【第二章】自殺念慮が通ります。白線の内側までお下がりください。

初めまして、死の選択を認める世界


はっきり言って、前Sが死んだ場所は、私の理想の場所だった。

だから新Sに何故一緒に死ななかったのか尋ねられ、前Sに腹が立った。


「私は誰かと一緒に死ぬなんて御免なの。Sには裏切られたのよ。

私の場所を奪うなんて。友達だと思っていたのに、信じられない。」

「難しいね。」


そう言ってから、Sは穏やかな笑みを目元に浮かべ、出会った時には既に左手の内にあったコーヒーを口に含んだ。

視線は新宿駅前の雑踏に向けられていたが、彼女が目的を持って眺めていないのは明白だった。

紙ストローの味も、かしましい音楽も彼女の心を乱すことがなかった。

その、どこかに気を取られているような、心ここにあらずという状態は普段通りと言えば、その通りだった。

彼女はいつだって、薄い笑みを浮かべて「そうだね。」と言う人間だった。

しかし今日は会った瞬間から、彼女に何か心境の変化があったのだと分かっていた。

土日も構わず、いつも決まりきったリクルートスーツに身を包んでいたSが、今日は違ったからだ。

タイトなミニスカートに黒の細いニットを纏っていて、渋谷とか新宿に居そうな人種を装っていた。

スタイルは問題なかったが、余りに唐突な変化に化粧はついていくことができないように見えた。


「こういう服着てみたかったんだよね。変かな。」


Sはスカートの裾を伸ばすように引っ張りながら、恥ずかしそうに俯いた。

私は横目で見つめ、彼女のそれが、歓迎すべき変化か、そうでないか、見極めようとした。


「変じゃないよ。着たいなら着れば良いじゃん。後からしっくりくるようになるよ。」

「そうだよね。あのね、私、結局就職したけど、全然だめなの。みんな優しくて本当に良いところだけど、私だけがだめなの。変わるとしたら私しかいないって。分かる?」

「分かるよ。」


私ははっきりと肯定したはずだが、Sはそれから、自分が如何に恵まれた環境にいるのかを話し始めた。

まるで彼らを擁護するような口振りで、そうしなければ、私が彼らを痛烈に批判すると思っているような必死さだった。

彼女が幸福な環境にいる事は事実で、私が訂正しなければならない箇所はどこにもなかったのに。

既知の情報を改めて言い含められている時間は退屈だったが、私は口を挟まなかった。

時折相槌を打ちながら、視線の先に現れた女を目で追い、彼女の笑顔が、私たちの前を通り過ぎる間に消えるかどうか眺めていた。

女は結局、電話をしながらずっと笑っていた。

彼女の表情が見えなくなった時、長い沈黙のさなかにいると気がついた。

私がSに視線を向けると、彼女は真剣な眼差しで私を見つめていた。


「どうしたの。」

私が尋ねると、彼女はバッグから封筒を取り出し、私に差し出した。

表には何も書いていない簡素なA4サイズの封筒だった。同封された紙面の最初の一枚を取り出すと、それがポスティング用のチラシだと分かった。


「もしかしたら、貴方には向かないかもしれないけど、私、これを予約したの。」


彼女は私の顔色に何の変化も生じないことに気まずくなったのか、続けて口を開き、施設に入ったらもう会えないの、と言った。


「そう。」


特別な感情を抱かなかった私は書面を封筒の中に戻し、彼女へ返した。

彼女は少しがっかりしているように見えた。


「良いんじゃない。」


私がそう言ったのを聞いて、彼女は心を決めたように言った。


「一緒に来ない?その辺の山で死ぬくらいならさ、私と一緒に……。」


尻すぼみになった彼女の言葉は最後の方はもう聞こえなかった。

そして彼女は「ごめん。」と言った。


「貴女はひとりで死にたいんだものね。」


彼女はそう言って視線を逸らしたまま、封筒をしまった。

彼女の言うとおり、私はひとりで死にたかった。

それでもSが予約したという施設に興味がないわけではなかった。

実際、私は同じ資料を既に持っていた。候補としては劣勢ながら、記憶の片隅にはおいていた。

施設の特性を考えれば、彼女が惹かれるのは当然のように思えた。


「今日の14時半の予約なの。」


彼女はそれが何かの罰を言い渡される時刻かのように言った。

就活をしていた時、よく面接の日時をそういう言い方をしていた。

同時に、そして確かに、私への許しを請う声色を秘めていた。


「もし入所できることになったら、もう会えない。ごめんね。貴女を残していくのは、なんだか心苦しいな。」

「別に。それが貴女の選択なら。」

「ありがとう。葉月ちゃんは優しいね。」


その言葉に私は返事をしなかった。

本当に優しかったら、私は彼女を引き留めたはずだった。

それどころか、私は14時になってもグズグズしている彼女を先導するように歩き出した。

人の流れに逆らうように歩き続け、Sの受ける空気抵抗を軽減し続けた。


その施設は新宿駅から6,7分程度の所にあり、全体としては役所のような出で立ちをしていた。

