第二章 族長の息子

二章(1)


               2-1


 通夜の最中に女遊びとは不謹慎きわまりないし、そんなことにディオをつき合わせるとは、お節介だと言われるだろう。いや、俺も、そう思う。

 しかし、当時の俺達には、これが実にたのしかった。狩りや遠乗りなど、他の娯楽がなかったというわけではないが。

 特に、ディオは、不謹慎だと長老達が眉をひそめるようなことを、敢えてするのが面白かったらしい。(と、後日、本人が語っていた。)


 俺にとっては、事情が異なる。(勿論、今も女は大好きだが。)

 成人して十年ちかく経ち、子どもも産まれ、ものの分別も出来ている(……多分)。それでも奴を強引に誘ったのは、俺やジョク、アラルも、奴が女性に信を置かぬことを知っていて、心配していたからだ。


『遊びで女を渡り歩いていて、信用できる相手にめぐり逢えるはずがなかろう』? ……ううむ。女性にそう言われると耳が痛い。(でも、そういうもんでもないぞ。俺の妻たちは、みな可愛い。)

 男の態度に問題があるのは確かだが、ディオの場合、もっと根深いのだ。

 奴の母エゲテイが心を病んでいて、俺の親父に預けられているという話は、先にしたな。ディオとタオの兄妹が、その出生を疑われていることも。――経緯を、もう少し詳しく述べよう。



 メルゲン・バガトルの許に輿入れして間もなく、エゲテイはケレ氏に奪われ、半年後に身ごもった状態で救出された。

 戦いのなか、トグル氏の処でディオを産んだエゲテイは、息子が四・五歳になるまでは一緒に居たのだが、再び奪われ、今度は敵地で産まれたタオと一緒に救出された。

 トロゴルチン・バヤンとメルゲン・バガトルの父子が、最終的にケレ氏族を滅ぼすまでの混乱のうちに……エゲテイは、少しずつ狂っていったのだろう。

 戦争の極度の緊張がつづくなか、二度も略奪をうけ、夫はそばにおらず、子は夫の子かどうか判らない。そのことを同情されるより、族長妃として責任を追及されるとあっては、狂うのも無理はないのかもしれない。

 ディオとメルゲン・バガトルにとって不幸なことに、狂気は、専らディオにのみ向けられた。

 成長したディオの碧眼が、自分を略奪したケレ氏族の男を連想させたのか。ディオさえ居なければ、おのが身は安泰だという計算が働いたのか。真実は不明だが……。

 八年前のある日、エゲテイは、突然、息子の首を絞めて殺害しようとした。


 その夜のことは、今も覚えている。俺でも忘れられぬのに、まして当人はどうだろう。

 親父の許へ身を寄せていた年若い叔母のユルテで、深夜、侍女の悲鳴と物の壊れる音がした。

 親父とメルゲン叔父とトクシン伯父の四人で酒を飲んでいた俺は、何事かと駆けつけ……泣き叫ぶ赤ん坊(タオ)の傍らで息子に乗りかかって首を絞めている叔母を、見てしまった。

 親父達は急いで俺をその場から遠ざけたのだが、火のついたように泣く赤ん坊と、ぐったりしていたディオの顔と……息子から妻を引き剥がしながら、メルゲン叔父が放った悲痛な言葉は、忘れられない。


『お前は、何度、俺を傷つければ気が済むのだ!』


 まだ幼かったディオをメルゲン叔父が戦場へ連れ出し、常に身辺に置くようにしたのは、この為だと思う。

 エゲテイは、何故かディオだけを敵視した。タオにも夫にも平気であるのに、ディオの姿を見ると悲鳴をあげて逃げ惑い、挙句に殺すか己自身を傷つけようとするので、仕方がなかった。

