2-2

 ようやく落ち着いた彼女に、ベッドまで肩を貸す。横になったところで辛いことには変わりないのだろうが、一度眠ってしまえばしばらくは安静でいられるだろう。

 彼女は目をつむったまま呼吸をしている。たまにうめき声を上げているから、きっとまだ眠れていないのだろうと分かる。人の寝顔を見るのはいい趣味じゃない、物音を立てないように帰り支度をする。

「黙られると、辛い」

 狭いこの部屋の中でさえ響き渡らない、しかし僕にはかろうじて届いた彼女の声。

「何か、話して。……なんか寂しいから」

 就寝前に物語をねだる少女のようなセリフだ。しかしその弱々しさと気怠さで、普段のイメージとはほど遠い響きになる。

 そういわれると、立ち退くことが罪深い。僕が帰り支度をしていたことに気付かないでそう言ったのかもしれない。仕方ない、とソファの上のクッションを一つ失敬して床に座り込む。さて、何から話そうか。

「……今日はいい反省になったでしょう?」

「うん」

「今度からは自分のペースで飲もうね」

「……うん」

「左良井さんが飲み会に参加したこと自体驚きだったけど、」

「うん」

「酔いつぶれるなんてもっとびっくりだ」

「うん」

「それを僕が介抱することになるとはね。世の中何が起こるか分かんない」

「……うん」

 さっきから「うん」しか言わない彼女。それが返事なのか苦悶のうめき声なのかを聞き分けるのは至難の業だった。

「そんなに楽しかった? 歓迎会」

「わからない」

 初めて「うん」以外の言葉が返ってきた。そして彼女の方から聞いてくる。

「越路くんは、この分野好き?」

「人付き合いのこと?」

 枕と頭との摩擦の音をゴソつかせて、彼女はゆっくりと一度だけ首を振った。

「ううん。学部とか、学科のこと」

 話が唐突で脈絡がないのは、彼女が酔っているからだと思った。

「好きじゃないと、選べないと思うよ」

 僕は思う通りに答える。大学は、そういうところだと思っているから。

「左良井さんは、好きじゃないの?」

「好きだよ」

 即答だった。なら、なぜそんなことを聞くのだろう。

 聞くより先に、彼女が話しだした。目をつむったままで、それはまるでうわ言のような告白だった。

「好きだよ、だから選んだ。――だけど、行きたかった学部じゃない」

 静かな語り口。僕は、先ほどと似たような心のざわめきを覚えた。

「行きたかった学部はここじゃない、他にあった。でも私はそこに行けなかった。だから好きなことを学べるここを選んだ」

 ふう、と彼女は細くて長い息を吐く。

「この歓迎会が楽しかったかどうかなんてだから、わからない」

 彼女は苦しいはずなのに、語ることをやめない。僕が口を挟むいとまもない。

「『行きたかった』っていう思いが本当に自分の中からわき起こっていたものだったかも、もうよくわからない。足りない偏差値を埋めようと頑張って、センター試験で見事に失敗して。それでも筆記試験に臨んだけど、やっぱりだめだった」

 彼女の話は、彼女が泥酔していることを差し引いたとしても、とてもよく整理されていた。

「だから私はここにいるの。失敗してなかったらここにはいないの」

 きっと彼女は、心の中で何度もこのことを反芻していたに違いない。 そして彼女は繰り返す。

「この歓迎会が、楽しかったか、どうかなんて」

 さっきと同じセリフを、文節を細かく刻みながら。

「だから、わからない」



 単調になった彼女の寝息を聞きながら、僕は段々と眠気を覚えてきた。

 なぜ彼女は僕にこんな話をしたのか。

 なぜ彼女は僕を部屋にあげて、留めたのか。

 それらは論理とか裏付けとかを考慮に入れることのないただの疑問。考える余力はもう残っていなくて、手の平で転がして弄ぶだけ。

 彼女の行きたかった学部ってどこだろう。学部そのものを変更するくらいの選択――一体どんな気持ちだったのだろう。

 きっと彼女は、芯の強い人間に違いない。そのような選択に踏み込めた人間。そして。

(僕にそんな強さはない)

 水を求めて真っ直ぐに見つめてきた今日の彼女の視線を思い出す。それに迫力を感じたのは、見つめてきたのが彼女だったからだ。彼女は普段、人と目を合わせることをしない。そういえば先輩達と話していたときも、彼女はややうつむき加減だったり、グラスの中のお酒を見つめていたりしていた。彼女に見つめられたから僕は。

(僕は……?)

 そこでふと、新たな疑問に突き当たる。

 だから僕は、なんだと言うのだ。

 僕はなぜ普段の彼女のことを知っている風な口ぶりが出来るのだろう。

 一瞬思って、まさかね、と苦笑した。そんなわけあるか、まだ入学して二ヶ月だというのに。

 確かに、彼女には入学式当初から興味を持っていた。まだ寒かったとはいえ、入学式の雰囲気でざわついていた控え室の中で一人、虚空を見つめていた彼女。まだ僕の記憶には十分新鮮だ。彼女が僕に向かって言った言葉。『全部嘘だったらな、なんてこと、あるよね』。それに僕は『例えば……この、入学式とか?』と答えた。『気の利いたこと言うのね』、彼女はそう言って爽やかに笑った。しかし今日彼女の話を聞いてもなお、この会話は繋がったようで繋がった気がしない。

 彼女の容態が落ち着いたら終電にでも乗って帰ろうかと思っていたけれど、介抱して話し相手になっているうちに終電の時刻も過ぎてしまった。何より、帰ろうという気力がもはや僕には残されていなかった。酔いと疲労が、睡魔に変貌して全身を襲う。そのせいか、彼女の話も印象を薄くしていく。抱えていた両膝を伸ばしながら左良井さんの身体が横たわるベッドを背もたれにして、そのまま体重を委ねて瞼を閉じる。

(どうしてこんなに、左良井さんのことが気になるんだろうな)

 にわかにやってきたまどろみには、疑問符が尾を引いた。

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