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 入学式がひと段落した後、別日に学科別のガイダンスが予定されていた。僕の所属する学科は総勢三十五名。一クラスというには若干少ないくらいの人数だ。どうせ今日のガイダンスだって大学側にとっては毎年のこと。形式的に終わるに違いない。僕の予想だと、予定よりも二十分は早く終わるだろう。

 指定された講義室に入ると、もう結構な人数が待機していた。その次に、見覚えのある黒髪が目に入った。彼女は開いた扉のほうをちらと窺って、入室したのが僕だと分かった瞬間、あ、と小さく口を開いた。

(同じ学科だったのか)

 思い返せば、入学式当日に持っていた受験票さえ見ていれば、その色で彼女が同じ学科だったか否かはその時に気付けただろうに。あのときはそんなこと気にも留めなかった。

「コシジ、ケンタさん」

 学務担当の教授が一人一人呼名し、重要書類と思しき封筒を手渡していく。名簿順なのはわかるけれど、自分の前後の人の名前なんて全然わからないから、おとなしく自分の名前が呼ばれるのを待ってから席を立った。

「サライ、マイさん」

 僕のすぐ後、その名前が呼ばれたとき例の彼女が席を立つ。

 履修に関する注意、大学生活の有意義な過ごし方……。ガイダンスは予想通り形式的に進められる。これからの大学生活も、これくらい形式的でありきたりな時間となってしまうのだろうか、とふと想像したりしながら、時間が過ぎていくのを待つ。

 予想通り、ガイダンスは一時間足らずで終了した。予定時刻より三十分も早い。教授たちがそそくさと講義室から出ると、数少ない女子学生たちが部屋の中央に集まって話していた。

「一、二、三、四、五、六? あれ、一人足りない?」

 よく通る大きな声が人数を数えている。

「女子って何人だったっけ」

 ボーイッシュな見た目に似合わない、可愛らしい声がそう尋ねた。

「七人。確か、サライさんっていう人がいたはず」

 前髪の長い女の子が低い声ではっきりと断言したかと思えば、

「もう帰っちゃったんだ……早いね」

 言葉尻の消えそうな声で呟いた女の子は、長身を引き立てるロングスカートを穿いている。

 そんなこんなで口々にさまざまなことを呟きながらも、女の子たちは各々自己紹介をし始めた。名前、出身地、高校時代に所属していた部活動……。六人がそれぞれの話をするだけで、会話は盛り上がりを見せ始める。

(これじゃあ、帰りたくもなるね……)

 僕は講義室を後にする。口元を少し、緩めながら。



 大学から駅までの道は一直線に長く、考え事をするには十分すぎる。電車に乗り込んで座席に着いてしまえば忽ち眠りこけてしまうから、僕はこの道を電車に間に合うくらいのペースでゆっくりと歩いて今日までの様々なことを反復していた。 

 入学式の控室で彼女が僕に発した言葉。

『全部嘘だったらな、なんてこと、あるよね』

 これが僕の心を熱くしてやまない。全部嘘だったらいいのに、か。彼女はすべてを嘘にして、どんな真実を求めるのだろう。

 そして、あんな話をどうして僕にしたのだろう。あの席に僕以外の人間が座っていたら、彼女はその人に同じ話をしただろうか?

 ――いや、それはなさそうだ。僕は小さく頭を振る。彼女が僕のほうに目を向けたのは、僕が彼女を穴の開くほど見つめていたからだ。それがなければ彼女の視線はずっと時とともにあの辺を漂っていたに違いない。

