おめでとう、S



最悪だ。

泣きたくなる。



これが映画なら良かった。

チープな御涙頂戴劇に私は辟易するだけで済んだ。

起承転結を装飾する為の悪足掻きが、まるでこの世で1番美しいと錯覚する愚者を嘲笑っても良かった。

けれど、これが現実であった時点でもう駄目だ。

結局、美談やら武勇伝やらに事は、地面に伏し、泣きじゃくる事ばかりだと思い知ってしまうから。


幾ら山を登り続けても、月に手は届かない。

どれほど肥料をやり、水をやり、「ありがとう」と言い聞かせたところで、隣の芝生は青い。

両手を地面に擦りつけながら血塗れになって掬っても、覆水は盆に返らない。

危険を顧みず斃れた花を取り、木に登っても、落花は枝に帰らず、

四肢の裂傷を耐え忍んで搔き集めても、破鏡は再び照らさない。


何ものにも昇華できない。

そこが救いのない袋小路なら尚更。

そんなもの、ただむごいだけだ。



私はSの腕を掴んで、女が蹲る横を通り過ぎた。

新宿の薄暗い通りに、その軽薄な景観にそぐわない、或いはポルノじみた安っぽい映画さながらの叫声が響き渡っていた。

それでも私は立ち止まらなかったし、誰も彼女に声をかけようとしなかった。

映画でもなければそれはただの面倒事なのだと、本当はみんな分かっているのだ。

巻き込み事故を避けようと視線を逸らす連中は、しかしその景色にはお似合いだった。

憐れみは同情より遠い。

誰も損を被らないうちは味方になろうとする。

私は良い人間だと自分を信じさせる根拠を得たいから。

偽善は生存本能に勝てはしない。

例えドナー承諾のカードを携帯していたとしても、彼女の前では無かったことにするだろう。

あれは「余ったらあげる」の意味で「差し出して救う」の意味は含有しない。


メゾン寧静はその中間を担う役割を全うするべきだった。


街灯の多い大通りに出ても、ブティックの立ち並ぶ絢爛な道を進んでいる間も、Sを引っ張る腕は重かった。

それでも私は振り返ったりしなかった。

何も話したくは無かったし、何も言われたくなかった。

どんな言葉が口を突いても、全部自己防衛の言い訳になるのが嫌だった。

ただ何処かへ逃げ出したかった。

命を天秤にかける奴らから、そんな勝ち戦を仕掛ける姑息な奴らから。


否定しても否定しても湧き上がる雑念は一向に振りきれなかった。

これ以上詰め込めないのに、ぎゅうぎゅうに押し込まれ、且つそれらは小さな入れ物の中でじっとしていなかった。

言葉にすれば自認を進めるだけだった。

それでも、それらの言葉にならない感情を発散させたくて堪らなかった。


新宿駅の、ひとつになり聞き取ることができない都塵の中で、行く当てのない私たちは、何処にも行き着くことができないまま、改札まで来てしまえばそこが行き止まりだった。

私たちは逆方面で、改札を入ればほんの数分も一緒にいることはない。

私はSの手を離した。振り返るとSはもう落ち着いているのが分かった。

私にはそれが心外だった。

口を開いてから、セイフティが外れている事に気がついた。

それでも私は抱え込んでいるうちの何かを吐き出さずにはいられなかった。


「来たのは間違いじゃなかった。間違ってるのは全部あっちの方だよ。

クソったれだって分かって、清々したじゃん。」


Sは「そうだね。」と言った。しかし、それには賛成も反対も内包されていなかった。

トリガーに指をかけていた私とって、それは否定と同義だった。


「私たちは間違ってない!」


責め立てるような声色になり、私はすぐに自分の失態に気が付いた。

それでも、Sは薄く微笑んで「そうだね」と言った。

改札のポーンという音が鳴り響き続け、その度に私たちの距離が離れていくようだった。


私たちは無言で改札を抜け、Sは時刻表を眺めながら私の横を歩いていた。

