5-3
怒涛の期末試験期間から開放されたのは、降りしきる雨の最中だった。前線がちょうど通過している真っ只中で、僕たちの夏休みの駆け出しはあまりいいものとは言えなかった。
帰り道、歩道を踏む靴に雨水が染み込んでくる。今日の試験の出来はまずまずだった。講義内で扱った項目を中心とした記述試験、自分の中にあるものを全て吐き出せた感覚が残っている。
ただ、不安なことはなくもなかった。僕は腕時計を確認するふりをして後ろを振り返る。
(今日も、いなかった)
同じ講義をとっていたはずの左良井さんを、ここ数日一度も見かけていない。今日の試験も、途中退席して早々に講義室を出る人がチラホラいた中、僕は時間いっぱい使って最後に退室した。やっぱり左良井さんの姿は見られなかった。
駅が近づく。中にはキャリーバッグを引いてホームに向かう人もいる。夏休みの実感が少しずつ湧いてくる。
帰省、か。少し離れた実家とその街のことを一瞬思って、すぐ頭から消した。
(今回は、パスしよう)
もう少し、もう少しだけ落ち着いたら。その方がきっといい。
見慣れた帰り道の風景は今日も変わらない。入学ガイダンスの日にこの道を左良井さんと歩いたことも覚えている。思えばあれからまだ四ヶ月しか経ってないのだ。夏草が茂ってきたこと以外に何が変わったというのだろう。
大学前の駅のホームで電車を待つ。ほどなくして向かいのホームに反対方向行きの電車が滑り込んだ。バタバタと足音を立てて降りていく人ごみのその中に、深い沼を歩いているかのような足取りを見た。それはその中であまりに異様で、人々はそれを鬱陶しがって避けながら改札に向かう。
それを見た僕は待合ベンチから腰をあげ、跨線橋の階段へと歩き始めた。反対側ホームへ近くにつれ歩調が自然と早まる。
「左良井さん」
足枷を付けられたような足取りは見ていても痛々しく、声をかけるのに少し体に力が入った。なぜ電車になんか乗っているのか。なぜ今更姿を表すのか。聞きたいことはたくさんあるけれど。
「試験は終わったよ、どうしたの」
「少し……具合が……」
「具合が悪いならどうして電車から降りてきたの。電車に乗らなくたって大学病院があるじゃないか」
彼女が唇を噛み締めたのが分かった。嘘をつくなとは言わない。ただ、今左良井さんがついた嘘は全然彼女を守れていない。
そんな無駄な嘘は要らないんだ。
「試験……追試も無理ね……。遅延証明書もなければ、病院の診断書もない」
「どこにいたのさ、事情を話せば教授だって手を打ってくれるかもしれないよ?」
「無理よ!」
ぐっと息を詰める。
「ここ数日ずっといなかったよね。……本当に、何かあったの?」
三ヶ月で変わるようなことなど大したことではないと、さっき思ったばかりだった。それなのに何かあったかと聞かれた瞬間に歪んだ彼女の表情にうろたえる僕がいる。
「越路くん」
怖かった。何にに対してなのかはまだおぼろげで、ただ恐怖を体が感じていた。
「いや、やっぱりいいよ」
「あたしは……」
「言わなくていいから。無理やり聞いてごめん」
言葉は都合がいい。どうしたのと問い詰めた僕が言わなくていいと気遣うフリをする。気遣う余裕など全くない、今だけはどうしても『聞きたくなかった』んだ。
乾いた唇を湿らせ、顔の筋肉を緩めて見せる。僕はいつだって笑える。いつだってそういう風に生きてきたのだから。
「まあ、学部一年生の前半の成績くらい長い目で見れば気にするほどのことじゃないさ。持っている実力を出せなかったのは残念なことだけど、実力を持ち合わせてないわけじゃないからね」
人の悲しい顔を見るのは好きじゃない。左良井さんのように些細なことで心を疲弊するタイプでない僕は、元気づける意味を混めて彼女の肩をポンと叩いた。触れた瞬間びくりと鋭く反応する彼女の様子に脊髄反射で僕は右手を引っ込める。
「あ、ごめん。触られるの、好きじゃなかったんだよね」
宙に浮いた手をとりあえず頭にもっていく。「いやぁ、あはは」と笑うのはあまりにありきたりだと自分でも思った。別の話題でもないかなと試験で疲れた頭をフル回転させようとしたときだった。
