが自嘲めいた笑いをこぼす。
「好意を表に出して嫌われるようなことがあるって思ったら、おちおち好意も表に出せやしないでしょ。それが時に妄信だったりすることもあるのだろうけど。
……あんな風に綺麗だったら、その限りじゃないかもしれないけど」
あんな、に相当する人物を探そうとも、僕らの目の前に広がる視界には人影一つなかった。ただ、ほのかに香る甘い残り香があるだけ。
左良井さんは体の半分だけで後ろを振り返った。その視線の先に、真っ直ぐな背筋で歩く細い女の人が敷地内を僕たちとは反対方向に歩いている。今しがたすれ違ったのだろう。
「あんな風に胸を張って歩ける人だったら、越路くんに嫌われずに済んだのかしら?」
左良井さんだって、十分に綺麗だ。華やかさはさっきの人に比べれば少ないけど、ちょうど薔薇の花と百合の花とが大きく違ってともに美しいのと同じだと思う。
そんなことよりも反論しなきゃいけないことがある。
「僕は別に嫌ってなんかいないってば」
左良井さんは、僕が左良井さんのことを嫌ってると思ってる。それはきっと夏休み前のことが原因なんだろうけど、僕がどう弁解したところで彼女はその考えを曲げない。
「うそつき」
左良井さんは可愛らしさよりも清潔さとか大人しさが際立つ綺麗な人だ。でも今笑った左良井さんはどちらかといえば可愛らしいと形容されるんだと思う。僕が一番気に入っている薄い笑みでそんな風に言われ、胸につかえたものがさらに膨らんだ。
「メールのときも気になってちゃんと考えてみたんだけど、僕は一度も嘘をついたことない気がするんだ。よく分からないまま嘘つき呼ばわりは、結構キツい」
ぴっと細い人差し指を僕の顔の前で突き出して、左良井さんが涼しげな顔で一息で言った。
「私は越路くんのその顔しか知らない。だから私は特別じゃないわね」
「……なにそれ」
僕の追及も待たずに、ふいっと僕に背中を向けてさっさと歩き出す左良井さん。慌てて僕も追いかける。左良井さんの言葉の真意が掴めないまま、僕たちは静かに歩みを進め続け帰路についた。
二月十四日、僕が個人的にもらったチョコレートは、一つだった。
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