 母がそうであるので、ディオの方も彼女に近づかなくなった。父親がエゲテイとタオに会いに行っても、奴だけは、いつも俺のユルテ(移動式住居)へやって来るようになった。


 かれこれ五年以上、母子は顔を会わせていない。

 ディオがどう思っているか、正確なところは判らない。とても訊ねられるようなことではないし……おそらく、応えてはくれないだろう。

 俺達と一緒に居るときの奴の態度や言葉の端々から察するに……奴は、母親に対して嫌悪感を抱いている。

 しかも、母親だけでなく、およそ女性というものに不信感を持ってしまったようだった。



 頭では、解っているのだろう。ディオは、母親の立場も、戦場における女性の弱さや悲しみも、理解できている。理性では。

 しかし、理性で抑えきれぬ感情に苦悩するのが、人間というもののさがではないか。

 一度だけ、ディオは酔って呟いたことがある。


「己の身を己で守れない者を守るのは、当然だ。だが、その弱さに胡座をかいて、戦う者をおとしめる者――守られるのが当然とばかりに、己の弱さに逃げ込む者……。まして、その立場を守るために己より弱い者に害をなす者は、最低だ」


 戦場に、エゲテイのような女は大勢いる。

 だから、これはディオだけの不幸ではないことは、奴も良く知っている。だが……エゲテイが族長の妻でなく、メルゲン叔父が部族を統べる盟主トグルでなく、ディオが嫡子でなかったら。事態はもう少し穏やかで、苦しみの少ないものになっただろう。

 族長妃であったために、エゲテイは戦争で真っ先に敵に狙われる女となり……妻を何度も奪われたために、メルゲン・バガトルは盟主としての力量を疑われ、臆病者とそしられることになった。(判るであろう? 敵が族長の家族を一番にねらう目的は、そこなのだ。誰が、自分の家族も守れぬ男に、喜んで従うのだ。)

 幼いディオには、長の血をひく息子かという疑惑がつきまとい、それが母を狂気に追いやった。

 そして、ディオは戦場にとり残されてしまう……。


 バヤン大伯父もメルゲン叔父も、他にやり方があったろうに、と、俺は思う。幼かったディオを、母親から守る為とはいえ、血なまぐさい戦場へ連れて行くより他に。

 だが、メルゲン叔父は未だに「エゲテイに判らぬことは、俺にも判らぬ」としか言わず……。大伯父に至っては、孫のディオに、こう言ってのけた。


『トグルでありたければ、トグルになれ。狼の末裔らしく、狼になれ。己自身で証明しろ』


 ――そして、ディオはそれを証明した。と、俺とジョクは思っている。


               *



 話が余計な方向へ逸れてしまって申し訳ない。元へ戻そう。


 そんなわけで。女を抱くことは抱くが、一人に想い入れることはない。女性不信で、「女はやっかいものだ」と言い捨ててしまうディオを、このままではいけないと思い(いけないだろう?)、何とか奴の心を開かせたい、開かせる女性に巡り逢わせてやりたいと、日夜努力している俺なのだが。

 ……何故か妻が増えてゆくのは俺の方で、ディオの方は一向に気が変わる気配もないのは、笑える話だが困りものだった。

 最近の奴は、俺の苦心している様子を娯しんでいる向きすらある。

 バヤン大伯父の葬儀の朝。俺たちは、寝不足の顔を並べた。奴が俺をちらりと見た目にそんな表情が見てとれ、俺は溜め息をついた。


「いったい、どんな女なら満足するんだ? お前は」

「さあな。しかし、長とはいい身分だな、トゥグス。望めば、どんな女も手に入る」

「よく言う」


 青空の下。墳丘の周囲にひるがえる弔旗の群れを眺めながら、ディオはフッと唇を歪めて嘲った。女ならば慕わずにはいられないだろう端麗な横顔に、自嘲と優しさが交錯する。

 奴は、俺を見ずに言った。


「お前のことだ。まさかとは思うが――」

「当然だ。みそこなうな」

「それを聴いて、安心した」


 読者に誤解のないよう、説明させて頂く。

 俺達は、(いくら許可されているとは言え)嫌がる隷民ハランの娘を、権力に任せて陵辱しているわけではない。(まあ、戦場ではそういうこともあるが。)自由民アラドであっても、氏族長の命令とあれば、泣く泣く娘をさし出す親とてあるだろう。

 俺がディオに紹介した女は、本人の自由意志で、トグル氏の若族長に逢いたいと望んだ女だ。(ついでに言うと、俺の二番目の妻の友人だ。)

