狼の唄の伝説 ―『飛鳥』外伝

石燈 梓

第一章 敗戦の報

一章(1)


               1-1


 第十五代トグル・トロゴルチン・バヤンは、死の間際、従者に言い遺した。


『生あって故郷へ帰らば伝えよ。――汝等、十本の手の指の爪が全部すり切れ、更に十本の指すべてを失うとも、必ず我が為に仇を報ぜよ』


 タァハル部族に裏切られ、キイ国の将軍リー・タイクに捕らえられたバヤンは、皇帝の許へ送られた。そこで木の驢馬に釘付けにされ、生きながら全身の皮を剥された挙句、身体を細切れにされて、ラーヌルク河へ投げ込まれた。

 長城の北へ迫っていたバヤンの息子メルゲン・バガトルは、逃れて来た従者からその言葉を聞いたが、成す術が無かったという。


 遊牧諸族中、最大の部族の頭領の殺害に成功したタァハル族は、勢いを増し、トグリーニ族の討伐を開始した。


 この話は、ここから始まる――


              ◆◆◆



兄者あにじゃ! トゥグス兄者、遠駆けしよう!」


 挨拶もなしにユルテ(移動式住居)の扉を開け、夏の日差しとともに駆けこんで来た少女は、こう言った。

 客人と話をしていた俺は、苦笑して応じた。


「俺は、お前の兄じゃない。その呼び方は止めろって、言ってるだろう? タオ」

「だって、仕方がないだろう。呼び捨てには出来ないし。トゥグス小父おじでは嫌だと言ったのは、兄者だろうが」


 当然だ。俺は、まだ二十三だ。何が悲しくて、従妹の小娘に『小父さん』呼ばわりされなきゃならん。

 ――思ったが、快活な少女の言葉に、客人の方が先に笑い出したので、言い返すのは止めた。

 タオはそちらに向き直り、少年のような顔に照れ笑いを浮かべ、帽子を脱いだ。


「……センバイノー(こんにちは)、シルカスの兄上。身体の具合は、如何ですか?」

「ユムグエー、タイバン・サイハン(大丈夫、元気だ)。……暫く見ないうちに、また大きくなったな、タオ」


 俺より十も年下だが大人びている鳩子ハトコに、丁寧な返事をもらい、タオは嬉しげに頬を綻ばせた。すぐに俺に視線を戻し、細かく編んだ十本の辮髪を煩そうに掻き上げる。


「遠駆けしようよ、兄者。昨日話したタルバガン(地リス)の巣のある丘に。連れて行ってくれるって、約束したじゃないか」

「分かった、分かった。だが、その格好では駄目だろう? 先に行って用意しておいで」

了解ラー!」

「弓を忘れるなよ!」


 大喜びで駆けて行く背中に、俺は叫んだ。見ると、ジョクもまた少女の後ろ姿を見送りつつ、痩せた頬に微笑を浮かべていた。

 弱冠十四歳でビルゲ(賢者)の称号を得た、シルカス族長の一人息子。ジョクは幼い頃から身体が弱く、今はもう立つことが出来なくなっていた。棒のような脚を曲げて膝を立て、その上に腕を乗せて身体を支え、敷布の上に座っていた。

 俺の視線に気づくと、ジョクは笑いながら言った。


「……元気な娘だな、相変わらず」

「とんだジョロー・モリ(だく足の仔馬。ここでは『お転婆』くらいの意味)だぞ」

「族長の娘は、それくらいが頼もしくていいだろう。いざという時に、本営オルドウを任せられる」


 嫁にするのは、俺は御免だがな……。

 正視するのが痛々しいほど骨と皮ばかりに痩せ、血の気の無い顔をしていても、瞳は決して輝きを失わない。――視線を逸らした俺の内心の後ろめたさを察したのか、どうか。ジョクは滑らかな声をあげて笑った。


「行ってやれ、おれは良いから。可哀相に、退屈しているのだろう。今年は戦のせいでナーダム(夏祭り)も無ければ、旅芸人もやって来ない。ディオが居なければ、構ってやれるのはお前しかいないだろう」

