1-7/嵐の魔人 - 2
初めて『死』に直面した時、俺が抱くことの出来た感情は『恐怖』と『後悔』の二つだった。
恐怖――それは自らの死に対してではなく、自らの願いが叶わなくなることに対しての恐怖だった。
願いが永遠に叶わないという事実が、何よりも恐ろしかった。
後悔――それは自らの生に対してではなく、自らの願いを叶えられないことに対しての後悔だった。
叶える為の力が自分には無いという事実が、酷く心を苛んだ。
恐らくそれらは大抵の人間が抱くであろう『死』に対する感情とはかけ離れている筈で、意識が深い淀の底に沈む寸前、俺は正常な人としての在り方を捨てていた。
今思えば、それが見初められた理由だったのかもしれない。
自らの人間離れした感覚に溜息を吐き、完全に目が覚めた俺は胸や肩の違和感を煩わしく思いながらもゆっくりと立ち上がる。
そういえば魔人が針と称する鉄パイプ並に太く長い釘が、俺の体の五ヶ所に刺さっているのだった。
既に血は止まっており痛みも無いが、動きにくいので肩と太腿のそれを引き抜いて捨てると、落ちた針が冷たい音を数度響き渡らせた。
続けて胸の針を抜こうとした所で、愉快そうに笑っていた先程とは打って変わって、酷く怪訝な表情を浮かべる魔人が目に入った。
「ジョン、私は確かに貴方の心臓を貫いた。現に、貴方の胸には私の針が刺さったままだ。それなのに、それなのに何故、貴方は健在なのです? まるで、何事も無かったかの様に」
そう問われても、俺はただ首を竦めるだけ。
何故ならこういうものだからだ。
俺の精神は酷く歪だ。
「人々を守りたい」という願いは決して理想の形で叶わないと知りながら、その願いの為に生きることを止められない。
人並みの幸福をかけがえのないものと知りながら、それが失われることよりも自らの儚い願いが叶わないことを恐れる。
欠陥だらけで酷く歪な形の心だ。
そんな俺は往生の際にも願った。
人々を守る為の力が欲しいと。
「他の誰でもないこの俺が人々を守りたい」とどこまでも貪欲に願い、その結果俺は『死』を諦めた。
悪魔には人間としての生をくれてやり、対価として俺は願いを叶える為の力を得た。
「やはり……やはり貴方も、魔人なのですね」
そして俺――私はかつての自分と人間であることを捨て、自らの死を否定する『魔人』と成ったのだ。
そう、私は人ではない。
しかし普段の私は人らしく振舞い、人の様に生きている。
故に魔人としての私は人間の私が終わった時に目を覚ます。今が正にそれだ。
胸に刺さっていた鉄パイプ大の針を漸く引き抜き、それを眺める。
改めて見ると、随分太い針を刺してくれたものだ。
失血ではなくショックが死因と判断されるのが妥当だ。
おまけにシャツの胸元やスーツの肩口は血で真っ赤に滲み、穴が開いてしまっている。
お気に入りだったのに。
「――まったく……あぁまったく、心臓貫通というのは貴重な体験かもしれないが、そう何度も味わいたくないものだな。痛いし、辛いし、血は無くなるし、服は駄目になるしで面倒尽くし……不幸満載で幸いなことは何一つない」
人間を捨てても、私の精神が根本から変化することはなかった。
人の幸福は幸福だと人並みに感じることが出来るし、面倒事は嫌い、にもかかわらずお人好し。
食の好みや趣味趣向も全く変わらない。
痛いものは痛いと感じるし、死に対する感情も相変わらずで、対面すれば同じ恐怖と後悔の念に苛まれる。
今回の件も同様だ。
ミシェルと街の人々を救うことが出来ないかもしれないという恐怖と、全員を助ける方法を見つけられなかったという後悔。それしかなかった。
「いや、一つだけ、もし誰かが私の様に刺し貫かれてしまった時に痛みを共感することは出来るか。まぁ刺された者にとっては何の慰みにもならないだろうが、それ以上被害は出すまいと、守らねばならんと、そう私の気が昂ることだろう」
故に、結局私は人間であることを捨てても、自分の身の為ではなく自分の願いの為にしか死ぬ事が出来なかったのだ。
そういう歪な点を鑑みると、『死』に対する観点だけで言えば人間だった頃の私の方が人ではなかったのかもしれない。
思考の終着点としては妥当というか、そう思える理由があった。
「それで魔女狩りの魔人よ、お前は今何をしている? ミシェルに一体何を向けている? 私の記憶が数秒前と同じであるなら、それは私の四肢と心臓に刺さっていた針と同じだろう? それがなにを意味するのか分かっているのか? 分かっているうえで、今尚その針を振りかざす気か? 答えろ」
「なに……ですと? は、はは、ははははは。決まっていますとも、ええ!決まっています! 分かっています! 分かり尽くしています! この魔女に火の悪魔を堕とし、街の魔女全てを燃やし尽くす! その為に私はこの魔女を、この針で刺し貫くのです! そして私は――」
「不正解だ」
魔人が話している途中だったが、それ以上の雑言が聞くに堪えなかった私は徐に右腕を振る。
直後、針を握っていた魔人の右腕が、ぼとりという音を立てて地面に落ちた。