 普段はユルテごとに分散して暮らす遊牧民の社会だが、本営オルドウに集まれば、そこは若い者どうし――年寄りに隠れて遊ぶ場も出来れば、キイ国風に言うところの『玉の輿』を狙う女も現れるというわけだ。


 俺は、再度ため息を呑んだ。


「後で、俺から話しておこう。記念と思えば、お前も少しは――」

「いや。それは止めてくれ」


 『優しい言葉の一つくらい』と言おうとした俺の台詞を、珍しく強い口調で、ディオは遮った。濃緑色の瞳は、吸い込まれそうなほど深かった。


「どうして」

「考えてみろ。お前が女で、男にそんなことをされたいか?」


 そう言うと横を向き、黙りこんでしまった。俺は、納得すると同時に不安になった。


「……でも。いい娘だったろう?」


 おずおず訊ねると、奴は弔旗を見詰めたまま、首を傾げた。そうして、せめてそれくらいの褒め言葉は聴いておきたい俺の気持ちをどう考えたのか、ぼそりと呟いた。


「……そうだな。莫迦じゃなかった」


 呆れている俺を振りかえり、ディオは、にやりと牙をみせた。


「心配するな、トゥグス」

「…………」

「相手は、お前より数倍もしたたかだ。……『どんな女なら満足するのか』という問いだったな。今度さがす時には、莫迦でもいいから、俺の名を聞いても驚かない女にしてくれ」


 この草原の――否。大陸の、何処にそんな女が居る?


 言い返そうかと思ったが、虚しいので止めた……。苦虫を噛みつぶす俺に、ディオは涼しい横顔を向ける。

 それで、俺は、ディオが傷ついていることに気づいた。決して面には出さず、あからさまに非難もしないが。

 奴は厚意で誘いに乗ったのだ。俺への、好意ゆえに。


 ……それでは。いつまでディオは、独りきりで居なくてはならないのだろう?



「ディオ。トゥグス」


 ちょっぴり落ち込んでいた俺とディオの処に、メルゲン・バガトルがやって来た。故人への拝礼を済ませ、左腕から血を滴らせている。

 盟主への礼をする俺達を、穏やかな黒い瞳が、交互に見た。


「お前達、昨夜はどこに行っていたのだ?」

「貴方の名を辱めるような所ではありませんよ」


 俺に黙っているよう合図して、ディオが、落ち着いた口調で応えた。陰をやどす緑柱石の瞳に、正面から父の顔を映す。


「何か、御用でしたか?」

「いや。……クチュウト安達アンダが探しておられた。私の所へ、相談にいらっしゃった」

「ああ」


 頷いて唇を歪めたディオの眼差しは、お世辞にも人の好いものとは言えなかった。一方、メルゲン叔父の無表情も、驚くほど変化しなかった。


「今日あたり、お前のところに行かれると思うぞ」

「シルカスの賢者(ジョクのこと)の許にも、駆け込まれたそうですね。待て、と命じるおつもりですか?」


 メルゲン叔父は、じっと息子の顔を見詰めた。


 体格も背丈もほとんど変わらない父子は、父親の髭と瞳の色をのぞけば、まったく瓜二つと言ってよく……どうして血の繋がりを疑えるのか、俺に言わせれば、そちらの方が不思議だった。

 感情を表さないのがトグル氏の特徴とはいえ、仮面のような顔を鏡さながらつき合わせている二人の姿は、見ている俺を息苦しくさせた。


息子あれには、あれの考えがあるのでしょう、と応えておいたが……。舅を心配させるのは、感心しないな」

「ご自分のようにですか? それとも、盟約の薄れることに対してですか?」


 ディオの問いに、メルゲン叔父は再び黙ったが、瞳の静けさは変わらなかった。ディオも、喧嘩を売っている気配はない。平然と父親を見詰めている。

 俺にはよく判らない会話だった。俺を無視して、二人は続けた。

 メルゲン叔父は、囁くように問い返した。


「お前は、どう思う?」

「別に……。今の時期に盟を補強したとして、変わりはないでしょう。我々にとっては。そんなことで攻撃をゆるめる連中とも、思えない。クチュウトでは、大した戦力になりません。シルカスやオルクト程には」


