さよなら、ずるい世界
「そんなのってずるいよ。」
施設の出入口をくぐる前に既にSは泣き出していた。
嗚咽を堪えきれないSの横で私は歯を食いしばり、両手をポケットの中で身体に押し付けていた。
口先ばかりの謝罪を聞いた瞬間から、心臓が頭蓋骨の中に移動したみたいに強い動悸がし続けていた。
彼らに馬乗りになって罵声を浴びせたい衝動を堪えている一方で、私は失意の底にいた。
ここへ来れば、私たちの選択を尊重する大人がいると思っていた。
ただ「お疲れさまでした」と言って、自分の臓器がどのような手順で他人を救うのか説明されるのだと思っていた。
私たちはそれを聞いて、この些末な命さえ生まれてきた意義があるのだと、何ものにも変え難い、消え難い幸福感を得て、そしてその幸福を齎した施設の人間も有意義な仕事をしたと満足感を得る。
そういう循環の叶う時代が、その一歩が、ようやく踏み出されたと希望を抱いていたというのに。
ここまで足を運ばせておいて、遺族のメッセージやカウンセリングルームの選択をさせておいて、ようやく辿り着いた個室で、わざわざ蹴落とすような真似をするなんて余りにタチが悪い。
存在しない希望をあたかもあるように見せかけて、そんなのは詐欺だ。
「あんな施設、もう忘れな。最低なところ。こんなところであんな奴らの思い通りにされるくらいなら、その辺のゴミ溜めで死んだ方がずっとマシだよ。」
私がそう言うと、周囲を歩いていた大人がこちらを振り向いた。
そして嗚咽するSを見、「寧静」というワードがどこからともなく聞こえた。
一瞬足を止めた大人も、私が睨むとそそくさと立ち去った。
「死にたい奴は死なせとけよォ!」
遠くから酒に酔わされた若い男が冷やかして叫んだ。安全圏にいるつもりだろうか。
私は今すぐ走って行って、その男を捕まえ、メゾン寧静に引きずっていきたかった。
「貴方の言う通りだ」と言って、私たちを誤認している施設の人間の心が折れるまで、そのシンプル且つ要点を得た素晴らしい意見を拡張機で叫び続けて欲しかった。
私たちは「生きる選択肢」から逃げたいわけじゃない。
私たちはただ右折と左折を選ぶように「生きる」と「死ぬ」の選択肢を持っていたいだけだ。
それなのに、私たちが方位磁石を失くした為に北へ向かう事ができないと信じて止まない連中は、私たちの肩を掴んで北を向かせようとする。
南へ行きたいのだと言うと絶対にダメだと言う。
少しの寄り道も許さないくせに、仕方なく北へ歩き出すと落とし穴に落とされる。
憐れんで、上から土を被せる。「地上へ近付いたでしょ、這いあがって、また北を目指しましょう」なんて言って、やっと上がると彼らはもうずっと手の届かないところにいる。
南へ向きたいのを堪えて北へ向く。喉が渇いて、飢えに喘いで、それでも一歩一歩進む。余りの寒さに、立ち止まりたいのを我慢して歩いている。それなのに歩みが遅いと人とぶつかり、行進の邪魔だと怒鳴られる。置き去りにされ、足手まといだと疎まれる。
私たちは全部理解している。行進の邪魔をしてはいけないことも、北がどちらかも、方位磁石が懐で心もとなく揺れていることも。
分かっていて南へ進みたいのだ。分かっていて、ここで立ち止まりたいのだ。
多様性は、北を指す色が青でも緑でも良いと認めることじゃない。
西でも東でも、好きな方向へ進む連中に干渉しないことだ。
そのことに、偽善者どもは良い加減気付いても良い頃だ。
「あの、寧静のスタッフの方ですか?」
信号機が変わるのを待っている時、背後からそう尋ねられた。
振り返ると、30代と思しき女性が両手を祈るような形で握りしめて立っていた。
私が「そうだ」と答えるより前に、Sが「違います」と言った。
すると女は今にも泣きそうな顔で両手を擦った。
「入所ご希望の方ですか?ドナーになりませんか?私たちのヒーローになってくれませんか?」
信号が変わるのと同時にSの顔色も変わった。私がSの腕を掴んで行こうとすると、逆側の腕を女が掴んだ。
恐るべき生への執着を体現する女は、狙った獲物を逃がすまいと必死の形相だった。
「息子が心臓移植を待っているんです。もう、これ以上待てないんです。まだ10歳の幼い子供なんです。外国にも行けないんです。息子に心臓を譲ってくれませんか?」
「止めてください。」