「え?」
咄嗟の事で訳が分からない様子の魔人は間抜けな声を漏らすが、自身の肩から噴出する大量の血を見て、漸く理解したのだろう。
次の瞬間には魔人が醜い絶叫を上げていた。
マルコムが語った通り、悪霊が取り憑いて変じた魔人の耐久力は紙の如く低級の様だが、まさか針一本で右腕が落ちるとは思わなかった。
骨や肉や血管の断面を覗かせる肩口から滝の様に血を流す魔人は、今まで浮かべなかった悲痛と焦りの表情をこちらに向ける。
「い、今のはッ……今のは私の針ッ!? ジョン! あ、あぁ、貴方、今何をしたのです!?」
「お前に貰った針をお前に返しただけ、いや、投げ返しただけだ」
「投げ返した、ですって? 正に魔人の膂力……!」
文字通り、私は胸に刺さっていた針を魔人の右腕目掛けて投擲したのだ。
当然、魔人の背後のミシェルには当たらない角度で狙いを付けた。
死ぬ前ならともかく、魔人の力を使えるこの身であれば造作もない。
これで奴は右腕を使えない筈だが、魔人は薄く笑みを浮かべている。
「ですが! 私の能力なら腕など無くとも魔女を刺し貫くことなど容易いのですよ! 直に陽は沈み、火の悪魔はここに転生する! 貴方がその膂力でいくら私の腕を奪い、この身を傷付けたとしても、私は術の完成までこの現世に留まることが出来る! 身体の一片でも残っていれば針刺しの力を使うことが出来るからです! つまり、この程度の妨害では無駄なのです無意味なのです無価値なのですよぉあははははははははは!」
「物理的な攻撃では時間稼ぎにしかならないことなど、最初から
未だ茜色混じりだが、空はもうすぐ夜の帳を下ろそうとしている。
もし夜になってしまえば転生の条件がすべて揃ってしまい、魔人を滅ぼさない限りこの街は炎に包まれるだろう。
熾烈弾による魔力供給の断絶が魔人を滅ぼす最も有効な手段だったが、それは確実な『魔力切れ』を狙う為だ。
それを待つ時間はもはや残されていない。
魔女狩りの魔人が「針刺し」の能力を思考するだけで発動できるものである以上、完全なる無力化が必要だ。
熾烈弾にそこまでの力はない。
――しかし、私には別の手がある。
「だが魔女狩りの魔人よ、いつ私がお前を殺すと言った?」
「……はい?」
「私はお前を殺さない。しかしお前は罪を、私を殺すという罪を犯した。それを私は絶対に許さない。目には目を、歯には歯をという言葉があるが、死に死を返す事は私の理に反する。故に、お前には対となる『
私は自らの死の間際、『怒り』を覚えていた。それは私に死を与える存在、つまり眼前の魔人に向けた感情だった。
死と対面した私の心はそれまで恐怖と後悔の二色だったが、それらを新たな色が塗り潰したのだ。
それはこれまで抱くことがなかった、しかしとても人間らしい感情だ。
私は、私の願いを妨げる者を許さない。
私が守ろうとした人々を殺そうとする魔人を許さない。
私を殺した魔人を決して許さない。
許さない。
許さない。
邪魔をする者は全て取り除く。
例えそれが、私が守りたいと思った者だったとしてもだ。
だが、それでも殺すことだけは人間の私が否定している。心の底で抗ってくる。
しかしこの憤りを抑えることはどうやっても出来そうにない。
故に、私はこの魔人には己の罪を償わせることにした。
その『生』を以って。
「償い……ははははは! 償い! 償いと来ましたかっ! それでぇ? 私をどうする気です? どこかに幽閉するのですか? 犯罪者として牢獄に閉じ込めるのですか? そんな魔術でも使えるのですか? そんなわけありませんよねぇ、だってそんなことが出来るなら、貴方は最初からしている筈ですから!」
「幽閉? 違うな。私が貴様に要求するのは忠誠だ」
「忠誠ぃ? 貴方何様ですか。幾ら力がある魔人とはいえ、驕りすぎじゃありませんかねぇ? それとも何ですか、そんなに貴方は偉いんですか? 従うと思っているのですか、ジョン!!」
「ああ、その通りだ。私にはその力がある。手段がある。権利がある。何故なら私は――」
ふと腰のホルスターに掛けていた制帽に意識が向き、私は徐にそれを手に取って目深に被る。
瞬間、魔力の気配が頭部から肩、胴、腕、脚と順に全身へと拡散し、そして身に纏う物全てが変質して質量を持つのを感じた。
自分の格好がどの様に変化しているのかはよく分からないが、私の姿を目の当たりにしていた魔女狩りの魔人は、かつてない程表情を強張らせた。
またしても予想外だったか、もしくは奴にとって良くない何かを私から感じ取ったのだろう。
そんな魔人の様を見て、私はこの制帽が何なのか漸く理解した。
マルコムから授かった制帽――それは私が何者なのかを示すための道具だったのだ。
恐らくこの状況を、マルコムは予見していたのだろう。
私自身が何者なのかを自覚させ、それを魔人に認識させる為にこの制帽が必要だと。
そして予知していたのだろう。
「――お前達の王だからだ」
私が『
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