7. 一年生冬
7-1
所変われば、冬は悪くないと思った。
生まれ育った地元の冬は、真っ白だった。深雪に包まれた大地は景色の全てが微動だにせず、まるで死んでいるようだとさえ思う。白に包まれた音のない世界に僕は微塵もロマンを感じない。例えてみるならそれは死化粧にも見えた。
暖房をつける前の一人暮らしの部屋の窓は結露一つなく、シンと冷えきっていながらも何かに守られているような感じがした。外を覗けば薄く雪をかぶった車が一台二台と道路の上を行き来しているのが見える。生活が見える。生命が見える。
雪深くない冬は、悪くないと思った。
『暇なら飯でも』
冬休みの最中、そんな簡単なメールを寄越してきたのは永田だった。
『いいね、どちらまで?』
『うちで鍋だ。一人より二人の方が美味い』
鍋。季節に合った粋な事をしてくれる。
ぐたぐたと勢い良く煮汁が盛り上がってきたところで火を弱める。ネギを避けながら豆腐、しめじ、人参、豚肉と一品ずつ取り上げていく永田の皿にネギを二つ投げ入れる。
「ちっ……人がせっかく逃げてきたのに……」
「逃げてばかりの人生に終止符を打ちましょうね、永田くん」
にこりと笑ってみせ、僕は具材にポン酢をかけた。
「……お前、左良井さんと話さなくなったな」
永田が口をもぐもぐと動かしながらそう呟く。唐突ではあったけれど、僕はさして驚かなかった。まず、二人で鍋をしようだなんていう提案自体がそもそも胡散臭かったのだ。
「そうだね、まあ冬休みだし」
「休みに入る前からだろ。なんかあったか?」
「……何もないと言えば、嘘になるね」
汁の少なくなってきた鍋に水を足す。沸々と揺れていた液面が少しだけ静かになった。
「話すほどのことじゃないって思ってんのか」
永田がコンロのつまみを捻り鍋に蓋をする。
「研修旅行の時のこと覚えてるか? お前が俺に何て言ったか」
鍋に蓋をしただけなのに、部屋全体が真夜中のように静かになったような感じがした。壁の時計を見れば、まだ午後八時にもなっていない。
「『永田は永田であって、それ以上でも以下でもない』って言ったろ。変な言い方だったけど、変にキレイゴト云々言われるよりずっと嬉しかったよ。話して良かったって思った。だからお前になんかあったんなら俺は話を聞きたい。ただの好奇心とか興味本位なんかじゃねーぞ?」
「……どうして僕と左良井さんのことが気になる?」
取り皿の上の豚肉を一旦白飯の上に乗せてから口に運ぶ。柚子の香りがいつものように食欲をかき立ててくれない。
「お前、夏休み明けてから全然笑わねえんだもん」
箸が止まり、ポン酢の香りを大きく吸い込んでむせかけた。自己分析するまでもない、それは珍しく素直な自分の反応だった。
(敵わないな……)
僕は意地を張るのを諦める。
「永田は、女の人に対してどんなイメージ持ってる?」
なにをいきなり、と言いかけて永田は少し黙り込んだ。ふつふつと再び煮えてきた鍋に鷲掴みの白菜を放り込みながら口を開く。
「そうだな、めんどくせーって思う」
あまりに単刀直入な言い方に、僕は面食らう。そんな僕を鼻で笑って永田は話を続けた。
「今したいのは一般的な話なんだろ? じゃあやっぱりめんどくせえよ。ゲーム買う前から広告がうざいとか、セールスの店員がうざいとか、そういう次元のめんどくささじゃない。そうじゃなくて、勉強中に実家の犬がすり寄ってくるとか、RPGの敵の攻略が難しくてクリアできないとかそういう、愛らしいめんどくささに似てると思う」
それは、ゲームをさして嗜まない僕にもよく分かるたとえだった。女の人は何事も魅力的にしてしまう力があると思う。時に慎ましく時にきらびやかに、些細な綻びや歪みを隠してしまう。それは見た目にも、気持ちにも言える事だと僕は思った。
「僕は……好意が怖くて仕方がない」
真意の見えない言動に隠された本心に、あの頃の僕は気づけなかった。
「ありがたいとは思う。その人にとって僕という存在が周りに比べて特別に感じられることは、滅多にあることじゃないからね。
でも、それがいわゆる恋心とかになった途端、大きすぎて重すぎて、怖いんだ」
