2-3

 浅く短い眠りを何度か繰り返し、日が昇るのをカーテンの隙間から見ていた。適当に早い電車にでも乗って帰ろうと思っていたが、帰り支度を終えてはたと気がつく。

(左良井さん起こさないと、玄関の戸締まりが出来ないや)

 窓辺のベッドで横たわる左良井さんの寝息は、昨晩に比べてずっと安らかだ。

 —— だから私はここにいるの。失敗してなかったらここにはいないの。

 昨日の話は鮮明に記憶に残っていた。きっと、酔って感情が少々高ぶってしまったのだろう。他人の秘密を言いふらすような趣味は無い。左良井さんが望まない限り、僕は昨夜のことは誰に言うつもりも無かった。

 枕元にしゃがみ込み、左良井さん、と声をかける。薄く開いた目の端に涙の跡をみた。

「僕、帰るよ。長居してごめんね。玄関の鍵だけ締めてもらえると安心なんだけど」

 二、三秒の沈黙のあと、恐ろしいほどの大きさに見開かれた両眼に僕は腰を抜かしかけた。瞬く間に掛け布団をブワッと音がするほど勢い良く頭まで引き上げて、左良井さんはその中に潜った。

「わ、私が、部屋に呼んだんだっけ……?」

 どうだっただろう、正直僕の記憶も怪しい。

「いや、まともに立てなそうだったから僕が肩を貸したんだ。少なくとも左良井さんが呼んだわけではないし、その……」

 記憶ってどれくらいのことまでなくなるんだろう、と思いながら付け足した。

「心配されるようなことは何一つ、してないよ」

 酔った女の子に手を出すほど、僕のモラルは低くない。

「それはわかる」

 そういって布団の中で左良井さんが小さく笑ったのが聞こえた。肩の緊張がほぐれる。

「そりゃよかった、どうやって証明しようかと思ってたところだったんだ」

 ごそりと目元だけ布団から出して、左良井さんは目を細めてまた笑った。

「帰るんでしょ、見送るよ」

 ようやく話がついた。彼女の様子を見るに、一晩看病したとはいえ、もう僕がここにいる理由はなさそうだ。

「ああ、うん。じゃあおいとまします」

 外出用の小さい鞄、ハンカチその他諸々……うん、忘れ物はない。昨日の記憶はまだあるから、ここから駅までの道のりはたぶん分かる。今ここを出て少し急いで歩けば乗ろうと思っている電車には余裕で……。

「さ、左良井さん?」

 ベッドから二、三歩歩いたところでうずくまる彼女。苦しそうに頭をおさえる仕草。二日酔いの頭痛? いやもしかしたら汗をかいたまま夜風に当たったせいで風邪を引いたのかも。いやまさか持病とか。僕がすべきことは? 薬、救急車、エトセトラエトセトラ。

 瞬時に頭を駆け巡った不安は今思い出そうとしても数えることが出来ないが、とっさにとった行動僕は確か、安静になれる体勢づくりを手伝おうとしたんだと思う。

「だいじょ……」

 パシッ——。

 慌てて駆け寄り肩に触れようと差し伸べた手、それは冷たく振り払われた。彼女の爪が当たったせいか、手の平に薄く赤い線が残る。

「ご、ごめん」

 震える瞳は僕の手のひらと彼女自身のそれを交互に見比べていた。

「わ、私こそ……。謝らないで。人に触られるの、好きじゃないだけ」

 気の効いた言葉が一つも浮かばなくて、そうなんだ、と呟くことしか出来ない。

「触れるっていうのは、深い関係の人しか入っちゃいけない気がして……苦手なの」

「はは、大げさだなあ。でもわかった、今後は僕も気をつけるよ」

 落ち着きを少しずつ取り戻している左良井さんを見て、理解よりも先に余裕を取り戻す。

「……変だと思わないの?」

「いや、別に。そういう人もいるでしょ、すごく潔癖な人は手袋しないと物に触れないっていうじゃない。でもそういう人がいても僕はそれを変だとは思わない。人に触られるのが苦手なんて、大した問題じゃないよ」

 どうしてそうなのかまで聞くのは愚問だ。それこそ肌に触れることよりも深い話になるだろう。

「ねえ、左良井さん」

 ただ、同じ愚問を投げかけるなら僕は別のことが気になっていた。冷や汗が彼女の額を伝うのが見える。余程頭が痛いのだろうか、二日酔いになったことがない僕には分からない。

「どうしてそういうきわどい話、僕なんかに出来るの? まだ会って間もないのに」

 入学式から二ヶ月。六十日は、間もないと言える時間だろうか。

「わからない。でも、越路くんなら話してもいいかなって単純に思えただけ。実際、越路くんは自分の意見とかを押し付けてこないから話すのが楽だった」

 『わからない』。それは昨日の夜にも聞いたセリフだった。

「私、人と話すのは苦手なくせに、自分のこと知ってもらうのは嫌いじゃないみたい。もちろん、誰にでも言いふらすわけじゃないけど。

 知ってほしいって思える人に会えたら、秘密も弱みも余すことなく曝け出したくなっちゃうのよね」

 ふふっと笑ったあと、露出狂と何ら変わらないわよ、と冷たい声色で彼女は吐き捨てる。

「きっとそれは、そう思える人を私の近くに縛り付けておきたいからだと思う。『あなたにここまで心を開いてるの、私にはあなたしかいないのよ』って言ってるみたいで……やっぱり嫌な奴ね、私って」

 自分をさらけ出すことを、彼女は少なくとも恐れてないのだと言う。僕はそれを興味深いと思った。

「僕は嫌だと思わなかった。それだけじゃあダメなの?」

「『それ』って?」

「左良井さんがどう思っているかはともかく、左良井さんが自分のことを少しずつ打ち明けてくれることを僕は嫌だと思わなかった。それでいいじゃない。どんどん話してもらって構わない。僕はむしろ、大歓迎だよ」

 僕と彼女が違う感覚を持っているのは、僕が彼女じゃなくて、彼女が僕じゃないからだ。彼女がどんな生き方をしてきて、僕がどんな生き方をしてきたかなんて聞かなくてもいいことだし、そういった過去に関しては全く興味が湧かない。

「話せそうな時が来たら、僕もなにか話せるといいな」

 僕は思い出すことをしばらくしていない。それでもいつか誰かに話すような日が来るのだろうか?

「じゃ僕出るよ。また来週、大学で」

 立ち上がり、僕は振り返らずに左良井さんの部屋を後にする。今彼女の顔を見たら、僕はきっと思い出そうとしてしまうだろう。それがまだ今の僕には恐ろしいことだった。

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