6-3

 秋の陽は、つるべ落とし。陽が沈み空の赤の眩しさも穏やかになってきた頃、僕の足は大学のキャンパスを踏んでいた。

 総合大学のキャンパスはどこまでも広く、僕がどんなに歩いてもその縁を跨がせてはくれないように思わせた。夜風は濁りなく、その心地よさは僕の瞼を有無を言わせず閉じさせる。目をつむってしまうと広くて閉じられた空間に取り残されているような感じがして、見上げても見えない星の光を、薄い皮膚を通して眩しく感じていた。夜に飲み込まれていく世界の、今一番暗いところに僕は今立っている。

 —— もっと早くに越路くんに会っていたら、良かったのに。

 いつの間にか僕にすがる左良井さんの影を映していたらしく、僕はたまらず目を見開いた。あと数歩で階段、というところで足は止まっていて、そこから底なしに落ちていくような錯覚に僕の背筋は凍り付く。足が一歩、後ろに下がる。

 階段を踏むとき、普通は足元なんて気にしない。例えば左良井さんと一緒なら、いつも彼女の方を見ながら降りていた。どうしてこんなに浅い、何の変哲も無い階段を目の前に、僕の足はすくむのか。

 僕は何に怯えている?

 かつての日常から左良井さんというたった一つの要素が抜け落ちる、ただそれだけのことで動揺を隠せないでいる自分を無視することはもはや不可能だった。夏までのたった数ヶ月の間で、彼女が僕の日常を形作っていたことに今更気付いても、彼女はもう僕の隣には来ないだろう。自ずと僕が左良井さんに話しかけられる機会も、もうほとんど巡って来ないと言える。

 日常が失われた――世界を包む空気のように、「日常」が穴だらけの僕の人生を埋めてくれていたということに気付いたとき、僕はもう手遅れだったことを知る。

「ねえ、ちょっと」

 闇に沈み行く帰路につく僕の背中にかけられた低い女声。振り返って一番に目についたのは、拳ほどの大きな銀のリングピアスだった。

「時間ある? まあ、無くても来てもらうけど」

 タバコをくわえていてもおかしくなさそうなその風貌に圧倒され、僕は断る選択肢も与えられずついていく。



 ついてこいと言ってきたのは向こうなのに、講義室に入っていざ僕と顔を合わせた彼女は何を言うよりも先に小さく舌打ちをし、それを挨拶の代わりにした。彼女とこうして話すのはたぶん初めてだけど、彼女が何者かくらいは知っている。

「他の人ならともかく咲間さくまさんのお呼び出しを受けることになるとはね、光栄だ」

 同じ学科の同級生、咲間ひびきさん。左目を完全に隠す前髪が大きな特徴の一つだ。その小さい身体にも関わらず相手を物怖じさせる圧力を放つのは、両眼分の眼力が全部右目に集中しているからかもしれない。

 僕が少なからず驚いていることを、その言葉で伝えたつもりだった。

「……どうせ、色んな女にそう言ってるんだ」

 少し違う意味で受け取られてしまったみたいだ。僕の言い方も悪かったのかもしれない。以前永田に指摘されたことを思い出しながら、心の中で反省する。

「話したくないなら、呼び出さなければいい。咲間さんにそこまで言われる筋合いはないと思うけど」

 にこりと笑って見せる。ここ数年、僕は怒ることをしていない。それどころか、最後に怒った時のことが全く思い出せない。もしかしたら僕は、人生で一度も怒ったことが無いのかもしれないと、目の前の女の子そっちのけで考えてしまう。

 不機嫌なオーラは今にも僕に殴り掛かってきそうだった。穏やかじゃないな、僕は話を変える。

「ところで……最近どう? 左良井さんは」

 あれ以来左良井さんとの関わりはすっかり絶っていた。お互いがお互いを意識して避けているという感じだ。最近は左良井さんはと咲間さんが一緒に行動しているのをよく見かける。

「よく言うよ、『原因』のくせに」

 ため息混じりに咲間さんは呟く。合間に挟まる舌打ちが穏やかじゃない。

 ……『原因』?

