7-2
このアドレスをメールの宛先欄に入力する日が来ると思わなかった。今日という日が来たのは、僕の中に残っていた人間らしい罪悪感のせいだった。
壊れた人間関係を積極的に再構築したいと思うような気力は、大学に入る前から毛頭なくなったと思っていた。でも今回ばかりは、自分がしでかした過ちをこれ以上放っておく事も出来なかった。
僕は迷っていた。
『この間はごめん。
本当は嬉しかった。でも、好きとか、正直よく分からないんだ。
でも左良井さんが僕にとって一番心を許せる特別な人なのは本当だよ』
薄っぺらい。僕の言葉はちゃちな紙飛行機のようだ。
「……いいや、消そう」
キャンセルボタンを押してポイとベッドの上に携帯を放る。椅子の背もたれに大きく体重をあずけ、逆さまの窓を見た。窓の向こうの曇り空を見ながら、心を許すってどういうことだろうとふと思った。
許す、と書くくらいなのだから、許可するとかそういう意味の〝ゆるす〟なのだろう。入場許可証みたいなのを僕がいちいち発行して、それを渡された人だけが入れる場所。
その様を想像する。それはとても違和感のある光景だった。
きっと、僕が許すんじゃない。僕は〝赦され〟ていないから、許すことさえ出来ないはずなのだ。
誰か、僕の心を赦してはくれないだろうか。
(ただの弱音だな……)
なんてね、と一人で呟いて財布を手に部屋を出た。夕飯、何を食べよう。
もやしが安くて大根と人参が残っていたから、ナムルを作ることにした。それに、焼くだけのハンバーグ、半額。
食べ終えた皿をシンクの桶に沈めておき、三十分くらいしたら風呂かな、と座椅子に腰を下ろす。ベッドに置き去りにしていた携帯が光っているのが見えた。
「えっ」
左良井さんからだった。本文を見る前に、もしかしてと思って送信フォルダを確認する。消したはずのメッセージが、送信済みフォルダに鎮座していた。
「送っちゃったのかー……」
送ってしまったものに返信が来るのは、なにも不思議なことではない。新着メールを選んで開くと、まず目に飛び込んできたのが、『嘘は望むだけだと思ってたのに』という一言だった。
『特別は、ただ一つだけの事を言うのよ。うそつき』
メッセージはそれだけだった。『冗談だけど』とか『というのも嘘よ』とか、発言を撤回する言葉は何一つ続いてはいなかった。
朝起きたときにカーテンの隙間からこぼれる日の光の、うすら明るいことだけはいつも変わらない。身体に当たるほとんどの光を遮ることで効果的に得られる睡眠という行為の必要不可欠さを考えると、光は人間を傷つけるものなのかもしれないとすら考える。眩しすぎる光は、毒だ。
ひとり暮らしの一日は家族と共に過ごすそれよりも長いと思う。僕が起きただけでは僕の周りは何一つ動きはしない。ベッドのシワを簡単に伸ばしながら、表情筋を伸ばすようなあくびを一つ。まだ起きない頭に聞かせるつもりでテレビをつける。リモコンの電源ボタンを押すだけで画面に映るのは礼儀正しいスーツ姿のアナウンサー。僕のテレビチャンネルの標準はNHKだ。
『次のニュースです。昨日……』
昨日は晩御飯を済ませてから今日提出のためのレポートに手をつけてそのまま寝てしまったから、ニュースを見ていなかった。心の痛むニュースが多くなってきたと言われ始めてからもう何年が経つんだろう。アナウンサーの緊張した面持ちは一種の技術のような、ベテランかどうかを見分ける程度の効果しか持たなくなっている気がする。
パッと画面は切り替わり、趣ある外壁の建物が映る。テロップに目を走らせると、僕は瞬間、音声情報を忘れて見入ってしまっていた。
『カンニングの疑い、二十一歳男逮捕』
さらに画面は切り替わる。イメージ映像として、ぼんやりとした受験中の大学らしい映像が流れる。
『男の供述によりますと、「去年同じ大学を受験した先輩が同様の手口で入学したのを聞いて、自分もやってみたくなった」とのことで……』
机の下で携帯を操作する様子のイメージ映像。そんなことがあって、誰も気づかなかったのでしょうか、とコメンテーターが顔を歪める。
『警察はその容疑者の先輩と見られる人物についても捜査を進めるとの事です』
カメラから目線を少しずらして、〝誰か〟に訴える専門家のカットに移る。無機質な声色に胸騒ぎがする。僕はある人の顔を思い浮かべる。
『だから私はここにいるの。失敗してなかったらここにはいないの——』
一度だけ聞いた彼女の出身地は、奇しくも問題の大学がある県だ。
『次のニュースです』
アナウンサーのその声調は、つい数分前に聞いたものとさして変わらなかった。
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