1-7/嵐の魔人 - 3
悪霊は酷く困惑していた。
姿を変えた眼前の存在――ジョンは間違いなく魔人だが、その在り方は自身に近いものだと悪霊は思い込んでいた。
しかし、悪霊の予想は大きく覆された。
炎の如くジョンの全身に迸る黒色の魔力は、頭に被った制帽を、黒光りする雄々しい二本の角を持つ王冠へと形を変える。
さらにそれに呼応するかの如く、続けて左肩には血黒色の瀟洒な外套を、胴には白金色の堅牢な西洋甲冑を、右腕と両脚には幾本もの棘を生やす歪な形状の黒い籠手と具足を現し、それらを瞬きの間に纏った。
そして最後に、蜘蛛の如き八つの金眼、蝦蟇の如き大口、大猫の如き歯牙が象られた悪魔の仮面が、ジョンの顔を覆った。
あたかも神に祝福された高貴なる中世の王の様な姿を
その気配を受けて悪霊は、超常の力を有する魔人でありながら、まるで弱者が強者に覚える様な怖気と寒気を全身に容赦なく突き刺された。
人と悪魔を歪に混ぜ合わせた様な半端な姿にしか成れなかった自身とは、歴然たる格の差がそこにはあることを、悪霊は受け入れざるを得なかった。
そして同時に理解した。
ジョンが名乗った「王」という言葉と変質したその姿は、偽物ではなく本物であると。
足は竦み、全身には滝の様な汗を掻き、歯はがくがくと震える。
一刻も早く逃げ出したい。そう思える程に悪霊はジョンに対して圧倒的な畏怖の感情を抱いていた。
当然、そう簡単に悪霊は逃げ出すという選択をしない。
なぜなら悪霊の願いはあと一歩で叶わんとしているからだ。
それは恐怖を押し留めてこの場に留まる為に必要な勇猛さを奮い立たせるには、十分な理由だった。
あとは押し留めたその感情が溢れないようそのダムを維持するだけ――の筈だったが、そんな悪霊の動揺を見透かすかの如く、ジョンは拳銃から変化させた
その音を耳にした悪霊は、自らの中にあったダムがあまりに呆気なく決壊するのを感じた。
そして次の瞬間、悪霊はその場から身を翻してジョンとは反対の方向に疾駆する。
鮮やか。そう評価せざるを得ない程に素早く、そして余りにも潔い『逃走』だった。
悪霊は体を引き裂かれ激痛に苛まれる以上の恐怖が迫り来ることを予感し、この場に留まることは愚策だと直感した。
ここまで苦労を掛けて作り上げた目の前の魔女狩りのチャンスを不意にしてでも、今は身を隠し、ジョンから逃げ切る事が正しい選択である。そう判断したのだ。
しかし、本来悪魔とは自らが現世から消滅したとしても、その魂は本来の住処である幽世あるいは地獄に帰還する。
故に自らの願いが叶うのであれば、依り代となるその身がどうなろうと構わない筈だった。
悪霊はそれを十分に理解したうえで尚、ジョンには立ち向かってはならない。
逃げなければならない。そう思い至り逃走を図ったのだ。
それは矮小な悪魔である悪霊らしい行動ではあったものの、極めて英断であった。
ただし、決断するのが遅過ぎたという点を除いて――。
「“
逃走の為に全速力で疾走してビルの屋上から身を投げ出した悪霊は、背後のジョンの呟きを耳にした直後、重力に従い落下するはずのその体が空中でピタリと停止した。
何が起きたのか全く理解できない悪霊だったが、次第に自らの肩や脚、腹部へ襲い来る激痛によって自身がどの様な状態なのかを理解した。
悪霊は自らの全身の計八ヶ所に鋭利な物体を突き刺され、それらによって宙に持ち上げられているのだ。
それらは悪霊の針よりも圧倒的に太く、貫通して突き出した切っ先は抜けないように内側に折り返して固定され、加えて焼き尽くさんばかりの高熱を発している。