「ねぇ。」と話しかけると、Sは私の方に視線を向け、少し首を傾けた。

私は半ば睨むような視線を向けていたが、Sは涼しい顔をしていた。


「他人の為に死ぬのは止めてよ。死ぬ時は、自分の為に死ぬの。」


Sは「そうだね。」と言って含み笑いをした。

本当に分かっているのかと問い詰めたかった。

けれど、Sは「じゃあね。」と言って、さっさと自分のホームに向かって行った。

取り残された私は暫く彼女の背中を見つめていた。

タイトなミニスカートは歩きにくそうだったが、彼女はきちんと歩いていた。

迷うこともなく。躓くこともなく。

彼女に歩調に合わせて歩いていたつもりだったが、本当は私が付き添われていたのかもしれないと思った。



自分のホームに行くと、冷たい風が吹いていた。

誰も彼もが手元のスマートフォンに夢中で、イヤホンをして牙城を築いている。

両手をポケットに突っ込んで今日という日にため息を吐いていると、向こうのホームにいるSを見つけた。

手元に視線を落として、何か眺めている。

一瞬、方位磁石で方角を確認しているのだろうかと思った。

南北を頭に叩き込み、明日の仕事に向けて気持ちを切り替えているに違いなかった。

Sは一度入社すれば辞める選択を出来ないだろうと思っていたから、内定を出した就職先が本当にホワイトな職場で良かったと安心したのを覚えている。

Sは、周りはみんな問題がなくて、自分だけがダメだと言った。

そういうものだろう。誰だって他人は易々と歩いているように見える。

ハイヒールで歩き続け、足が痛くても、良い女ほど文句ひとつ言わず颯爽と歩き続けるものだ。

世の中はそういう風に出来ている。


私も将来はSのように働くのだろうかと思案した。

もしかしたら、死ぬ場所も死ぬタイミングも見つけられず、就職することになるかもしれない。

そうなったら、私はSのように働きたかった。

実直で、何も捻じ曲がったところがなく、人の善意も悪意もそのまま受け取ってしまうようなお人好しの彼女が、私は好きだった。


「まもなく電車が参ります。白線の内側までお下がり下さい。」


電子的なアナウンスを聞きながら、再度Sに視線を戻すと、Sの背後に女が立っていた。

あの女だった。

未だ憐れみを乞うような表情でSを見つめていた。

私は列を外れ、ホームドアに手をかけた。

Sはまだ背後の女に気が付いていなかった。

アナウンスが繰り返される間に、Sが顔を上げた。

そして私に気が付くと左腕を上げ、大きく手を振りながら、嬉しそうに、にっこりと微笑んだ。


「後ろ!」


私が叫んだ時にはもう遅かった。

あと数秒早ければ。彼女が微笑む前に私は彼女に訴えるべきだったとすぐに分かった。

Sは背後の女に全く気が付かないまま、鞄をホームに落とし、勢いをつけてホームドアに飛び乗った。

周囲の客の視線を一身に集めて、Sはその数だけスポットライトを浴びたように目を輝かせていた。

舞台から飛び降りる演者の如く両手を広げて、Sは渾身の力でホームドアを蹴った。



急ブレーキと警笛の音が脳幹を震わせた。

その瞬間が過ぎ去って尚、緊迫と衝撃が全身に纏わりついて私を離さなかった。

無音の末葉に生声のアナウンスが割り込み、ざわめきが起こった。

女の悲鳴が上がり、野次馬が囃子立て始めた。

視線を下に向けたが、Sのは見当たらなかった。

車窓を挟んで、女を見た。

女からもよく見えた事だろう。

ひとつの命が鈍い音になり、肉片になり、生命から物体へ転じる瞬間が。

女は酷く青ざめた顔をしていた。

Sが死んだからか、心臓を貰い損ねたからかは定かではなかった。


緊急放送にどよめくホームを歩き出した。

ふざけんなだとか、最悪だとか。馬鹿だの、塵だの、人に迷惑を掛けないで死ねだの、そういった罵詈雑言を浴びながら、私は人の流れに逆らって反対側のホームへ向かった。

