3-2

「永田くんと越路くんが話してると、なんだか先輩と後輩みたいね」

 音も無く僕の前に現れた左良井さんに、僕はひえっと奇声を上げて驚いてしまった。いつ、どこに、なんで……その他5W1Hありったけの疑問が駆け巡る。

「何その声? 変なの」

 いつものことだけど、くすくす、という擬音で表現しても余るほどの控えめな笑い方だ。僕の向かい側、さっきまで永田く……永田が座っていた椅子に音もなく座る彼女。右手で頬杖をついて外の景色を眺める彼女は「へえ、ここから海も見えるんだ」と楽しそうにつぶやいた。所作美人ってこういうことを言うのかもしれない。

「あー……大した話はしなかったはずだよ」

 僕のしどろもどろな様子は完全に相手にされなかった。

「何も見せてないつもりは無いわ。知りたいことがあれば、答えられる限りなんでも答えるわよ」

 そう言って、頬杖をついて左良井さんは何も言わなくなった。なんだ、しっかり聞いてるんじゃないか……。楽しそうな視線が僕の口元に注がれる。

「ほら、なんでも聞いてみて」

 どうしてみんなこう、唐突な質問が好きなんだろう。

「じゃあ……好きな食べ物」

「あんみつ」

「最近読んだ本」

「ノルウェイの森」

「旅行で行ってみたいところ」

「日本中の水族館めぐり」

「あとは、うーん」

 淡々と答える調子に飲まれて質問が思いつかなくなってしまった。

「越路くん、本当にそんなことにしか興味ないの?」

「じゃあ、左良井さんなら僕になんて聞くのかな」

「そうね……じゃあ越路くん」

 やっぱり左良井さんは目を合わせることをしない。空中のなにもないところをただ見つめているだけだ。

「今までの人生、幸せと不幸の比率はどれくらい?」

 ……また、面白い変化球投げてくるなあ。

 左良井さんはショルダーバッグからミネラルウォーターを取り出して、一口口をつけた。白いプラスチックのギザギザにすぼまる唇が、入学式の時に見たときと変わらず紅くて綺麗だ。

「何が幸せなのかわからなくなってきたのよ。楽に生きること? 自由に生きること? 思い通りに生きること? どれもなんか、違う気がする」

 僕の方をチラと伺う。口元が少しくすぐったくなる。

「幸せなことがあれば、すぐにつらいことがやってくる。甘いものの後に辛いものを食べるのとは比べ物にならないくらい、それってつらいことなのよ。じゃあずっと甘いものを食べていれば幸せかしら?」

 違うわよね、と彼女は自分で答えた。僕も、食べ物の話に限ればそうだと思う。甘い味しか口にしなければ、いずれ甘さを忘れてしまうだろう。他の物に比べて甘いから、甘いものは幸せな気持ちを与えてくれるのだ。

「幸せが、単一なものだったらきっと気楽だろうね」

 僕がそう声にした時、左良井さんが少し安心したような表情を見せたのがわかった。

「今こうしてお互いの考えを話す時間が、僕にとっては楽しくても、左良井さんはつまらないと思っているかもしれない。僕にとって、『僕が楽しいと感じること』が幸せなら僕は確かに幸せだ。でも、もし僕が『左良井さんが楽しんでいること』を幸せだと思うなら、左良井さんが楽しんでいないということは僕を不幸にさせる」

「楽しいわよ?」

「例えばの話だよ」

 左良井さんは不満そうだ。

「つまりね、幸せっていうのは利己的か他己的かだけでガラリと変わってしまうんだよ。自分にとって都合のいい解釈だけしていれば、人は誰だって幸せになれるよ」

 きっとね、と付け加えることを忘れない。僕は真理を説いているわけじゃない。

「ただ、相手を思いやって幸せになっているつもりが相手にとっては迷惑だったりすることもあったりするから、人間が二人以上いると面倒だなって思うことはあるよね」

 迷惑、二人……左良井さんはそうつぶやいた。

「そうね……そうはなりたくないって思ってるから幸せになれないのかしらね」

 諦めたような表情は、なんとなく親近感が湧いた。

「何でもかんでも自分が関わってるって思わなくていいんじゃないかな。ある程度距離を置くというか……相手と自分を重ねすぎてしまうとどうしても自分が負う傷が多く深くなっていくよ。負う傷は自分の分だけで十分だ」

 目をつむってうつむいて、左良井さんはしばらく考えにふけっていた。目をつむると切れ長な目がとても綺麗な形をしているのがよく分かる。

「傷の上に傷が重なっても、もうなんとも思わない」

 うっすらと目を開け、細い顎を支えていた両手を解き、左良井さんは椅子から立ち上がってそう言った。図書館でのひと時を思い出させる動作だ。

「私は、他己的でいたいと望む、最も利己的な人間かもしれない」

 左良井さんが立ち去った静かな休憩室で、あの疲れたような表情が彼女の『傷跡』なのだろうかとぼんやり考えた。

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