「ああ。スマンな、ジョク」

「一人には慣れている」


 それが辛いのだが、俺は。――俺とディオは。年若い友人が、徐々に誰からも顧みられなくなってゆくことが。

 そんな俺の気持ちなど知らぬ風にジョクは微笑むと、自ら持参した書(竹紙や羊皮紙)の束に手を伸ばし、足元にひろげて読み始めた。

 草原の民にたいした書はなく、どれも異国の歴史や経済の記録だ。彼はこうして、俺達の誰よりも広い世界を己のものとする術を、心得ていた。

 その様子を見届けてから、俺はユルテを後にした。


              *


 自己紹介と、我々が置かれた状況を説明しておいた方が良いと思う。しかし、俺の拙い文章でどれだけ理解して貰えるだろうか。分かりにくい点は、ご容赦ねがいたい。


 俺の名は、オルクト・トゥグス・バガトル。南をテンシャン、東をアルタイ、南西をタサムの三山脈に囲まれた草原イリを統べる、遊牧民最大の部族トグリーニを支える五氏族の一つ、オルクト氏の十二代目の族長だ。

 俺達の習慣では、族長は代々おのれの氏族の名を冠する。俺の名は、親父から継いだ。『トゥグス』とは、『末っ子』という意味。

 俺達の部族では、家督は末子が相続することになっているので(親父には、三人の妻と、俺を含め六人の子が居たが)、族長の名も俺が継いだのだ。

 現在、俺の氏族をふくめ部族のほとんどの男達が、イリの南東に在る大国キイとの戦争に出掛けている為、その留守を預かっている。


 ……何だ? 『戦争に、族長たる者が出征せず、女子どもと遊んでいて良いのか』だと?


 良いのだな、これが。名を譲ったとはいえ、俺の親父は五十代に入ったばかり。これが向こう気の強い殺しても死にそうにない親父で、氏族をとり仕切り、俺が口をだす隙などないのだ。今も、氏族の最精鋭の部隊を率い、前線で戦っている。

 お陰で、俺は名を継いで七年あまり経つが、未だにオルクトの名では呼ばれず、トゥグスで通っている。

 それに、我々の敵はキイ国だけではない。イリの北西、バルカイク湖沿岸に本営オルドウを持つ、タイウルト部族。タサム山脈の西から遠く南方の砂漠にかかる広大な地域を支配する、タァハル部族。アルタイ山脈の東北に住むハル・クアラ部族など……。草原で最も豊かなこの地を狙うやからは、おおぜい居るのだ。

 そうした輩から本営オルドウを守るのも、大切な役目だと俺は思っている。


 特にタァハル部族は好戦的で、たびたびキイ国の皇帝と謀っては、我々の平安を脅かしてきた。今回は、我が部族の総長というべきトグル氏族の先代族長、トロゴルチン・バヤンを呼び出し、キイ国のリー・タイクという将軍に捕らえさせた。

 トロゴルチン・バヤンは、かつてタァハル部族とタイウルト部族をこの地より追い出し、部族の基を固めた豪傑だ。その息子で現在の族長であるトグル・メルゲン・バガトルは、急いで兵を挙げたが、キイ国の長城と度々くり返されるタァハル族の攻撃に悩まされ、父を救い出せずに居る。

 ――とまあ、こんなところが、我が部族を囲む現在の状況だ。理解して頂けただろうか。


 ついでに、俺の周りの主な人間について、紹介しておこう。


「兄者! 何をぐずぐずしているのだ? そんなことでは、日が暮れてしまうぞ!」


 と、先刻から俺の前を走っているお転婆娘……タオ・イルティシは、トロゴルチン・バヤンの孫娘。トグル・メルゲン・バガトルの一人娘で、俺の従妹にあたる。この娘の母親が、俺の親父の妹なのだ。

 つまり、俺達オルクト氏とトグル氏の長の家系は、互いに血縁関係にある。

 メルゲン叔父が留守の間、事情もあって、タオとその母エゲテイは俺の親父が預かっている。事情は、後で述べよう。


 俺がユルテ(移動式住居)に残して来た静かな男、シルカス・ジョク・ビルゲは、タオにとっては父方の親戚になる。メルゲンの母アルスイ・ゴアが、シルカス氏族長の姉だったのだ。ジョクは、その族長の孫。

 タオにとっては父の従兄の息子(鳩子)ということになるから……俺にとっては、どういう間柄になるのだろう?――まあ、いいか。俺達五氏族は、トグル氏を中心に何度も婚姻を繰り返してきた。俺とジョクも、どこかで血が繋がっているだろう。


