7-3

「おはよう、左良井さん」

 その日、午前一番の講義が終わるのを逸る思いで待っていた。九十分の講義中に書きたまったルーズリーフをトントンと机で揃える左良井さんは、僕の声に目だけで応じた。左良井さんをこの距離で目にするのはだいぶ久しぶりな気がする。

 隣で睨む咲間さんが視界の端に映っていたけど、僕は気にせず話した。

「ニュース見た?」

「……何のこと?」

 不審そうに尋ね返す様子に、僕は少し後悔をした。その大学と彼女に何か関係があるなんて確証はほとんどない。それに、この事はいずれ彼女の耳に入ることだろう。

 僕が、今、言う必要なんてどこにもないのに。

「ええと……場所、変えてもいいかな」

 秋に完成した図書館の中の喫茶店にも入ってみたいんだ、と付け加えると、左良井さんは小さく頷いた。咲間さんはさらにもう一段階僕を強く睨みつけてから、「いってらっしゃい」と小さく呟いた。左良井さんは咲間に薄く微笑み、また後で、と小さく頷いた。

 歩き出しても僕らは無言のままで、僕は頭の中でどういう話の切り出しにするかだけを考えていた。



 僕の話を聞き終えた左良井さんは、そう、とだけ呟いて頬杖をついた。視線の先には枯れることのないレプリカの観葉植物があるだけ。

「ごめん、やっぱり余計なお世話だった。僕がわざわざ言うことじゃないとは思ったんだけど、さ」

 僕も今朝ニュースを見たばかりでそれ以上の詳細は知らない。涙も、ため息さえもこぼさない左良井さんの様子を、僕はただじっと見つめるしかなかった。

「私の出身なんてよく覚えてたね。確かに私はそこを受けた。そして、落ちた」

 落ちた、という語感の軽さが僕の後悔をさらに深くさせる。

「いいのよ、もう。だってもしその人がいなくたって私は落ちてたかもしれないし。もし受かっていたとしたら、その集団の中で私は最底辺だってことでしょ。素直に喜べないわ」

「入学当初の成績なんて気にするほどのことじゃ」

「私は、自分を見失ってここまで逃げてきたの」

 僕の言葉は遮られる。小さくて、しかし鋭い声だった。

「立ち向かえなかった。疲れきっていたのよ」

 出ましょ、と左良井さんに促されて僕たちはテーブルを立って小さな喫茶店をあとにする。

 左良井さんについていくがまま、たどり着いたのは大学の近くの海岸だった。僕らの通う大学は、海岸から目と鼻の先にあることで少し有名だ。海に沈む夕日を背にバーベキューをしたり部活動に勤しむのがここの学生の特権で、青春なのだ。

 しかし季節が冬となれば、海もその表情を一変させた。ザザ……と波は厳かに砂を運ぶ。波打ち際の白い泡はたくさん押し寄せるも、強い海風に吹き散らされて瞬く間に消えていく。僕たちは砂浜よりも手前の、コンクリートで舗装されている地面に腰をおろした。

「家を出るかでないか、選択肢はそこからだった」

 風に流れる黒い髪を右手で抑えながら、左良井さんが口を開く。

「一人暮らしして自分で稼げば家に負担かけなくて済むでしょ? でも親はそれをよしとしなかった。離れて働くくらいなら家に居ろっていうのよ。学生は勉強にだけ専念すればいいって。

 でもね、それは絶対嫌だったの」

 波のリズムは不規則で、予測不可能だ。でももしかしたらこれが本当の自然のリズムで、僕たちはあまりに自然から離れてしまった故にこれを不規則なリズムとして耳にしてしまうだけなのかもしれない。実際、波のリズムは不規則であるにもかかわらずなぜか心地よい。

「窮屈だったのよ。いつまで私は親の元で可愛がられて育つんだって、勉強してるかどうか監視されなきゃ勉強できないような子どもだと思われてるのかって、思い始めたらきりがなかったのよ」

 海からすれば僕たちの方が不規則な存在だ。正義も悪も、愛も憎しみも、幸せも不幸も、眺める位置が変わるだけでがらりとその姿を変える。

「それでも、地元の大学を受験した。一人暮らし云々よりもまず、親の期待に答えてあげたかった。大学入ったあとは自分の好きなことするんだから、それくらい親孝行したかったのね」

 形だけでもね、と左良井さんは吐き捨てる。

「でも――ううん、『やっぱり』、かしら。やっぱり私には、幸せは似合わないみたい」

 ほうっと左良井さんがため息をついた。

「合否結果が出て数十分あとに、職場の父から私にメールがきた。ただの一言『反省しろ』って。帰ってきてからは罵詈雑言の嵐よ。馬鹿だの恥さらしだのなんてことしてくれたんだ……って。

 そんなの私が一番分かってたわよ。どうしてそこまでのことを言われなきゃならなかったのよ。私は自分のために勉強してたの。恥をかきたくて、かかせたくて失敗したんじゃない」

 自分の進路を自分で見つけて実現するのも親孝行の一つの形だと思う。でも僕はそれを言わなかった。家庭ごとに価値観が驚くほど異なってくることは僕も重々承知している。きっと左良井さんの家では、親元を離れることは親不孝なのだろう。

「後期、ここを受けたのは私の意地だった。願書を出したときから『頑張って地元受けるから、離れて欲しくないなら応援してよ』って暗に言ってたようなものね。

 ここに来てからね、毎月必要以上の額の仕送りが来るの。うちだってそんなに裕福じゃないのに、こんなに要らないってちゃんと言ってるのに、子どもに苦労させられるかって聞いちゃくれない。

 使わなかった分はもちろん貯めてる。浪費なんて趣味持ってないもの。貯まれば貯まるほど……私の中でぐつぐつしたものも一緒に溜まっていく」

 強くなりたい。綺麗だといつも思っていた唇がそう動いたと知った直後、それは大きく歪んで嗚咽を漏らした。

「地元を離れたいっていう自分の願いは叶ったのに、どうして私は未だにこんな思いをしているの?」

 自分の両腕をぎゅっと抱きしめる、細い指先が薄いセーターに食い込んだ。

「一人でも生きていけるくらい、誰にも干渉されないくらい、強く、強く、強く……強くなりたい……っ」

 それからいくつかと彼女は声を絞って嘆いたけど、波の音とその声が細いせいでうまく聞き取ることが出来なかった。こぼれ落ちる涙が瞬く間に砂に吸われて乾いていく様子を、僕はただ無言で見つめていた。

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