激痛と焦熱に呻く悪霊がその鋭利な物体の正体を憶測する間もなく、それらは宙に浮く悪霊を元居た位置まで強引に引き戻し、更にそのままジョンの眼前まで引き寄せた。
そこで漸く、悪霊は身体に刺さるそれらの正体を視認する。
棘を纏う八本の黒き鋭利な物体――それらは剣を掲げるジョンの背後から生え伸び、全長凡そ十二メートルの長さと複数の関節、そして鋭い爪を有する昆虫の如き形状の節足であった。
その外見は、巨大な黒い『蜘蛛の脚』そのものだった。
雷光の如き速さで物理的拘束を可能とする圧倒的な能力と、「決して逃がさない」という人間のジョンには無かった容赦の無さと冷酷さ、まさに悪魔の王と呼ぶべき悍ましさの体現を目の当たりにし、悪霊の表情が悲痛に歪む。
「お――」
お願いだ、何でもする、だから見逃してくれ――待ち受ける恐怖に耐えきれず悪霊がそんな情けない命乞いを言葉にするよりも早く、ジョンは掲げていた両手長剣を上から下にまっすぐ一回振り下ろした。
するとその一閃は三つに拡散し、それらは悪霊の左肩と両脚の付け根を走り抜ける。
数拍の後、悪霊の左腕と両脚がその身体から落下し、穴という穴から赤黒い血液と悲惨な絶叫が噴出した。
胴と頭だけとなったその姿は、まるでだるまの様で余りにも哀れだ。
しかしその絶叫の原因は痛みではない。
手足を失ってもはや逃げる手段が無くなったことに対する絶望だ。
そして遂に、悪霊の結末が
「これに
ジョンは宙に吊るされた悪霊の目の前に、一冊の絢爛な装丁を施した真っ赤な本を掲げた。
対照的に、それを目にした悪霊の表情がみるみる真っ青に染まっていく。
『悪魔の王が所持する赤い本』が持つ意味を、悪霊は即座に理解してしまったからだ。
「ま……ま、ま、まさかそれは、
悪魔にとって契約とは絶対順守の概念であり、それがどの様な内容であっても、そしていかなる場合であっても守らねばならない。
しかしジョンが要求したのは悪魔達が最も嫌う『支配』という、契約に似て非なるものだった。
自由意志がある契約と違い、支配される対象の意志は消失して完全な道具と化す。
それは身体的な自由を奪うだけでなく、その悪魔の尊厳や存在意義、果ては思考までも奪ってしまうのだ。
これ以上の屈辱と苦痛は悪魔に存在せず、この支配から逃れる術を並の悪魔は持ち得ない。
「そうか……だが貴様に選択肢はない。“
ジョンがその言霊を放った直後、悪霊の体が大きく震えだし、全身から噴き出す血液が沸騰をはじめた。
「ジョオオオンッ! あ、あぁ、貴方ぁッ……一体、何を……!?」
「勘違いしている様だが、貴様に拒む権利などありはしない。何故ならこれは貴様の償いなのだから。せめて刻む名を決めるぐらいの自由はやろうと思ったのだが……それすら拒むというなら、私が貴様の名を刻んでやる。貴様を使ってな」
「や、止め――ぎッ、ぐッ、がぁあああ!? いっ、痛い!? 嫌だッ! 嫌だ嫌だ嫌だ痛い痛いいたいやめてやめてやべれえええええ!!」
悪霊の狂乱的な絶叫が轟く。
何が起きているのか全く理解出来ないまま、これまで以上の激痛が悪霊を襲ったのだ。
それが全身の骨や肉、内臓から魔力までの全てが溶かされいく感覚であり、身体に刺さる蜘蛛の足先から注がれた猛毒の如き泥が全てを変形させてぐちゃぐちゃに混ぜ合わせていることを悪霊が理解出来たのは、もはや苦悶の声すら上げられぬ程にその身体が変わり果てた頃だった。
かつてマシューのものだった魔女狩りの魔人の身体は粘質な泥に溶かされ、皮膚や筋肉や内臓は溶けて骨に混ざり、骨は粉々に砕かれてから一つに結合して固まり、血液や水などの体液は全て蒸発して消えた。
