1-8/その笑顔の為に - 1




「はぁ……」


 右手でボールペンを弄びながらデスクの上に広げた書類を眺める私の口から、深い溜息が漏れた。

 全くの無意識だったので自分でも驚いたが、誰かが見れば「幸せが逃げそうだ」などと大きなお世話でも掛けて来そうなぐらいには深い溜息だった。


 実際、私の幸福と安寧は随分前から地球の裏側に逃避行中の為、しばらくこの街LAには戻って来ない。

 つまり手遅れだ。


 もっとも、日々襲い来る面倒事の嵐を不幸と定義しなければ私は幾分か幸せなはずだから、心配される謂われは無いし、その大きなお世話は別の気遣いに回してほしい。

 何故なら、そのお世話は受け取る者が「惨めな気分に陥るだけ」だからだ。


「どうした、ジョン。そんな溜息吐いてっと、幸せが逃げるぞ。何か悩み事か? 財布でも落としたか?」


 そんな私の心情など露も知らない――正しくは知るつもりがない――サイモン主任チーフが熱々の珈琲コーヒーで満たされたマグカップを両手に携え、片方を私のデスクに置いた。

 どうやら私の分も淹れてくれたらしい。

 ここLA支部の死ぬほど薄い珈琲は味と引き換えに眠気覚ましには最高なので、その厚意だけは有難く受け取ろう。


「ありがとうございます。悩み事というか……もう終わった事だって分かってはいるんですが……」

「この前の『魔女狩り事件』の件か?」

「……はい」

「容疑者は逮捕出来なかったが、最初の被害者六人は魔造生命体ホムンクルスで、結局は居なかったんだ。拉致された新人ミシェルは大した怪我も無くその日のうちに救出出来たわけだし、実質的な被害はゼロ。全部お前のおかげだ。お手柄だったじゃあないか」


 諭す様な主任の言葉に対し、私は半ばその評価を受け入れていることを自覚しつつも、苦い笑みを浮かべるしかなかった。

 主任がそっくり言葉にした事件の概要を耳にしたことで、今まさに報告書兼記録資料としてまとめようとしている今回の事件の顛末が、私の脳裏に甦る。


 魔人犯罪デモニック・ケース『魔女狩り』の事件解決から、既に三日間が経過していた。


 本事件の容疑者の名前は、マシュー・エマーソン。

 半年前に交通事故で妻子を亡くしたことを除けば、LA西部のIT企業で働く普通の会社員男性だった。


 マシューは妻子を失ったことで計り知れない程の精神的ショックを受け、「もう一度妻子に会いたい」という悲痛な願いを抱いてしまった故に、悪魔につけ込まれる隙を作ってしまった。

 そして、その願いを叶える為に文字通り悪魔――悪霊に魂を売り、取り憑かれた彼は魔人と化した。

 彼は妻子を蘇らせる為に悪霊から授かった深淵なる知識に従って転生術を行おうとしたが、その精神は徐々に悪霊に侵食され、最後には彼の意識が消失した。

 結果、悪霊はマシューの願いの為に作ったものを、この街の人々を燃やし尽くす為に利用しようとした。

 出来ることなら私はマシューのことも救いたかったが、既に手遅れだった。

 最早彼は人に戻ることは決して叶わない、欲望のままに殺戮を企む魔人と成り果てていたのだ。

 その時点で彼の結末は決まっていた。


「確かに俺は、この街の人々を守ることが出来たと思います……でも、この事件で唯一のは、俺なんです。俺が……マシューを殺したんです」


 故に、私はLAを火の海にしようとした彼を殺害した。

 ただし言葉通りに彼の命を奪ったわけではない。

 実際に何をしたかと言えば、私は元マシューだった魔人の肉体と魂を完全に支配し、無理矢理服従させ、私の道具とすることでマシューと悪霊の自由と尊厳を奪ったのだ。


 かの魔人は現在、私が持つ『赤い本』に『Smug Sting独りよがりな針』という名前で魂を縛られ、私に使役されるその時を幽世で静かに待っている。


 言うなれば、生きたまま標本にしているのと一緒だ。

 それは間違いなく人としてはもちろん、魔人としても死んでいるのと全く変わらないだろう。

 既に彼の意識や思考する力は消失しているとはいえ、本人からしてみれば生き地獄の様なものかもしれない。

 悪霊にはいい気味だが。

 悔やむべくは「殺したくない」という私の我儘を押し通したが為に、マシューに永劫の苦しみを与えることになってしまったという事だ。

 例え本人がそれすら自覚できないとしても余りにも哀れで、結局殺すことと何ら変わらない。


 ただ彼は、愛する家族にもう一度会いたかっただけだというのに――。


 事件は解決した。人々を守ることも出来た。

 だが、私の中で燻る罪の意識と後悔の念が消える事は無い。

 理由はどうであれ、人々を守る為にマシューを殺したという事実は変わらないのだから。

 

「だがマシューの死体は見つからなかったし、それどころか現場には血痕すら無かった。お前さんがどうにかして無力化したからなんだろう? そのお前さんが言うんなら、お前さんは彼を殺したのかもしれない。けどな、お前さんだってんだろう? 普通ならあり得ないが、言ってみれば『正当防衛』だ。そうせざるを得ない理由はあった、だろ?」

「俺が怪我するのはいいんです。俺はそう簡単に死にませんし、それに正当防衛なんて適用されませんよ……だって、俺は人間じゃないんですから」


 私は魔人だ。穢れた悪魔を身に宿し、その力を己が欲望の為に揮う不死の人外だ。

 怪我はすぐ治るし、死んでもすぐに生き返る。

 不老かどうかは知らないが、滅多なことでは滅びない体と魔力を持っている。

 普通の人間でもない私には人間の法律で守ってもらう権利などない。

 それに甘んじることを、私自身が拒んでしまうのだ。

 これも私の我儘だ。

 こんな不器用で幼稚な自分を御しきれない自分が心底嫌になる。

 目を伏せ、眉間の皺を指先でほぐしていると、主任がカップをデスクに置く音が聞こえた。


「……なぁジョン。お前さん、捜査官になって何年になる?」

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