「いや、咲間さんが左良井さんからどんな話を聞いているか知らないけど、」

 勢いよくほとばしった言葉はそこまでだった。『原因』なんていう言葉がそもそも根源に見当たらない。でも、じゃあ、どうして僕らは離れてしまったのか。

「『原因』なんてない。僕になにか不足しているものがあるのなら、確かに原因なのかもしれないけど」

 僕らはきっとお互いに特別な存在だった。特別という言い方が過度な表現なのだとしたら、お互いを補い合うような存在だったと言ってもいい。左良井さんは僕に自分の内面を話してくれた。僕は僕で、左良井さんがたまに見せるうっすらとした笑顔を、いつでも見たいと思って彼女と関わっていた。

 できることならもっと側に居たかった。それは紛れもなく本当なんだ。

「でも合わなかった、それだけのことだよきっと」

 どんなに僕が彼女を思っていても、どんなに彼女が僕を思っていてくれていても。左良井さんの求めるものがそこにないのなら、僕が変われないのなら、彼女の隣にいるのが僕である必要はない。

 むしろ、僕はいない方がいい。

「何考えてるのか、さっぱりわかんない。あんたも、真依も」

 盛大な咳払いは、おそらく僕を牽制するための音量だった。

「真依が、どれくらい君のことを思っているか、そのせいでどんな目に合っているか」

 素直に思いあっていれば、お互いに不足なところなんて何もない。僕は僕のありったけの思いを左良井さんに向けているつもりだったし、左良井さんもまたそうであったということは、これ以上ないほどに分かっている。

 でも、僕の身体がそれを受け付けないんだから、仕方がないじゃないか。

 言葉を選び、ゆっくりと息を吸い込んで、それでも咲間さんはいつもの落ち着いたトーンを保てていない。

「真依が君を好きになればなるほど、真依は自分を傷つける。心の中で何度も罪を犯してるの」

「罪?」

 キッと僕を見つめる咲間さんの視線からは、僕に対する敵意しか見つからなかった。

「どうして真依が君を好きになったのか、未だに理解不能。ま、理解なんて一生したくもないけど。

 真依は、後悔してる。あの日までずっと悩んでたって言ってた。

 思いの強さがあの子の心の中で重罪を犯す。何度も、何度も、それだけでは、飽き足りないくらいに」

 それまで単調だった声色は、『飽き足りない』の辺りからその張りを失っていた。しかしその弱さが言葉に真実味を持たせ、左良井さんの苦悩を滲ませる。

「『一番近くにいたい人の隣に、一番いてはいけないのは私なの』って。真依、そう言ってた」

 その言葉はあくまで「自分」を押し付けてこなかった。好きになった気持ちの責任を、自分で取ろうとしている。その自分の中の葛藤が、今の左良井さんを一番苦しめているんだと言うなら。

 ……それじゃあ一層、僕にできることなんて無いじゃないか。

「ちっとも表情が変わらないんだ。君、よっぽどだね」

 化け物でも見るような目だ。ズリ、と一歩距離を置かれる。もはや目も合わせてはもらえない。

「真依は君のことを一番に思ってる。でも同時に、依存して君を束縛してしまうことを一番に恐れている」

『やっぱり私に幸せは似合わない』

 彼女の言葉が頭をよぎった。彼女の言葉は、わかるようでわからないことばかりだ。

「こうして君と話していることも嫌なんだけどさ……真依にどういう経緯でばれるかわかんないからね。でも君の顔見て言わなきゃ、君は一生真依を傷つけ続けるんじゃないかって思ったから」

 この人が左良井さんとどうやって仲良くなったんだろう。こんなことを僕に言って伝えて、咲間さんは何がしたいのだろう。僕には何一つ理解できなかった。ここまで僕のことを嫌悪しているのに、決定的に突き放したり傷つけたりしてこない。左良井さんの気持ちを僕より先に知っておきながら、なぜか疎遠な僕に接触を試みる。

「咲間さんにとっては、所詮他人事じゃないか。どうしてこうまでするのか、僕にはそれが分からない」

 素朴な疑問に対する答えは、咲間さんからの平手打ちだった。右肩にかけていた黄土色のリュックサックがドサッと重たい音を立てて足元に落ちる。

「薄情者」

「なっ」

 情もなにも……。

「あんたの話をしてる時の真依が、一番幸せそうに笑うからだ。真依がなんで大学休んでたのかも知らないくせに、そんなことも分からないなんて、」

「えっ……」

 僕は咲間さんの右目に溜まった涙を見て、思わず声をあげた。しかし、零れそうなほどに溜まったそれが落ちる前に、咲間さんは僕に背を向ける。

「……君、人間じゃない」

 そう言い残して僕の前から立ち去った。唐突に、講義室がざわざわと騒がしくなった気がして、僕は辺りを見渡す。しかし見渡しても人影は一つもなくただ整然と机が並んでいるだけだ。

『全部嘘だったらな、なんてこと、あるよね』

 左良井さん、あなたはどうして『嘘』なんかを求めるんだ。

『もっと早くに越路くんに会っていたら、良かったのに』

 左良井さん、あなたはどうして僕なんかを求めたんだ。

『……君、人間じゃない』

 僕は、人間だ。僕は、誰よりもあの人を思っている。

「僕は……」

 僕は、僕とは、僕という人間は……。

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