 しかし、シルカス氏は悲運の一族と呼ばれている。柱である族長の血族が、男に限って異常に短命なのだ。いつの頃からかは知られていない。

 熱も痛みもなしに全身の肉という肉がそげ落ち痩せ細っていく奇妙な病が、族長の血に受け継がれ、歴代シルカスの長はみな、子を成してすぐの二十代で死んでいった。ジョクの父も、その祖父も、そうだったという。そして、ジョク自身も。

 俺達の幼友達は、五歳頃から歩けなくなり、十歳では腕で身体を引きずって這うようになった。今ではそれも出来ず、支えがなければ座っていることもままならない。このままでは、子を成す以前にシルカスの長の血は絶えてしまうだろうと噂されている。


 トグル氏の方にも問題がある。(先ほど言った事情だ。)――タオとその兄ディオは、族長の血をひく子供ではないという噂だ。

 丁度、エゲテイがメルゲン叔父に輿入れした頃。俺達オルクトとトグル氏は、タイウルト部族の一派ケレ氏と戦闘中にあり、エゲテイはじめ女達の多くが敵と獲ったり獲られたりを繰り返していた。

 タイウルト族は草原の民とは言え、俺達よりニーナイ国やキイ国に住む人種に近い部族らしい。髪は俺達より赤みがかり、目も蒼かったり碧色がかっていたりする。

 戦いの最中に産まれたトグルとタオの兄妹は、髪や肌の色は俺達と同じだが、瞳だけは鮮やかな緑色をしていた。そのせいで嫌な噂が立ったのだ。

 更に――これは俺達オルクトにとっても由々しい問題だと、親父は言うが。――そのような子供が産まれた所以かどうか、エゲテイは気がふれてしまった。発作を抑える為に阿片を常用しているので、今ではユルテから一歩も外に出られない状態だ。


 このように、我々の部族は内にも外にも問題を抱えているのだが、俺はあまり気にしていない。……俺などがくよくよしても仕様がない。とりあえず、ジョクが笑えてタオも元気に駆けまわっているのだから、いいのではないかと思っている。


 しかし、そんな俺の楽観を吹き飛ばす事件が、この夏は起こった。


              *


「ほら、兄者! これで二羽目だ」

「もういいだろう? タオ。少し休ませてくれ」

「もう! 仕様がないなあ、兄者は」


 タルバガンの巣には辿り着けなかったが、代わりに、野兎を狩り出すことに成功した。馬の蹄の音に驚いて跳び出した兎を、タオはすかさず射止め、得意げにかざして見せた。

 俺は馬から降り、地面に仰向けに寝転んだ。むせ返るような夏草の匂いが心地よい。

 傾きかけた太陽を遮って、タオは、きらきら輝く緑色の瞳で俺の顔を覗きこんだ。


「疲れたのか? アラルや兄上は、この程度では参らぬぞ。兄者、もう年だな」

「放っとけ」


 アラル・ミンガンはジョクの従兄にあたり、十八歳。タオの言う兄上とは、ディオのことだ。奴はまだ十六……十七歳になったか。

 十代の奴等と一緒にされてたまるか。だいたい、どうしてディオやジョクだと『兄上』で、俺だと『兄者』なんだ? 何だよその、さりげない差別は。

 ――と、言い返そうかと思ったが、阿呆らしいので止めた。大人気ない。こんな風に分別くさくなって来たことが、年ということなのかもしれないが。

 タオも、それ以上俺をからかうのは止めて、傍らに腰を下ろした。他に従者はない。放した馬が草を食み始める。

 底抜けに明るい大天テングリを仰いだ俺は、一時、吸い込まれそうな気分を味わった。

 鼻歌に気づいて振り向くと、タオが、早速兎の毛をむしっていた。


「どうするんだ?」

「持って帰って、母上に食べさせて差しあげるんだ。シルカスの兄上にも。きっと元気が出ると思う」

「ふうん」

「あと、この皮を使って、父上と兄上に手袋を作って差し上げようと思う。兄上は革の手袋がお好きだから……。今から作れば、冬に間に合うだろう」


 普通の娘は、この年頃になれば、ユルテ(移動式住居)にこもって母親から茶の煎れかたや絨毯の織りかたなどを習って過ごし、狩りなど男の仕事に手は出さぬものだ。――などという、判りきったことを言うのは止めた。

