1-3

 大学生活の滑り出しはおおむね順調と言えた。分からないことや不安なことはあっても、それは全てが初めてのことであるからで特に心配はしていない。 講義の内容も深く、それでいて狭さを感じないのが不思議だった。

「えー、またエラー? もうマジ意味分かんない!」

 一年生のうちはまだまだ必修の教養科目が専門科目よりも多くて、得意分野とはほど遠いそちらに四苦八苦する学生も少なくない。講義の内容は教授の裁量だけで決まるものだから、講義によってその難易度もまちまちなのが更に厄介だ。今履修しているコンピュータとプログラミングの講義は学科のほぼ全員が受講しているが、四回目にして早くも音を上げる学生が出てきた。

 一通り課題の説明をし終えて、教授が早々に講義室を後にしたその直後、室内はざわつき始める。

「だいたいさあ、あの教授の説明早いし分かりにくいし最悪! 説明一回聞いただけじゃ分かんないよ。もっと大事なところを強調してほしいっていうか。もっと面白かったらちゃんと聞くのにさ……」

 教授がいないことをいいことに、みな口々に言いたい放題である。僕もこの方面に関しては得意ではないが、配布された資料を読めば今日中には出来そうな課題だとは思った。半分くらい仕上がったところで背すじのコリが気になり両腕を頭上に伸ばすと、右肘がドン、と誰かの身体に当たった。

「あ、悪い」

「どの辺まで進んだ?」

 ぶつかったことに関して全く気にする風でもなく、僕が対峙しているディスプレイを覗き込む細身の男子。確か、永田えいだという名前だったと思う。根元から明るい金髪と、くっきりと黒い瞳の目力が僕を圧倒する。

「半分くらいかな。今日中には終わると思う」

 すげーな、と呟きながらまじまじと文字列を目で追っている。

「ここんとこ、説明にあったか?」

 至極真面目な目つきに僕は軽い安心感を覚えた。

「それは資料にあったのを参考にした。説明された構文で書けないこともないんだろうけど、こっちの方がきっと簡単に書けるよ」

 説明をしているうちに、周囲には四、五人が集まっていた。

「すごいね、越路くん! 私も見ていい?」

「やべーな、ちょっと最初の方だけ写させて」

「写した奴、後で俺にメールしといて!」

 中にはぶつぶつと僕が書いたプログラムを呟いて暗記しようとしている奴もいる。教授が去った直後とは違った騒がしさが再びやってきた。安堵の笑みもちらほらと見え、僕にはただ居心地の悪さだけが残る。

「……まだ半分だし、写すほどのもんじゃないよ」

 僕の声は果たして何人に届いたのか。その間も僕は写したい人のために作業を中断せざるを得ず、携帯で撮影された画像は学科内で次々と共有されていく。自席で作業を再開した永田は、ただ静かにディスプレイを見つめながら両手を動かしている。

 ガタンと後方で音がして、手持ち無沙汰な僕はそちらを振り返った。左良井さんが荷物をまとめて講義室を出ようとしている。

「まーちゃん、どこ行くのー?」

 「真依ちゃん」が省略されて最近は『まーちゃん』(発音はちょうど『麻雀』と同じだ)と呼ばれるようになった彼女の声は、いつもと同じ調子で単調だった。

「終わったから、帰る」

「えっ、終わったの!?」

 驚きの声には耳を貸さずに、ドアの向こうに消えた左良井さん。彼女の退室と引き換えに時が止まったかのような静けさがやってきて、室温も一度くらい下がったような気がした。

「左良井さんって頭いいんだな。印象通り」

「でも、ちょっと冷たいな。印象通り」

 戸惑いを隠せない男子達のささやきを、僕はどこか爽やかな気分で聞いていた。

「冷たいっていうか、ちょっと怖くないか?」

 そうだっただろうか? 僕は同意しかねる。今の左良井さんの、一体何が怖かったのだろう。



 その日の講義が全て終わった午後、別の課題に必要な資料を求めて教養棟を正面から出てすぐのところにある大学の図書館に向かっていた。 新築の家に入った時のツンとしたにおいが強く鼻をついた。最近大幅な改築工事がなされたらしく、バリアフリー化した滑らかな床が歩きやすい。図書館特有のどんよりとした暗さがなく、外からの光が十分に取り入れられた近代的な建物だ。高校の図書室で感じていた感じた閉塞感がすっかり無いところは大変気に入っている。学生証を磁気読み取り機に通してゲートを開けると自習用の机が建物の奥までずっと続いていて、パッと見ただけではその数が分からないほどだ。

 こういう風に並んでいるときの机の選び方は、その人の好みがよく表れると思う。どこに座っても構わない僕みたいな人もいれば、定位置じゃなければ落ち着かないという人もいるだろう。出入り口付近か、建物の最奥か、右端に座るか左端に座るか、人を避けて座るのか。

「さっきはお見事だったね、左良井さん」

 出来る限り人の密度の高いところを避け、奥の机の右角でノートを開いている左良井さんを見かけたとき、僕は入学式を思い出していた。あの日も彼女は長机の右端にひっそりと座っていて、僕はその左隣に詰めたのだ。

 正面の席を失敬して、声をひそめて話しかける。

「あんな風に颯爽と講義室を去る姿、憧れるね」

 そう、『憧れ』。僕には到底出来ないことをやってのける彼女に対して覚えた小さな尊敬。冷たいとも怖いとも思わなかった。

「かっこよかった」

 重ねて褒め称える僕を、しばらく信じられないという風に見つめていた左良井さんは表情を緩めて答えた。

「あんなの、憧れるもんじゃない。一番愛想の悪い方法」

 そして小さく、一番嫌われる方法、と彼女は続けた。

「愛想なんて振りまいたって疲れるだけじゃないか。気になるなら愛想良くすればいいし、疲れるなら今のままでいればいい」

 僕はかっこいいと思った。左良井さんはどうして浮かない表情をするのだろう。

「かっこいいのは、越路くんのその考え方だと思うよ」

「……そう?」

 面と向かって(彼女は僕の目をいまだにちゃんと見てはくれないけれど)『かっこいい』と言われるのは慣れてない。僕自身、ついさっき左良井さんに『かっこいい』と言ったばかりなのに、いざ人から言われると照れくさいものだ。

「人の話を聞いて大事なところがどこなのか分かんないようじゃ、誰の話を聞いたって一緒でしょう?」

 ふっ、と短くつかれるため息。

「嫌なのよ。自分が出来ないことを、自分自身を棚に上げて自分以外のせいにする人間が。その不足を自分の努力で補おうとしない人間が。そのままこの大学生活をやり過ごそうとする人間が、私は大嫌いなの」

 吐き捨てられたそのセリフに、うまい返しの言葉が見つからない。左良井さんは参考書とノートを手早く閉じて鞄にしまい始める。憂いが陰る瞳は、どこを見ていたのだろう。

 立ち去る間際少しだけ微笑んでくれた彼女は、どこか疲れたようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る