5. 一年生夏
5-1
試験期間が近づくと、大学生活にまだまだ不慣れな一年生は肩身が狭く勉強する場所に困る。
「違うわ、今はy軸方向の微小区間について考えてるんだからそこの積分は……」
「あ、また間違えたな。そこは部分積分だってさっきの問題でも教えたじゃないか」
普段は一人で勉強しているはずの空間に、今日は三人の人間が詰め込まれていた。元々、たった一人で勉強するには確かに広すぎる空間ではあったけれど、やはり少々騒がしい。
「――っかぁー! 秀才はいいよな、一回言われりゃそれで理解できるんだろ!」
「ゴタゴタ言うな」
「……へい」
「ふふっ、越路くんが『ゴタゴタ言うな』だって」
永田は飲み込みは早いが基礎がなっちゃいない。よくこれで大学受験乗り越えられたね、と少し皮肉ってみたら「受験は頑張ったよ。ただ、それから三ヶ月ほど勉強から遠ざかってただけだ」だという。
(つまり大学生になってからちっとも……)
情けないことだ。言葉もない。
「真依ちゃーん、こいつひどくね? 真依ちゃんは優しく教えてくれるからいいけど越路はなんか偉そうだからやだ!」
子どもか。やだと言われて構うほど僕もお人好しじゃない。
「じゃあ僕はもう教えない。ノートも貸さない」
「……本気で言ってる?」
「嘘は言わない主義なんだ」
「ごめんなさい」
僕と永田のやりとりを見て、左良井さんがくすくす笑っている。口元は相変わらず右手で隠しながら、だ。
あーだこーだと言い合いながらようやく一問理解させたところで、部屋の入口に人影を見た。
「あ、あの……お取り込み中?」
「可那子ちゃん!」
くりっとした上目遣いが短めの茶髪とのギャップを感じさせる。前髪がピンで留められていた。
「それ、昨日出た課題だよね……? あたしも少し聞きたいことがあって……邪魔じゃなければ……」
「邪魔なんか思わねーって、なっ」
教えてもらってる君が言うな、とは思ったけど、
「全然、邪魔ではないよ」
嘘ではない。左良井さんの方に目を向けると、
「ええ、構わないわ」
と彼女は目を細めて言った。
「ありがとう!」
ひとつの長机に椅子が四つ、僕の向かいで左良井さんのとなりの椅子が空いていたので、志摩さんはそこに腰掛けた。ノートを広げて僕の方にくるりと向け、ここがわからないんだけど……と指で示してみせる。
「ああ、ここならさっき永田に教えたから永田から教わるといい」
「げっ……無茶ぶり」
永田のオーバーリアクションにはもう慣れた。
「さっき教わったことくらい教えられなくてどうする。自分がどう理解したかを伝えればいい」
「へーへー。じゃあちょっと席替わりますよっと……」
僕と席を替わり、向かい合うようにして永田が志摩さんに解説する。人と勉強するのはこんな風にペースが乱れて進まないので、あまり好きじゃない。
僕と左良井さんが永田にかけた時間よりも短い時間で、志摩さんは歓喜の声を上げた。
「わああ、すごい! 分かりやすかったよ永田くん!」
「へへっ、だろ? ま、越路と真依ちゃんが言ったことそのまま言っただけだけどな。感謝なら二人にしてくれ」
「ありがとっ。やっぱ二人、頭いいねー」
「まあ、講義聞いてれば分かるわよね。ちゃんとこの問題のこと言ってたし」
キュッとマーカーのキャップを締めながら、普段通りの調子で左良井さんが誰に目を向けることもなくそう言った。一瞬、空気が止まったのを感じた。
「……そこが違うんだよなぁー。やっぱできる人ってのは言うことも違うねぇ」
「ほんとほんと! まーちゃんは美人だし頭いいし、ほんとになにも適わないよ……」
ほう、と肩を落とし小さくため息をついた後、中身が入れ替わったかのように志摩さんは大きな目を目一杯見開いてがたんと立ち上がった。
「ちがっ……別に勝ちたいわけじゃないよっ! あ、あ、あたしごときが……めっそうもございませんっ!!」
ブン、と空を切る音が聞こえそうなくらいの勢いで左良井さんに頭を下げる志摩さん。その様子がなんかものすごく……。
「面白い」
気付けば、思った事が口から出てしまっていたらしい。志摩さんはそれを聞き流さなかった。
「面白くない! それに面白くったって、結局は美人とか可愛い方がお得なんだよっ! あたしこれと言って魅力も特技もないし……」
特技と魅力。それは君の何を守ると言うのだろう。 自分に自信がないと言いたいのだろうか。 自分に自信がある人間が、人生でどんな得をするのだろうか。
「志摩さんは、可愛いよ。特にその大きい目とか」
損得なんて裏と表の関係だ。永田を目の前にして見た目の価値を語る事はもう僕には出来ない。
だから、魅力や特技で人に損得を分け与える神様に媚びる事はないんだ。
「そ、そんなことないよっ! あ、もうこんな時間だね! あ、あ、あたしそろそろ帰るねっ!」
『帰るね』が『きゃえるね』になっていたことを指摘しようかと思ったけど、それは少し意地悪かなと思ってやめた。顔が真っ赤だし、きっと自分でも気がついているに違いない。
下へ参ります、とエレベーターがアナウンスする。機械の音が次第に下へと消えていったタイミングで永田が口を開いた。
「嘘つかない主義の越路くんに褒められちゃあ、舞い上がるのも仕方ないかなあ?」
「どういうことだ」
「あ、自覚なしですか……」
ったく、とため息をつかれた。僕の正面では左良井さんがノートと参考書を整理して帰り支度を始めている。
「私も帰るね。いい時間だし」
じゃあまた、と手の平を見せる左良井さんに指を振って応える永田。僕も右手を小さく挙げて彼女に応えると、いつものように唇だけで笑って彼女は部屋を出て行った。部屋は静かになった。
階段を一定のリズムで降りる彼女の足音が完全に聞こえなくなるのを待って、永田が小さくため息をついた。
「あのさぁ、左良井さんの前で可那子ちゃん褒めるのはまずかったんじゃね?」
永田は左良井さんのことを「真依ちゃん」と呼ぶくせに本人がいないと「左良井さん」と呼ぶ。僕のが感染っているのかもしれないけれど、一貫性がなくて奇妙だ。
「別に僕と左良井さんは付き合ってるわけじゃない」
「もし、だけどさ……。左良井さんがお前のこと好きだったらどうすんの? 今の聞いてすげえ傷ついたと思うぞ?」
「そういうものなのか」
「逆にだ。可那子ちゃんの嬉しそうな顔見たか? 自分が好きでもない子を惚れさせんのも罪だぜ。それともお前……可那子ちゃんのこと好きか?」
志摩さんの事が好き? おっちょこちょいで目が大きい事しか知らないような女の子の事を、どうして好きになるんだ。
「僕は別に嫌われたいとも好かれたいとも思ってないよ。それは左良井さんに対しても志摩さんに対してもなんら変わらない」
「……」
腑に落ちない、と永田の顔が言っている。僕は僕で、永田が言わんとする事が全く掴めない。
ただ、こういうことが今までに一度もなかったかと言われたら……素直にそうだと頷けないのもまた事実だった。
「わかった。今後は気をつけるよ。安易に褒めたりしない」
「ほんとに分かってんのかね……ま、いっか」
腹減ったーと永田が勢いよく椅子から立ち上がって膝を机にぶつけた、夏の近づく午後六時。
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