3. 幸せと不幸の比率

3-1

 夏を爽やかに感じるまでは相当の時間が必要だと思う。まずは梅雨を乗り越えるまで。そして、暑さに慣れるまで。その覚悟を少しずつ固めながら初夏を過ごしていたある日のことだった。

 雨は降らなかったけど、太陽は雲に隠れて五分袖では肌寒いくらいの午前中だった。曇天の日の空は彩りなど微塵も感じさせなくて、僕の私服のようだと思う。鮮やかな色合いは僕を僕でない方向に追いやってしまって、服を着ているというより服に着せられてるという気分になってあまり好きじゃない。

 白でも黒でもない、灰色が好きだ。どっちにもつかず、それでいて周りと溶け込むのが好きだ。建物のコンクリートのようにありふれていて、曇天の雲はまるで空みたいな顔をして僕らの上にいて、誰にも気に留められない。

 薔薇色に対するのは灰色と、以前読んだ小説の主人公が言った。それに対して、貶めて言うなら灰色より無色だと別の登場人物は笑った。例えば今まで生きてきた二十年足らずの人生に色をつけるなら、僕は白地に一本灰色の線を引くだろう。真っ平らなところで、白でも黒でもない境目を付けてただ僕は歩いていたい。

 授業の合間の空き時間の上手な過ごし方をまだ模索していた。学部棟の休憩室の大きめの窓にかかる木漏れ日、部屋の基調である白色がまるで病院のようだ。雲間の空に一筋残った飛行機雲を見ながら、必修科目の予習の休憩にそんなことを考える。

「よ、越路。お前さんは真面目だねえ」

 どさ、と大きなモーションで彼は僕の向かいの椅子に座る。入学して三ヶ月も経てば、同じ学科同士の顔と名前は一致してくる。相変わらず大きくて黒い瞳だ。

 彼の名は永田けい。入学当初から変わらない明るい金の短髪が眩しい。整った顔立ちと体幹のしっかりした細い体格も相まって、永田くんとすれ違う女の人が必ずと言っていいほど彼の方を振り返るのをよく見る。

「前から気になってたんだけどソレは……自分でやったのかな」

「ソレってどれだ?」

 どれって言わなくてもその髪……と改めてまじまじと彼の顔に視線を注ぐと、僕はため息をつきそうになった。僕が言おうとした一番目に付く金髪の他、鈍く光る青いピアス、左手中指に付けられたシルバーリングは派手な作りをしている。これなら肩にタトゥーがあったり舌にピアス穴があいてたりしてもさして驚かないかもしれない。

 そこまで考えて、僕は自分が質問されている立場であったことに気がついた。金髪以外にも気になる点が増えてしまった。

「ええと……全体的に」

 言葉を選んだつもりではあるけど、伝わっただろうか。

 そんな僕の様子が面白かったのか、永田くんは弾けるように笑った。彼ほどに豪快に笑う人は、周りにはあまりいないかもしれない。

「なんだよー、びびんなくてもいいじゃん。ピアスなんか自分でやったけど痛くも痒くもねーし」

 青のピアスを確かめるように触り、彼は誇らしげに言う。

「今しかできないだろ?  大学出てもこんなチャラチャラしていようとは思っちゃいねえし。今までの自分とサヨナラーって感じだな」

 ひらひらと右手をたなびかせ、彼は笑った。眉間と鼻の間にくしゃっとシワができて、なんとなくそれまでと違う笑い方だった。

「まあ、確かに大学は自由だ。よく似合ってるよ」

 さんきゅ、と永田くんが答えると、会話は途切れた。僕は話題を見つけるのが苦手だ。勉強を続けようかと気持ちを切り替えようとしたとき、彼がなにかと呟いた。

「……は……よな」

「はい?」

 もご、とそれだけ呟いて、また僕と彼の間に沈黙が降りる。

「ごめん、聞こえなかったんだけど」

「いや、いい。なんでもねーよ。……そういや越路って、左良井さんと知り合いだったんか」

 突然の、予想だにしなかった質問に僕は永田くんの呟きを忘れ拍子抜けする。

「いや。なんでまた」

 なんでって、と彼はおかしそうに笑う。

「飲み会の時もなんか一緒に帰ってたし、よく二人で話してんじゃん。まだ入学して半年も経ってないのにあんなに仲いいほうが不自然だって。『付き合ってんの?』って聞かなかっただけ優しいと思えよ」

 彼の話を意識半分に聞きながら、最近は自分のことを褒めることに抵抗のない若者が増えたなあとぼんやり考える。『付き合ってんの?』と聞かれても不思議じゃないように見えるということは、周りのみんなもそういう風に思っているんだろう。それを聞いたら左良井さんは……いい気はしないんだろうな。

「なんでもないよ。入学式で偶然隣同士になって、それでよく話すようになったのは確かかもしれないけど。みんなの期待に添えないっていう意味では残念かもしれないね」

 永田くんの訝しげな表情に僕は少し不安になった。なんか、変なこと言ったかな。

「越路ってなんか面白いな。なんていうか、今までに会ったことないタイプって感じがする」

 見るものの気分を陰から陽に変える笑顔。不安は、どうやら杞憂だったらしい。

「早くしないと左良井さんみたいな綺麗な人にはすぐ男ができちゃうぜ? 頑張れよー、そこんとこどうなんだよ」

 ……おせっかいなやつ。知らないうちに、自分の口元が緩んでいたのに気づいた。

「どうって言われてもなあ……たぶんお互いにそういう感じではないんだよ、きっと。永田くんこそそこんとこ、どうなのかな」

「〝くん〟って。気持ちワリィから永田でいいよ。

 俺はそうだなあ……左良井さんも美人だけど、もうちょっとカワイイ系が好きだな。ほら、志摩可那子ちゃんとか。

 って、俺の話はいーんだよ。左良井さんってどんな人なん?」

 どんな人、か。この時初めてちゃんと言葉にすることかもしれない。

「どんな人かは……正直僕にもわからない。逆に、何も見せてくれないところが魅力的なのかもしれない。そうだね、みんなが思ってるほど僕は左良井さんのことを知らないよ」

 ふうん、と大層楽しそうに相づちを打った後、「大学生活なんてきっとすぐに終わっちまうよ。俺も何となく過ごしたくはねえな」と僕の肩をポンポンと叩いて休憩室を後にする。彼の姿が見えなくなると、彼が来る前よりもずっと静かな空間に残されたような感覚を覚えた。

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