6-4
鍋に水をたっぷり入れて、コンロの火にかけた。パチチチ、と小さな音を立てて蒼い炎が勢い良く燃え上がる。
『嘘をつかない方が楽しく笑えるよ』
先日の志摩さんの言葉が心に残っている。 嘘をつかない方が楽なら、例えば永田なんかがあんな風に苦しむことはなかったんじゃないだろうか。 泣きたい時に泣く事が楽なら、どうして人知れず涙をこらえる人がこれほどまでにいるのだろうか。
(そういえば……)
いつだったろう。少し前に、左良井さんとこんな話をしていた。
***
その頃の僕らの関心は「嘘」そのものについてだった。
「一つ嘘をつくとその嘘を隠すためにまた嘘が増えていく。だから嘘をついちゃいけないって——昔はよく言われたものだったね」
嘘にしたい世界の事も、出来る事なら消し去ってしまいたい自分自身の事も、僕たちはお互いを悟っていた。しかし悟るだけ。例えるなら僕たちは、皮を剥いて食べやすくした甘いリンゴの果実を少しずつかじりながらも、芯に近くて本当に甘い蜜の部分は晒さずにいたのだ。
「それを永田に言ったんだ、嘘は嘘を呼ぶ。それが嘘をついてはいけない理由になるのか……ってね」
「彼はなんて言ったの?」
「『嘘を使ってもいい相手と使っちゃいけない相手がいると思う』だってさ」
『真実をどこかで放出できていれば、どんなに嘘をついていてもいいんじゃないか。許されるかどうかは別問題だけどな』
彼はそのように付け足していた。そのことも左良井さんに伝えて、僕は肩をすくめて笑う。
「そんな考え方もあるんだなあって。目から鱗だったな」
意外にも、左良井さんはそっけなく答えた。
「目から鱗は言い過ぎよ」
「へえ、じゃあ左良井さんはこういう考え方が出来る人なの?」
「出来ないけど」
「じゃあ、目から鱗じゃないか」
呆れたようにため息をつく左良井さん。そんな表情も、僕は嫌いじゃなかった。
「驚きの発見っていうほどではないわ。ただ……綺麗すぎる」
その日の左良井さんは確か、普段おろしている長い黒髪を一つに束ねて右側に流していたと思う。
「真っ直ぐに生きてきた人たちの言葉は、凶器ね」
一瞬、左良井さんが『狂気ね』と言ったのかと思って背筋がひやりとした。真っ直ぐで、固くて強い気持ちが時に人を傷つけることは僕も知っている。あの人はそれで狂い、傷ついた。
「鏡みたいだって思うよ」
……思い出す事はしないと決めたことを思い出し、僕は無理やり言葉を紡いだ。
「僕たちは鏡に反射した光を見ているだけなのに、あたかも目の前に自分がいるかのように映るでしょ。それに似てる。自分で発した言葉を目の前の相手に届けているように感じているだけで、実は鏡に映った自分に言ってるだけなのかなって思う事もなくはない。
ほら、光は常に直進……だしね」
「曖昧な言い方ね」
左良井さんは困ったように呟く。
「なんにせよ、綺麗すぎるからと言ってそれを偽善と呼ぶと少し悪に寄りすぎる表現なのよね。上手く言えない」
「そうだね、あえて言うなら……『鈍感』だよ」
『泣きたいときに泣いた方が心はすっごく楽だよ……きっと』
親切にも言葉回しを探りながら、しかし生きにくい僕らの歩いてきた道のぬかるみを見ようとしない。そこに悪意はない。ただ、鈍いだけで。
「……うん、それ以上の表現は見つかりそうもないわ。だからといって私は自分が敏感だとは思わないけど」
「僕もそう思う。きっと鈍感にも色々あるんだよ」
僕らは僕らで、生きやすい道を選べない鈍さを持っている。誰もが歩けるような単純で平坦な道を、どうしてか選べない鈍さ。
納得したような腑に落ちないような、諦めたような表情で左良井さんはこの話に終止符を打った。
***
(……懐かしい)
あの日の志摩さんとのひとときは、この時を予測していたような会話だったなあと一瞬思ったけれど、きっと僕自身がこの日の会話を心に留めていて、それで志摩さんに意見を求めたのかもしれない。
頭がぼうっとしたまま、おもむろに鍋のふたを開けた。真っ白な湯気が大量に眼前を襲ってくる。
「あちち」
すんでの所で身をかわし、ごんごんと音をたてて煮えたぎる熱湯に、僕は慌てて乾麺を投入した。
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