すべては覚めない夢の中で

灯火野

1. 入学式

1-1

 世間はもう春だというのに、冬の名残は厚手のコートを通り抜けて僕の身体に届いた。街の中心から外れた小さな駅で鈍行列車を降り、そこから平坦な舗道を一人歩く。一人歩く、とは言っても、周りを見渡せば一人で歩いている若者は他にも沢山いる。みな、春の風の思いがけない冷たさに、そしておそらく不安に顔をしかめて、自分のつま先がコンクリートを蹴るのを見つめながら黙って歩いていた。

 僕と同じ駅で降りた僕と同じくらいの若者のほとんどは、おそらく僕と同じ目的地を目指しているのだろう。不自然なくらい丁寧に染められた犬の体毛のように明るい茶色の髪の毛を、雑誌の表紙のタレントのようにカチッと固めている左前の男も、長くて豊かな髪の毛のありったけを、僕には想像もつかないような巻きつけかたで立体的に結わえている目の前の女も、みな似つかわしくないほど形式ばったスーツにその身を包んでいる。革靴のかかとの固いところが地面を叩く音が複数、やけに軽やかに通りに響く。僕はそれを嫌い、意識して音を立てないように丁寧に地面を蹴っていた。

 飽きるほど長い道のりが、門の向こうでも続いているのが遠くからでも見てとれた。結構歩いた気がするのに、まだ門が見えるだけ。受験勉強での体力の衰えは無視できないらしい。門の入り口には日の丸の国旗と白い大きな看板が掲げられている。その看板の端から端まで使って堂々と書かれた筆文字は「入学式」と見える。

 今日は、僕がこの春合格した大学の入学式だ。

 受付の男の人に受験票を見せる。同じ学部の中でもさらに学科ごとで受験票が色分けされているようだ。面倒なことをするものだ、と思った。

 本人確認を終えて学生証を受け取ると、新入生は自分の所属する学部ごとに違う部屋に誘導される。控室は多くのスーツで溢れかえっていてそれで僕の気分は害された。この入学式に誰が待っているというわけでもなく、僕の知り合いで僕と同じ大学の学部に入学した人の話は一つも聞いていない。僕は誰に目をくれることもなく空いた席を後方から順に探した。

 あまり前には行きたくない……そんな風に探して、一つ空席を見つける。三人掛けの机の、真ん中と左端が空いている席があった。僕は迷いなくその左端に腰を下ろす。それから、空席を挟んで隣に静かに座っているのが女子だということに気付いた。

 僕は一目見て彼女に興味が湧いた。彼女の風貌は、この会場の中であまりに自然にまかされている。しかし何の手を加えなくても彼女の長くて黒い髪はさらさらと輝いていたし、身につけているスーツよりも彼女の涼しげな清楚さと少々の物憂げさのほうがずっとしっくりと彼女の身体全体を包み込んでいた。

 ここで初めて僕は、今日という日に気が向いたのだった。



 「座席は間を空けずに詰めて座ってください」 という係員の指示に従って、僕は素知らぬ顔で三人掛けの座席の中央を陣取った。つまり、彼女の隣だ。

 彼女はただ時間が過ぎるのを待っているように見えた。本を読むでもなく、音楽を聴くでもなく、かといって居眠りするでもなく。座席を移動した僕に数ミリの意識さえも向けず、彼女はただ虚空に漂う何かを見つめている。その暗欝とした横顔に、僕はしばらく目を奪われていた。

「……」

 わずかに彼女の唇が動いた。色も形も薄いが、彼女の肌の白さをさらに印象付ける唇だった。彼女は何かつぶやいたらしい。しかし周囲の雑音に負けて僕の耳には届かなかった。

 彼女は僕を一瞥する。不完全にこちらに向けられた顔が、僕の彼女に対する興味ほど、彼女の僕に対する興味が大きくないことを端的に表していた。真正面から見つめてくれない彼女の瞳は目全体の大きさに比べて大きく、その黒い部分は何も映さなそうに深い。

「……なにか?」

 かろうじて聞き取れたその三文字は、明らかにずっと彼女を注視していた僕に向けられた言葉だと理解できた。その無関心な表情からは読み取れなかった不快さが、彼女の低い声に混じっていた。

「いやあ、面白くなさそうだなって思って」

 僕にできることは、正直であることだけだった。

「じゃあ、あなたは面白い?」

「全然」

 即座に返された僕の返事に、彼女は初めて笑った。それはもう、うっすらと。そして僕はこの一連の会話で、彼女は人の目を見て話さないんだ、ということに気付いた。

 本当なら、どこから来たの? とか何学科? とか聞くのが普通なのだろうけれど、彼女に対してそういうことを聞くのは違うと思った。彼女に対して興味を持ちはしたが、これからも関係を持っていたいとまではまだ思わなかったし、お互いに今日の入学式がつまらないと思っている。そんな状況で普通の質問なんてできなかった。

「全部……」

 うっすらと笑ったまま、彼女がつぶやいた。

「全部嘘だったらな、なんてこと、あるよね」

 ざわざわとした会場の雰囲気は、彼女の言葉だけでは変わらなかった。しかし、僕と彼女の間の空気だけが確かにその瞬間止まった。

「たとえば……この入学式とか?」

 僕がそう言うと、彼女は今日一番の清々しさで笑った。

「気の利いたこと言うのね」

 噛み合ってないような、変な会話だ。僕はそう思ったものの、まんざらでもない気持ちでいた。

「では会場に移動します。荷物を持って忘れ物がないように注意してください」

 話すことをやめた彼女は係員の指示に従い、気怠そうに荷物をまとめ始める。

 いつの間にか僕の左隣の席は、若い男によって占められていた。

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