彼女が、音もなくこちらに歩み寄ってくる。会話の距離を超えて、いわゆる「僕の領域」の中に彼女が入り込んでいく。
「さらいさ、ん?」
僕たちは跨線橋の上。視界の端の窓の外の線路は空っぽで、人の動きはいつの間にかすっかりなくなっていた。
うつむく彼女の表情が分からない。僕が今の自分の顔を鏡なしで見られないように。ただはっきりと、彼女の額が僕の胸に預けられているのはよくわかった。
「……」
彼女の髪が僕の鼻先をかすめる。すりつけられる頬が衣服を越えて、僕の胸に溶け込みそうだった。
僕は、絶望に打ちひしがれる。美しい彼女が、僕のこれ以上ない側にいるというのに、僕の心は何も動かなかった。
(なんで……)
心音を高鳴らせて驚いたっていいだろう。飛び上がって喜んだっていいだろう。その細い身体を優しく抱きしめて、彼女の気持ちに応えたっていいだろう。
「左良井さん……」
それなのに僕は、場にそぐうような適切な『対応』を考えようとしてしまう。そんなのは間違っている——頭では、分かっているけれど。
「……っ」
気付けば、彼女は声を押し殺して泣いていた。彼女は先ほどよりもしっかりと、僕の頼りない胴体にすがりついた。自分にはもう僕しかいないというように、それはもう必死で抱きついてきたのだ。
ドクン、形なき僕の中の不安が、鼓動を理不尽に早める。これを彼女に聞かれたら、まずい。僕は、正直であることすら許されないのだろうか。
これはあの日の罰なのか。
「もういいの」
彼女の声は普段の落ち着きを欠いて上ずっている。どうして彼女がこんな行動に出たのか、混乱は僕の中で膨らむばかりだった。
「やっぱり私に幸せは似合わない」
薄い肩に触れて初めて感じた、それは左良井さんの温もりだった。
「もっと早くに越路くんに会っていたら、良かったのに」
怒りとも悲しみともつかない切なく寄せられた眉は、初めて見せる彼女の表情だった。
それでも目の前の彼女は美しかった。どんな言葉でも評価しきれない、まるであの日の——。
「でも……きゃっ!」
僕は慌てて、なにか言いかけた彼女を身体から引き離す。語るに記憶が怪しいけれど、多分突き放すように彼女の肩を押したんだったと思う。
「ご……ごめんなさい……」
「違うんだ。ごめん、気持ちは嬉しいんだけど……」
彼女は腰を抜かしてしゃがみ込んだ。立ち尽くした僕は彼女を見下ろすことしか出来ないでいる、それが僕をさらに責め立てた。
「……ごめんっ」
僕はその場から走りだす。「ごめん」と言い残すことが、そのときの僕の精一杯だった。
肩で息をする。どこをどう走ったのか全くわからない。踏切の遮断機に阻まれて僕は立ち止まった。ダッタンダッタンと目の前を通り過ぎる電車が、上りなのか下りなのかも分からなかった。
人からの好意も敵意も、適当に受け止め適当に流す。それで僕は今までの人生のほとんどをやってのけてきた。言ってしまえばそれは、僕の人生がそれでやっていける程度のものだったということでもある。
そんな適当な人生の前に突如現れたのが、左良井さんだった。彼女からの好意はとても嬉しかった。彼女は今の僕の興味を一番くすぐってくる人だった。純粋に僕は、彼女と仲良くなりたいと思っていた。
そして彼女が近づいた途端に、このザマだ。
僕の「純粋」とは一体なんなのだろう。彼女の身体が温かいことも、彼女の息遣いが僕の胸のあたりで繰り返されていることも感じていた。そして何より、ああして彼女からの気持ちを真っ直ぐに感じていながらも、それでも僕はそれを受け止めることをしなかった。僕の「嬉しい」はおそらく感動ではなく感謝だった。それを僕は知って、そこから逃げてここに至る。
遮断機はじれったいほどゆっくりと上がる。こんな細い棒で電車も車も歩行者も守られていることが、不思議でしょうがないと感じた。
「僕という奴は……」
僕は僕に失望する。それは、もはや感情を失った僕自身を哀れんだのではない。僕に好意を寄せてくれる人に対して、最高の『対応』が出来ないことに失望したのだ。
長い、長い夏休みが始まった。
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