 習おうにも、それを教える母親が、この娘には居ない。長の娘ということで、同性の友人が出来にくいのもあるだろう。

 俺の視線に気づいたタオは、悪戯めいた微笑を浮かべた。


「何だ? 兄者も手袋が欲しいのか?」

「ぶわぁか。誰が」

「……莫迦とは何だ、莫迦とは」

「欲しいわけがなかろう、お前が作る物など。どうせ、失敗するに決まっている」

「言ったな。見てもいないくせに、決めつけるとは失礼ではないか」

「見なくたって判る。こおんな歪んだ、指が六本も七本もついた代物しろものが、出来るに違いない」


 少女はむくれたが、咄嗟に言い返せなかったのは、自分でも自信がなかった為らしい。

「……トゥグス兄者は、どうしてそう、意地の悪いことばかり言うのだ?」

 少し言い過ぎたようだ。


「革細工なら、ディオは煩かろう。気に入らぬと、また文句をいわれるぞ」

「そうかな。やはり、そうかな」

「手袋は、止めておいた方が無難ではないか?」

「今度お目にかかる時までに、と思っていたのだが……」

 奇妙な会話だと思われるかもしれないが、この兄妹では、これが普通なのだ。



 戦の最中に産まれたディオは、まだ赤ん坊の頃に母をタイウルト族に奪われたので、乳母に育てられた。エゲテイがメルゲン叔父の許に戻っても、タオが産まれた時には、ディオは既に父とともに戦場にいた……。それからタオとエゲテイは、ずっと俺の親父に預けられているので、二人は殆ど一緒に暮らしたことがない。

 しかし、タオの方は、たまにしか会えない兄を慕っていた。ディオの方がそれをどう思っているかは、不明だが。


「手袋より、簡単な物……。短刀のさやや、帽子などの方が良くないか?」

「帽子! そうだ、帽子が良い」


 毛をむしった兎の耳をつまらなそうにもてあそんでいた娘は、俺の言葉に我意を得たとばかりに目を輝かせた。


「帽子ならずっと簡単だし、早く出来る。うーんと綺麗な蔦柄にしてやろう。兄者、良い知恵をありがとう」

「別に……」

「帽子なら、兄者ももらって下さるな?」

「…………」


 俺の表情を見て、タオは声をあげて笑うと、立ちあがり、馬の手綱をとった。鞍の脇に獲物を括りつけながら、遠くを見詰めて呟いた。


「いつ帰って来られるかなあ、父上は。兄上に、今度はいつお会い出来るだろう。……なあ、兄者?」

「んー?」

「あれは、一体何だ?」

「え?」


 何気ない口調を聞き流していた俺は、少女の指差した方向を見て、慌てて身を起こした。

 夏草に覆われた丘の向こう。アルタイ山脈の雪峰が微かにのぞく地平から、一筋の糸のように立ち昇る煙が見えた。よく観ると、点状に動く人影もある。

 俺は首をかしげた。


狼煙のろしだ……。しかし、あそこは本営オルドウではないよなあ」

「反対方向だよ、兄者」

「俺が何も報せを受けていないとは、奇妙だ。だいいち――」

「あれは葬礼の狼煙だろう」 と言いかけて、俺は口を閉じた。悪い予感がしたのだ。


 オルドウで病者や年寄りが死んだなら、俺が知らぬことはない。普通、アラド(自由民)が死んだときには鳥葬を行うので、狼煙を上げる必要はない。

 俺を見上げるタオも、不安そうだった。


「兄者」

「行ってみよう、タオ。あまり良いことではなさそうだが……。場合によっては、諸族へ早馬を送らねばならぬかもしれん」

「行くって……今から? 日が暮れてしまうぞ、兄者」


 狼煙の意味を知らぬ娘に何と説明してやろうかと考えていると、聞き慣れない男の声がした。

おさ!」

 振り返る俺達の前に、草原を探しまわっていたらしい男は、馬から落ちるようにして跪いた。


「若長、イルティシ殿(=タオ)。至急、オルドウへお戻りください。大長がお待ちです」

「親父が? どうした」

「祭場(ナーダムの会場。ここでは、オルドウのこと)にけがれを持ち込むわけにはいかないので、盟主(メルゲン・バガトル)は外でお待ちです。……ルーズトリア(キイ国の首都)で、トロゴルチン・バヤン様がお亡くなりになりました」

「…………!」


 俺とタオは顔を見合わせた。それから、再度、狼煙の行方を顧みた。



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