最後に残ったのは『魔女狩りの針』の形状に酷似した、血と鉄の色彩を持つ歪な針だった。
魔女狩りの魔人は、魔女狩りの針そのものと成ったのだ。
もはや声も言葉も叫びも、二度と上げることは出来ない。
血色の針は蜘蛛の脚からコンクリートの地面に滑り落ち、甲高い音を屋上に響かせる。
魔女狩りの魔人が完全に物言わぬ針に成り果てたことを確認したジョンは、自らの手でそれを拾い上げながらその切っ先を血溜まりに浸した。
「貴様の体を筆とし、貴様の血で名を刻み、貴様の全てを私は支配する。貴様の名は……そうだな、魔女に対する一方的な感情を一本の針へと変えた悪魔……その願いは決して受け入れられず、相手の感情など意に介さず、どこまでも傲慢で醜く哀れなもの――『
ジョンは笑いを零しながらながらどこか得意気に語り、赤い本を開いてペンに見立てた血塗れの針を頁に走らせる。
赤黒い『Smug Sting』の文字が頁に刻まれた瞬間、それを受け入れた赤い本は紅色の輝きを放ち、そしてしばらくするとジョンの手の中へと消失した。
この場での役目を終えたのだ。
こうして、魔女狩りの魔人は名を得た代わりに、ジョンという魔人の完全なる支配に置かれることとなった。
そこに悪霊の意志は、微塵も存在しない。
かつての願いを叶える思考も意志も失われた。
しかし悪霊だった針は、未だジョンの手に握られている。
変質しているとはいえその魔力は未だ健在であり、つまりそれを起因として転生術が発動する可能性は僅かながら残っている。
それを現世から排斥しなくてはならない。
ジョンは針を掌の上で何度か弄ぶと、やがて天高く放り投げ、そして言葉を紡ぐ。
「では『独りよがりな針』よ、最初の命令だ――“爆ぜて失せよ”」
その言霊が響き渡った瞬間、紫掛かった空に飛んだ針はひと際眩い輝きを放ち始めた。
しかし針はそのまま天高く飛び続け、ぶるぶると震える以上の事は起きない。
それはまるで僅かに残った悪霊の意志が、最後の抵抗を見せているかの様にも窺えた。
ジョンは仕方ないといった様子で一つ息を吐き、更に言葉を続ける。
「我が新たな従僕よ――汝、その魂を火花の如く爆ぜ、現世より疾く失せよ。これは王の勅命である。我が名を耳にしたならばその魂を賭して我が命を全うせよ。我が支配する領域は地獄の東方、従えし軍団は六十六、序列は一。その魂に刻め、汝の主の名を。偉大なる王の名を。我が名は――」
空で震える『独りよがりな針』に向けて剣を高々と掲げたジョンは、威風堂々にして剛毅果断な口上を告げた。
それはジョンが如何なる魔人であるのか、彼が如何なる力を有しているのか、そして如何なる悪魔をその身に宿したのかを表していた。
新たな従僕に自らの存在を誇示し、畏怖と慈悲を与え、強制と支配を可能とする彼の名が示されたのだ。
その名は現世と幽世において余りにも広く知れ渡った名であり、針と化した悪霊の魂はその命に喜んで従った。
何故ならばそれが最良の選択であるという思考になるよう、その魂に刻まれたからだ。
もはや抵抗する意志は微塵もなく、かつての願いは跡形も無い。
かの王の言霊を受け、それらは全て気泡の夢に等しいと悟ったのである。
天に浮かぶ針はその振動を更に強め、迸る赤き輝きを極め、そして残る魔力全てを使って、今まさにその身を炸裂させる。
故に、
「
偉大なる王の名と、LAの夕闇を照らす真っ赤な花の下に。
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