眩しい日々に隠された本当の気持ちを見過ごした僕は、無傷のまま二人の人間を傷つけた。
「それと左良井さんと、関係あんの? ……あっちち」
永田の怪訝な顔が、蓋の開かれた鍋の湯気に隠される。
「もっと早くに僕に会っていたら良かったって、言われたんだ」
永田の意外そうな顔を、僕はその時初めて見た。
「そう言われて、胸に飛び込まれた」
求められたわけでも、求めてきたわけでもなかった。ただ彼女は僕に少し体重をあずけただけで、何かされたわけでも愛を告げられたわけでもないのだ。
「僕の心はなにも動かなかった。いやむしろ、怖かった」
感情を動かさない自分自身を、一番恐れたのかもしれない。正直あの得体の知れない感覚は気味が悪くて、自分のことのはずなのに戸惑いを感じている。
「会った時から左良井さんと話すことは楽しかった。きっと僕にとって彼女はなにか特別で、彼女にとって僕もそうだったんじゃないかと思う。でも僕は、あの日の彼女の告白に戸惑っている」
「お前、左良井さんのこと好きなんじゃねえの?」
「好き? そんな低俗な感情なんか持たないよ」
「低俗って、お前……」
眉毛をヒクリと動かして永田がまじまじとこちらを見てくる。それはいつか見た、志摩さんの固まった表情にも似ていた。
「なあ越路、お前昔なんかあったのか」
昔? 僕には思い出せるような過去なんてない。
「何を根拠に。小説じゃあるまい」
強がって菜箸を鍋に持っていく。しかしちっとも食欲は湧かないので適当に白菜や水菜をちまちまと拾うに留めた。
「昔の嫌なことを思い出したり改めて言葉にするのは辛いけどさ、辛いけど、悪いことじゃねーと思うんだ」
「……」
「強要するわけじゃねーよ? ただ……おせっかいかもしれないけど……」
永田の言葉を待たずして僕は口を開いた。
「何もない。あったとしても、言えるようなことじゃない」
今にもその開いた口から何かがこぼれ落ちてしまいそうだった。ぐっと唇を引き締める。
「だからそれは」
「言って過去が拭えるわけじゃないだろう?」
永田の追及を遮って、吐きそうな何かを堪えてでも、それでも僕は言わなきゃ気が済まない。
「悪いけど、カミングアウトが自分を守ってくれるなんて僕は思ってないから」
それに僕は、何にも守られてはいけない存在なのだから。
ごちそうさま、と箸を置く。しかしここで席を立ってしまうと片付けを全部押し付けるようで、帰る事は出来なかった。行動が思い通りにいかなくて、少し苛立ちを感じた。
「お前って強情なのな」
「永田がしつこいだけじゃない」
こういう言い方が出来るのは、今後は永田くらいしかいないだろう。僕はそれに甘えたいのかもしれない。
「携帯出せよ」
「え?」
「いいからいいから」
話の流れにそぐわない要求に、僕は怪訝に思いながらも渋々と携帯電話を永田に手渡す。
「やっぱりな、俺が前使ってた機種と同じだ。奇遇だねえ」
俺はシルバーじゃなくて黒だったけどな、と呟きながら手慣れた様子で僕の携帯は操作されていく。そして永田は自分のスマートフォンを取り出し、僕のそれにかざし始めた。何をしているかはだいたい分かったけど、何がしたいのかが掴めない。
「ほら、入れておいた」
ポーンと投げられた端末を両手でキャッチする。光ったままの画面には『左良井真依』という名前と、見知らぬアドレスが登録されていた。
「顔合わせなくていい分、ちょっとは気楽だろ。少しくらい腹割れって」
「何で知ってる」
「今時アドレス交換は挨拶だっつーの」
呆れたけれど、不思議と胸のつかえが少し楽になっていた。話もしなければ、冬休みになってからは顔も見ていない左良井さんとの繋がりを得たわけだ。
「はは……腹筋何回くらいしたら割れるかな」
「そっちの『腹割り』じゃねーよ」
くくく、と笑う永田のその表情こそ、なんだか久しぶりだったような気がした。
「じゃあ、片付けようか」
僕の一言でこの話題は終わり、ささやかな鍋パーティーもお開きとなった。
きっとこのアドレスを使う事はないだろう、その時僕はそう思っていた。
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