他人に汚される前にSの遺した鞄を回収しなければならなかった。

野次馬の中から彼女のバッグを拾うと、私は手持ち無沙汰になりベンチに座ってその光景を眺めていた。


警察と救急が来て、迷惑そうな顔で線路を見下ろし始めた。

彼らの段取りが済んだらしいところで私は立ち上がり、警察に対して、飛び込んだのはSだと言った。


「君、知り合いなの?」

「はい。友人でした。」

「一緒にいたの?」

「反対側のホームにいました。」

「彼女に何が起きたのか見ていたのかな。」

「はい。見ていました。」


警察は憐れむような顔で私を見降ろしていた。

彼らに話が出来るまで、私は女が逃げ出しやしないかと内心不安で、心拍数が上がるのを抑えれきれなかった。

身体中に汗をかいていたのに、手足の先は氷水につけたみたいに冷たかった。

手足だけでなく、声まで震えているのは我ながら滑稽だった。

殆ど感覚のない右腕を上げて、私は女を指さした。

心臓が頭蓋骨の中に押し込まれたように、窮屈な動悸に支配されていた。


「あの女が押した。」


警察が一斉に女に視線を向けた。

無関係を装っていた女が、突然のスポットライトに動揺しているのは、私以上に滑稽だった。

2,3人の警察が女を囲み、緊張のあまり女は今にも嘔吐しそうな有様だったし、もしかしたら実際に吐いたかもしれない。

しかし、私はそれを見届ける前にホームから立ち去った。


監視カメラやその他の証言で、女はすぐに解放されるだろう。

私は何かの罪に問われるのかもしれない。

それでも良かった。私は満足だった。

一矢報いてやったことがSへの手向けになると思ったし、単純に痛快だった。


女は自ら心臓を無駄にした。

そしてひとりの人間を死に追いやる事実に打ち震えることだろう。

陳腐ちんぷ奸策かんさくろうしたむくいを受けろ。

私が殺したのかと苛まれながら、残りの人生を生きれば良い。


ざわめきの止んだ新宿駅のホームで、私は深呼吸をして、狭い空を見上げた。

冷たい空気が肺を侵食し、私はバッグを抱えなおした。

視線を下ろすと、メゾン寧静の封筒が見えていた。

ゴミ箱に投げ入れようとして、これはSの最後の救いだったのだと思い、再び鞄に仕舞い込んだ。

そして、メゾン寧静へ戻ると、封筒に入っていた申込用紙に、遺族のお手紙コーナーにあったボールペンで今日人身事故で死んだのはSだと書いた。

申込用紙をポストに入れ、他の封筒は破って敷地内に撒いた。

鞄が随分軽くなった気がして、深呼吸をしてからメゾン寧静に背を向けた。


おめでとう、死なせたくない人たち。

二兎を追い一兎も得ず、それでいて美しい世界を保った気になっていれば良い。


救われない私たちは、精々自分を救う事に懸命になろう。

苦しい現状に耐えられない脆弱な人間が死ぬのだと勘違いしている愚かな大衆とは、到底理解し合えないから。

今のこの瞬間の苦しみに耐えるだけなら誰にだって出来るものだ。

この先同じ苦しみを抱え続けることが、堪らなく苦しい。

希死念慮は消えない。自殺念慮は私たちを離さない。

上手く巻いてやったと思っても、彼らは雌伏し、常に私たちが油断した一瞬を狙い続けている。

未来で苦しみに悶える自分を救う為、今ここで死ぬのは決して早計ではないのだ。


おめでとう、S。

金科玉条きんかぎょくじょうの高い壁を越え、見事、解脱げだつを果たした。

死の選択肢を手にした貴女が、最期に笑顔でいてくれて良かった。


心からの祝福を贈ると共に、

どうか、貴女が再び生まれ来るならば、

愚かな大衆の、その中のひとりへと転生することを願う。





おわり

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