 あの日のことを思い出しながら歩いていたせいか、僕の視線も定まらないままだったみたいだ。

「同じ学科だったんだね、コシジくん」

 突然のことに戸惑いながらも、記憶をたどって言葉を紡ぐ。

「ええっと……サライさん、だっけ?」

「正解」

 今さっきまで頭の中で思い浮かべていた顔が、突如現れてニヤリと笑った。

「それにしてもコシジなんて珍しい名前だね。私、初めて聞いた」

「えっと、山を越えるの『越』に道路の『路』って書いて『越路』。確かそういう地名があったはずだよ。で、謙虚の『謙』に『太』いで『謙太』。

 そういうサライさんこそ、珍しい名前じゃない?」

「まあね。『左』に『良』い『井』戸で『左良井』。字面だけ見て正しく読めた人に会ったことはないわね。ちなみにマイは『真』実に『依』存するで、『真依』」

 そう言って苦笑いを一つ。そのまま左良井さんは僕の隣を歩く。

「左良井さんは一人暮らし?」

「ええ。地元が遠いから」

 告げられた県名は、こちら側から見てフォッサマグナの向こう側だった。確かに近くはない。

「さっきまでそこのコンビニに用があって。越路くんは実家? この先は駅よね」

「いや、アパートに一人で住んでるよ。電車で四十分くらいかな」

「ずいぶん遠いのね。近場なんていくらでもあったでしょうに。朝早起きしなきゃで大変そう」

「僕はむしろ夜更かしのほうが苦手だから、ちょうどいいんだ」

 他愛ない話を何分も繰り広げていられるほど、僕は話上手でもなければ聞き上手でもない。それは彼女も一緒のようだった。まあ少し考えれば、もしどちらかでも話し上手だったなら、入学式の日はもう少しマシな話ができたはずだとわかる。

「今日も、つまんなかったね」

 彼女は涼しい顔で唐突に言った。確かにそうだ、今日もつまらなかった。彼女は当然のごとく僕の歩く方向に一緒に並んでいるが、アパートはこっちにあるのかな?

 あーあ、と彼女は石を蹴った。

「全部全部ばかばかしい」

 彼女の言葉はどこか投げやりで、蹴られた小石は変にコンクリートにバウンドして道の脇の畑の土にまぎれた。

「でもこんなにばかばかしいと思っていながら、そんなばかばかしい世界で仕方なく生きている私が、きっと一番ばかばかしいのね」

 さらさら死ぬ気もないくせに、大学まで行ってさ。彼女はつま先にそう、吐き捨てた

「越路くんは、どんなふうに考えながら毎日を過ごしてる?」

 その前の文脈さえなければとてもロマンチックなセリフだったのに、と思ってつい笑みがこぼれてしまった。

「そうだな、考えても仕方ないって考えてる」

 なんとも拍子抜けした表情だ。 僕は気にせず続ける。

「考えてないわけじゃない。いろいろ考えてはいるよ。僕にできることなんて、僕以外の人にもできるようなことばかりだろう。じゃあ僕がいなくたってこの世界は成り立つし、僕がいることで世界に何か変化が訪れるわけでもないんだと思う。

 でも結果論として僕は命を授かってここにいるわけだし、僕が歩む人生ばかりは僕にしか作れない。生き方を考えたところで歩くことはやめられないんだから、考えないことにしてるんだ」

 彼女は僕の話を真剣なまなざしで聞いてくれた。きっと、話している僕よりも真面目に。僕の考え方は言ってみれば思考放棄で、結局は面倒という理由づけに帰着するにすぎない。

「私には、そんな風に考えられない。けど、なんだろう」

 眉間のしわを人差し指で伸ばしながら、彼女は呟いた。

「すごくそれ、うらやましい」

 駅へとつながる連絡通路が目の前に来た。

「私は、この世界が全部嘘だったら、悩む必要もないのにって思ってる。だから全部嘘なんだって信じることで、悩むことに一時停止をかけてる――そんな風に生きてる。ほら、私ってばかばかしいでしょう?」

 その言葉を最後に手の平をひらひらと振って、彼女は今二人で歩いた道を戻って行った。見送りもそこそこに、僕は階段を上って狭いホームに着く。腕時計を確認すると、電車はあと数分でやってくるみたいだ。

 『ばかばかしいでしょう?』という言葉が痛く心に響く。そんなことないよ、なんて言えなかった。きっと誰が何と言おうと彼女のその信念は曲げられないのだろうから。

 この世界が全部嘘だったら、か。もしそうなら、僕は何を真実にしたいと思うだろうか。

 薄暗いホームから春先の寒空に聞いたところで、そこに僕の答えはない。

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