3 ふら子
「そう言えば、ふら子が今朝はシュークリームを買って帰ったのよ」
「ふら子って何ですか?」
藤崎さんが当たり前のように、「ふら子」と言ったが、それは店員同士でしか伝わらない。桃瀬はきょとんとして、訊ねてきた。
「ここのところ毎日、早朝に来てふらふらしながら店の中歩いて、何も買わないで帰ってく黒いジャンパーを着た若い女の客がいたのよ。ふらふらしてるから、ふら子」
桃瀬が、なるほど、と頷く。微妙なネーミングだか、単純でわかりやすい。
「今日は来る時間もいつもに比べれば遅かったし、服装も違うし、ふらふらしていなかったんだけどね。近所の高校の制服を着てたから、二人と同い年かもよ」
「そうなんですか? よく、ふら子だってわかりましたね」
「そりゃあ、店員なんだからお客様の顔はだいたい覚えてるわよ」
藤崎さんがえっへんと胸を張った。迫力がある。
「よほど美味しそうなやつだったんですね、そのシュークリーム」
「いやぁ桃瀬ちゃん、普通の百円のやつよ? それに、シュー生地見たって美味しそうって思う? 大事なのはカスタードじゃない」
「そういうものですかね?」
そんな風に藤崎さんと桃瀬と三人でしばらく世間話をしていると、噂をすればなのか、店長がやって来た。ジーンズに白いシャツに黒いスニーカーというラフな服装をしている。店長はあまりお喋りという感じではなく、どちらかというと朴訥とした印象を受ける。僕ら三人が注目して見ていると、顔を強張らせながら「何か顔についてるかい?」と自分の顔をぺたぺたと触っていた。
「お疲れさまです、店長」
「お疲れさま。日下部君、どう? 調子は」
「それなりに、もう仕事も覚えたと思います」
レジ打ちにも慣れ、ミスなくそこそこのスピードで対応できるようになった。もともと、一人で家の買い物をするので、レジ袋に物を詰めるのにも慣れている。
「そうか、よかった。残りの時間もよろしくね。ちょっと、事務所に忘れ物を取りに
来たんだ」
ぺこり、と頭を下げて店長はレジカウンターの奥へと入って行った。桃瀬が「人の良さそうな人だね」と頬をゆるめる。僕を雇ってくれているのだから、悪い人ではない。藤崎さんも、店長が来てからは、口数も少なくなり、少し落ち着いている。いるだけで安心感があるとは、さすが店長だ。
しばらくしてから、店長がレジに戻って来た。顔には困惑の表情を、手には赤いスマートフォンを携えている。
「藤崎さんのスマホがずっと鳴っているよ」
「あら? 何かしら? 出てもいいですか?」
店長はぐるりと店を見回し、「お客様もあんまりいないから、いいよ」とスマートフォンを藤崎さんに渡した。桃瀬は客ではないので、実質ゼロですよ、と教えたくなる。
藤崎さんが、いそいそと店の奥に消える。何かあったのかな? と桃瀬とそっと覗き込むように様子を窺っていると、奥から「え!?」と大きな声が聞こえた。
ちらりと一瞥すると、桃瀬と店長も藤崎さんの方へ視線を移していた。
藤崎さんが捲し立てるように電話の向こうの人に何かを訊ねまくり、声をトーンダウンさせ、すぐにカウンターに戻って来た。焦りと不安がぐちゃぐちゃになったように、表情を歪めている。
「どうしました?」
「店長! 車で来てますか?」
「え? うん。そこに停めてあるけど」
「車で送ってくれませんか? 娘が事故にあったみたいで!」
「本当に!?」
大丈夫なのだろうか、と心配になる。事故、とはかなりの大怪我をしているのかもしれない。店長は、思案するように腕を組むと、「わかりました、送って行きますよ」と藤崎さんに強く頷き、次に僕を見た。
「大丈夫なんで、送ってあげて下さい!」
桃瀬が力強く答える。君は部外者じゃないか、と指摘したくなる。店員でもなければ、客でもないじゃないか、と。
「私も送ったらすぐに戻って来るから、後よろしくね」
店長と藤崎さんは、すぐに店から出て行った。自動ドアがすっと動き、二人を退場させる。
こうして、店内に僕と桃瀬だけ、という状況が生まれた。
僕らはこのとき、次は僕らに試練が降り掛かる番だなんて微塵も考えていなかった。
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