6. 一年生秋

6-1

 日が暮れた後は、時計でしか時間の経過を判断できない。針は二〇時を指そうとしている。空腹感は感じないが、そろそろ帰らないといけない。

(あともう少し……三十分は勉強できるかな)

 大学から少し離れたところで一人暮らしを始めて半年。実家を離れて生活する学生の大半がキャンパス周辺のアパートを借りて住んでいる中、僕のその通学スタイルは不思議がられる。都会じゃよく聞く話だけれど、「四十分も電車に乗るの、大変じゃない?」と物珍しげに尋ねられるのはもう慣れたものだった。それにここは、贔屓目に言っても都会じゃない。

 狂ったようにとは言いがたいものの、時間さえあればなんとなく勉強していた。左良井さんみたいになんでもそつなくこなす姿は今でも憧れだし、なによりも他のことを考えずに集中できることが欲しかった。

(左良井さん、か……)

 随分懐かしい記憶から掘り起こされた名前のように感じた。胸に飛び込まれた彼女の香りを思い出すだけで、いつだって動悸は早まった。

 例えば誰かが僕に心はあるのかと尋ねたとして、僕はすぐに答えられない。むしろ、目に見えない心などというものをなぜ人は信じる事が出来ようかと思う。感情が面倒を引き起こすなら、感情が体調を侵すなら、僕は何も感じない。

 それでも僕は、生きている。

「あれっ」

 ノートから思考が離れかけていたところに、驚きの感嘆詞が飛び込んできた。

「こんな遅くまで勉強してるんだ。さすがだねっ」

 志摩さんの透き通ったような明るい声は、いつもみずみずしく潤っている。

「しかも眼鏡。レア越路くんって感じ」

「……ああ、これ」

 普段は裸眼でも生活に差支えはないが、勉強中になると多少のぼやけが気になるようになってきた。視力がいいのが数少ない自慢の一つだったけれど、それが一つ減ってしまった。

「志摩さんこそ、どうしてこんな時間まで?」

 ん? という表情をした後、バツの悪そうに志摩さんは笑った。

「ん……あたし、プログラミングの課題がまだ終わんなくて。時間ギリギリまで残ってたの」

 学生専用の学内パソコンの使用時間は午後八時までと決められている。基本的に棟内にはいつまででも残っていられるが、セキュリティの観点からパソコン教室はその時間には施錠されてしまうのだ。「ここ、いい?」 と聞きながら、志摩さんは僕の向かい側の椅子を引く。僕は唇を引き上げることを、その問いかけに対するイエスの答えとした。

 寒くなったよね、と独り言のように志摩さんが呟く。

「もう二ヶ月もすればここに引っ越して初めての冬になるわけだけど、こんなに寒いところだなんて思ってなかった。まだ冬休みにもなってないのにね。一人暮らしって特に寒い気がする」

「僕はもっと寒いところを知ってるよ」

「そりゃ、日本を飛び出せばいくらでも……」

 僕にツッコミを入れようと楽しそうに笑う志摩さんの表情がピシリと固まった。

「どうしたの、志摩さん」

 僕を凝視する志摩さんの視線がはらりと窓の外に向けられる。

「う、ううん、なんでもない! それより、暗くなってきたしそろそろ帰らない?」

 大学の周りに群れるアパート群から漏れる明かりが夕暮れに浮かんでいた。ここからの眺めも悪くないけれど。

「そうしようか」

 空調を消して、電灯のスイッチも切る。僕たちはここよりも寒いところへと歩みを進める。

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