 メルゲン叔父の黒い眼が、すうっと細められた。ディオの声も低く圧し殺される。


「彼族にとって期待しておられるほどの効果が得られるかどうか、疑問です。むしろ、逆効果になりかねない。……俺ならば、真っ先に攻めるでしょうから」

「察してやれ」


 メルゲン・バガトルは頷いて、淡々と繰り返した。


「察してやれ。一度結んだ盟約は、そう簡単に反故ほごには出来ぬのだ」

「そのように、安達アンダにも応じられたのですか?」


 ディオの瞳に初めて感情のいろが揺れたが、口調と表情は変わらなかった。盟主も。


「それが貴方のお考えなのですか、父上。忠告はなさらなかったのですか。シルカスの賢者は申し上げたのですよ、『私が兄ならば、絶対に反対します』と」

「その言葉を受けたうえで、私の所に来られたのだ」

「…………」

「無下に断るわけにもゆくまい……。彼氏の縁戚には、オロス氏と北方六氏族がある。今は戦力にならぬとはいえ、盟を結ばぬという策はない」


 今度は、ディオの方が父親を凝視みつめた。横顔は凍りついたように硬く、感情は窺い知れなかったが、濃緑色の瞳の奥にやどる陰が目まぐるしく動いていた。怒りにも似た激しさで。

 真夏のタマリスク色のほのおが一瞬ちらと閃いたと思うと、元の、夜の森の静けさに戻った。


「……俺は、自分は人殺しの方法だけ考えていればよいのだと、思っていました」


 ディオの声は、地を這うように聞えた。


「まさか、一度も逢ったことの無い女の身の心配をする羽目になるとは、思いませんでした」


 メルゲン・バガトルは、フッと唇を歪めて言い返した。


「諦めろ。それも男の甲斐性だ」


 ディオは、一瞬、睨み殺しそうな視線を父に当てたが、何も言わずに踵を返し、墳丘に向かって歩きだした。

 わけが分からずに聴いていた俺は、慌てた。メルゲン叔父の表情は穏やかで、俺に話し掛けた口調も、世間話以上のものではなかった。


「世話をかけているようだな、トゥグス」

「いえ。あの……叔父上」

「遊びはほどほどにしておけよ」


 叔父貴が何も言うつもりがないと、俺は察した。帽子をかぶり直し、手甲にこびりついた血を構うことなく、煙管に火を点けている。その姿は飄々として、隙が無い。

 俺は叔父の背に一礼すると、ディオを追って行った。



 息子に名を譲ったとはいえ、部族の基を固めた功労者――事実上、イリに住む遊牧民の王といえる男の葬儀だ。盟約を結んでいる全氏族長だけでなく、遠くはハル・クアラ部族やタイウルト部族からさえ、弔問の使者が来ていた。

 慣例により、クルガン(陵墓)に遺体を収める前には、氏族長と家族たちが故人に別れを告げる。支配者階級のブドウン(貴族)にのみ許されている行為だ。地中に柩を収め、金製の馬具と故人の馬五頭を副葬する。

 トグル・メルゲン・バガトルや年長の氏族長達が拝礼を済ませた後は、俺達の番だった。


 俺が近寄ると、ディオは墳丘の上に佇み、柩を見下ろしていた。

 バヤン大伯父の遺体はラーヌルク河に流されてしまい、辮髪の一本もとり戻せなかったので、柩の中には、氏族長達が捧げた辮髪の切れ端が数本投げ込まれているだけだった。


「ディオ……」


 ディオは俺を振り向かなかった。無言のまま剣を抜き、自分の左腕を刃先で軽く傷つけた。父と同じように。拳を差し伸べて、滴る血を祖父に捧げる。

 俺は、自分の辮髪を半分切りとって、柩に投げ入れた。その間も、ディオは黙り込んでいた。

 そしてまた、踵を返してしまう。


 父親や長老達が居るのとは逆の方向へ歩いていく従弟を、俺は追いかけたが、声をかける機会を逃してしまった。前方を見据える奴の瞳に、またあのくらい眼差しを見たからだ。

 底なしの、地獄の淵を思わせる。

 メルゲン・バガトルは、俺たちを呼び止めようとはしなかった。





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