4-4

 夜の親睦会は、欠席させてもらうことにした。みんなの喧騒は遠く聞こえ、いつもいる世界から隔離されたような気分になる。

 部屋の鍵は、部屋にいることになっている僕が預かっている。そして今僕は部屋にいない。

(夜は流石に冷えるかな……)

 先程まで永田と話していたロビー。玄関と直結しているせいか、ふわりと揺れる夜風が指先を冷やした。

『日本で生まれて日本で育ったのに、物心ついた頃から外人扱いだ——』

 永田が、僕たちとは違う血を持っていることを知った。もちろん、人間というカテゴリからすれば全く異ならないけれど。僕はただ顔立ちが綺麗な細い男だと思っただけだった。それはきっと、アジア系の血も少しばかり混じっていたからだろう。もちろん本人から聞かないと真相は分からないけれど。

 日本で生まれ日本で育ち、得意な言語は日本語。それなのに彼が持っている見た目はいわゆる日本人とは少し異なるものだった。大学という空間で金髪という見た目は目立たなくなっただろう。カラーコンタクトという便利なもののおかげで青い目はうまく隠すことが出来た。

 そうやって彼が一番隠したかったのは、昔から背負い続けてきたコンプレックスだったのではないだろうか。

「薄着じゃ体に障るんじゃない?」

 予想しない方向からの予想しない声に、体全体がびくりと震えた。一応僕は、部屋で大人しくしていなければならない身なのだ。

「驚きすぎ」

「はあ、左良井さんか」

 そのまま就寝できそうな簡単な服装なのに、どこか洗練されたような雰囲気なのは彼女自身によるものなのだろう。

「左良井さん、親睦会は?」

「『具合が悪いから』休んだ」

 さらりと言いのける彼女に僕は言葉を失う。

「ふふ、こうしてみんなと違うことしてると、すごく悪い気がして気持ちいい」

 唇の形はあまり変わらないけど、声色でなんとなくわかる彼女の楽しげな様子。

「見かけによらず悪趣味なんだね」

「それが部屋を抜けてこんなところにいる人のセリフなのかしらね。……越路くんはそうは思わない?」

「わからなくはないけどさ」

 誰も困らない落とし穴を掘って楽しんでいた幼少期を思い出していた。誰にも見つからず誰にも咎められず、それでいて悪いことだという自覚だけを楽しむような感覚だ。僕はそのことを彼女に話した。

「落とし穴ね……面白いことしてたのね」

「最初は宝探しの気分で掘ってたんだ。それがいつの間にか目的が変わっていってね。それでも高々子どもが掘る穴でしかないし、団地の隅とか公園の砂場とか他愛ないところばかり掘ってたから、誰にも咎められなかった」

 善と悪が分かり始める頃、僕は穴を掘りながらその境界線を探していたと言うのだろうか。

「そういえば、さっき永田と話してたんだ。あいつ……」

 話題転換のつもりで口が滑ってしまった。いいかけて、口を噤む僕を左良井さんはつまらなそうに見た。

「彼は結局どこの人なのかしら?」

「あ……分かってた?」

「気づいてなかったの、越路くんくらいじゃない?」

 ……さようですか。

「そっか……そういうの疎くて」

 髪を切ったとか染めたとか靴が新しいとか見たことない服とか、本当に自分から気づいた試しがない。じゃあ僕は何で人と人の違いを判断しているんだろうと、たまに疑問に思うことがある。

「見た目が違うと、そんなに扱いが変わるものなのかな」

「環境によりけりでしょうけどね……彼は強いわね」

 自分の話のあと清々しく笑う彼の表情が記憶に新しい。彼はいつも爽やかに笑う。

「自分が経験した辛いことを話したあとにあんなに気持ち良く笑える自信、僕にはないよ」

 しんと静まり返ったロビーで話すと、言葉の一つ一つが何か特別な意味を持ってしまうような気がした。

「この間、聞いたこと覚えてる?」

「不幸と幸せの比率、かな」

 小さく顎を引いて、イエスと彼女は頷いた。

「例えば彼みたいに日本人離れした見た目を、私たちは安易に羨ましいとか美しいと思うかもしれない。でも、彼はそれが何よりも苦痛だったんでしょう」

 そうだ。それが僕の言うところの単一でない幸せの形。左良井さんはしばらく語り続ける。

「例えば地球が奇跡の星だなんて、私は到底思えないの。だってもし天体が今の位置関係に無かったとしたら、地球は生命の無い星だった。宇宙を研究して『これは奇跡だ』と思える生命体さえなかったのよ? じゃあこの奇跡は何と比較された奇跡なのかしら。

 自分たちがこの世に生を受けていることを奇跡と呼ぶのなら……それはあまりに傲慢な考え方じゃないかと思うの」

 全身に響く彼女の静かな声。そこに空気が存在することを、意識させられるようだった。

「例えば転落死するには、高いところに上らないといけない。高くて高くて見晴らしがいい景色ほど、落ちた時の衝撃は身を滅ぼすわ」

 ロビーの窓にはお洒落な格子がはめられていて、そこから床に差し込む月の光は細く黒い線の影で等分されている。

「太陽なんてもう、夜の前兆としか思えない。幸せなんて……」

 彼女はそこで言葉を止めた。もう語るのは苦しいと言わんばかりに、それ以上を語ることはなかった。

「それは本当だよ、左良井さんは正しい」

 ずっと黙っていた僕が口を開いたので、彼女はハッとして僕に視線をやった。

「でも、正しいことはそれだけじゃないよ。夜が太陽の前兆だってことも、本当だ」

 夢なら覚めないでくれと願う時、その瞬間人は昼の太陽に絶望しているというのは、言いすぎだろうか?

「昼の空を見上げても、地球の半分は夜なんだ。それが僕たちが生きている世界」

 喧騒が落ち着いて、がやがやとみんなが部屋の方に戻る気配がし始めた。

「そうと分かっていても、それでも夜が辛いなら……夢の中で昼に生きようよ」

 悪夢が辛いんじゃない、現実が辛いんでもない。

「夢を見よう。辛いことは全部夜のせいにしてしまおう。嘘より夢の方が、夢があるよ」

 今生きている現実が幸せだということが、何よりも、怖いんだ。

「全部全部、嘘だったらいいんでしょ。僕もその方が、都合がいいんだ」

 うつむいて一人笑う僕を、左良井さんがどんな目で見ていたか僕にはわからなかった。

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