「お願いします。心臓を譲ってください。お願いします。お願いします。」
恥ずかしげもなく涙を流す女に現実を突きつけるのは簡単だった。
お互いに許容できない1年という期間を教えてやれば、女は手を離したに違いない。
けれど、私はその女の
幼い子供の延命を望むのは母親として正しい精神だろう。
だが、それは苦悩に苛まれ一進一退を繰り返した末、唯一の救済を求めて鉛のような身体を引き摺り辿り着いた人間に向けるべきではなかった。
私たちは南へ向かうだけの人間であって、北へ向かう連中に遠慮しなければならないわけじゃない。
衣服も靴も譲ってやる義理はない。
まして良心に漬け込み、自己犠牲を督促する偽善者風情には。
私がSと女の間に割って入ると、それでも女はSに縋って来た。
「S、警察呼んで。」
「でも…、この人は」
「悪人じゃない?貴女に死んでくれって頼む人が?頼み方が優しいだけ。自分で手を下さないだけ。この女は貴女を殺そうとしてるのよ!」
私の言葉を聞いた女の顔から血の気が引いた。
彼女だって、その事は重々承知のはずなのに。そうでなければ度し難いただの馬鹿だ。
女はほんの少し、まるで心外な事を云い放たれたかのように後ずさりしたが、アスファルトに靴底が擦りつけられる音を立てながら、背後からナイフでも突きつけられているような剣幕で直ぐに距離を詰めてきた。
「私は息子を助けたいだけよ!どうせ死ぬなら、他人の役に立って死になさいよ!
何の不自由もないくせに、あんたたちの治療費の7割は、私たちが払っている税金なのよ!」
「残念なことね、私たちは精神科には通ってません。
私たちが払っている健康保険料が、貴女の息子さんの治療費になっているのよ。」
「あんたなんか、生き残ってどうするのよ!」
腹の底から本性を引き摺り出した女が、涙混じりのガラガラ声で叫んだ。
その言葉は私から平衡感覚を奪ったように思えた。
混濁した思考が優勢に立ち、味方にいたはずの理性を奪われかけて、私は劣勢だった。
対等だったはずの私たちの足場が既に崩れて、私を支えるだけの余力がないのを感じた。
けれど、実際に崩れ落ちたのは女の方だった。
軟弱な脂肪だけを残して身体の芯を引き抜いたように、ぐにゃりと崩れたかと思うとアスファルトに膝をつき、涙を流すばかりになった。
祈りのポーズさながら、両手を胸の前で握りしめ、俯きながら女はすすり泣いた。
しかし彼女も知っている。慈悲深い神など存在しない。
だから、それは祈りのポーズではなく、余りに理不尽な現実への防御姿勢であるように思えた。
そして、殆ど同じポーズでSが女を見下ろしていた。
私はSの手を引いて、尻尾を巻いて逃げ出すべきだった。
けれど、この時点で既に勝敗がついていた。
私は動けなかった。
女は暫くアスファルトに黒いしみを描いた。
それは何かの花のように見え、その短すぎる生を強調するかのごとく萎れる
血が滴るより痛々しく、踏み付けにされた花壇のように理不尽な落花だった。
彼女は神の前で贖罪を求めるかのごとく口を開いた。
私たちがいてもいなくても、彼女はそう言わずにはいられなかったように見えた。
「貴女たちは、明日叶えたい夢がある?
来年、再来年。10年後。なりたい姿を思い描いて、それに向かって毎日必死に追いかけている?
朝、目が覚めただけで心の底から安堵して、今日を生きられる喜びに打ち震えることがある?
その命に、見合うように生きている……?」
女は私たちを見上げ、命乞いをするような瞳から涙を零した。
そして声には出さずに、震える唇を『お願い』と動かした。
「病気が治ったら、息子は医者になりたいと言うんです。
あの子が大人になれたら、きっと世界の役に立つ立派な子になります。
あなた方の命を、決して無駄にはしません。
あなた方のして下さったことに感謝し、敬意を払い生きていきます。
だから、お願いします。貴女の命を、息子にください。お願いします。お願いします。」
女は、所々をどす黒く色を変えたアスファルトに額を着けた。
息もつけない程の嗚咽を伴いながら、二回りも年下の、生きる価値のない、どうしようもない、死にたがりの小娘に向かって。
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