表に装飾の類はなく、巨大な人工石に掘られた『メゾン寧静ねいせい』の文字だけが自殺志願者たちに対して、ユートピアに到着したのだと示していた。


メゾン寧静は、日本で唯一認められた自殺幇助施設だ。


依然として減少傾向にない自殺者数を、同じく依然として不足するドナー数に変換する為に考案された。

この施設の設立が公になった時、多くのから批判された一方で、その施設を必要とする人間は歓喜に沸いた。

自分たちの死が認められるばかりか、歓迎され、世間の役に立つなど、思ってもみない棚ぼただった。

初めてこの施設のニュースを見た時、私が真っ先に思ったのは前Sのことだった。

現Sの言うとおりだ。その辺の山で死ぬくらいなら、誰かの役に立って死ぬ方が、誰だって良い。

前Sも、もう1年長く現世で右往左往していれば、ただ死ぬだけでなく、その命を有効活用できたものを。

私は、死ぬべき時に死ぬべき場所が見つかっていなかった場合、ここを訪れようと思っていた。


質素なユートピアはしかし、殺風景な入り口を過ぎれば打って変わって、受付に行くまでの通路は色鮮やかな『ご遺族からのメッセージ』コーナーに埋め尽くされていた。

ピンク、水色、黄色、白、花柄、水玉、猫。

それらの薄い紙っぺらには、到底抱えきれない程の感情が溢れんばかりに盛られている。

そのあからさまな自殺忌避の演出に私は興ざめし、瞬く間にこの施設に対する信用を失った。

自殺志願者の集まる場所に『あなたのことを思う人がいます』という広告を置いても無駄だという事が分からないは、結局私たちを救う手立てを持たないというのが私の持論だった。

それでも、この施設はこれに良い役割を持たせているかもしれない。

この程度の呼びかけで誰かを想起し、涙ぐむような人間はここで折り返すべき事は明白だった。

門構えといい、軽薄な演出といい、邪な気持ちを隠し持った人間には効力を発揮するのかもしれない。

心配して欲しかっただの、気の迷いだの、来訪履歴が欲しかっただけだの、そういう衆愚から時間を節約する為の対応策と考えれば打倒とも思えた。


を救う為に本当に尽力する職員の可能性を考え、裏切られても心が折れない程度の僅かな期待を寄せつつ、歩みを進めているとしばらくしてSの気配が消えたことに気が付いた。

振り返ると、私がまさに邪な人間が陥るであろうと想定した状態で、Sは立ちつくしていた。

明らかにその演出によって足止めされ、胸を痛め、自らの決定に対する自信と覇気を失っていた。


「止める?」


私が立ち止まって彼女にそう言うと、彼女は首を横に振った。

蒼白な顔をして俯くSに、私は「今日は帰ろう」と言った。


「でも予約したんだもの…。」

「向こうは仕事だよ。キャンセルしたって迷惑だなんて思わないよ。」


Sは真っ白な左手を右手で握りしめていた。

彼女の考える事は理解できた。このままとんぼ返りすれば、この場所へ来た事よりも最後までやり遂げなかった事実が増えるばかりで、それは静かに自分を締め上げ、如何に自分が勇気のない人間か、ただ右往左往するだけの愚かな人間かを確かめただけになると。

私もこの施設がもう少しまともだったら同じように考えただろう。

私が壁に貼ってある『Jへ』という手紙を読み終え、『Mへ愛をこめて』という手紙を読み始めた時、Sは静かに動き出した。

私は『M』の生い立ちを知っただけで、Mの父がその後何を伝えたかったのか読めずに、Sの後を追った。


廊下を進むと突き当りに扉が3つ並んでいた。

ひとつは、お悩み相談室(有人:カウンセラーがお待ちしています)。

もうひとつは、お悩み相談室(無人:チャット機能でカウンセラーとお話しできます)。

最後が、「入所ご希望の方」と不親切なまでに簡素に書かれた部屋だった。

まるで見つけて欲しくないとでもいうように。そんな馬鹿な事があるかと思ったが、私は礼節を重んじてノックした。

中に入ると病院さながらの待合室があり、そこにふたりの受付係がいた。


「入所ご希望の方ですか?」


片方の女が立ち上がり、薄く微笑みながらそう言った。

それは良い心掛けに思えた。ここは新宿だ。

死に方のサラダボウルと言って良い。

辛辣な態度で追い返えせば、その他名前もない無意味な場所で死体を増やすことは明白だった。


Sが消え入りそうな声で「はい」と答えると、受付の女は「2番のお部屋へどうぞ。お掛けになってお待ちください。」と言った。

言われた通りの部屋に行くと、そこは隅に観葉植物が置かれ、角の丸い三角形の机と椅子が2つあるばかりの部屋だった。

机の上には水槽が置かれ、中では何匹かの観賞魚が泳いでいた。

私たちはそれぞれ腰掛け、「綺麗なところだね」などと沈黙を埋める為の言葉を紡いだ。

しばらくして30代前半くらいの若い女性が椅子を転がしながら、軽薄な笑みを浮かべて部屋に入ってきた。


「お待たせしました~。本日担当させて頂きます、山本と申します。

えぇっと本日は、お姉さんがお付き添いで来てくれたのかな?」


山本という担当はSを見て首を傾げた。座っている位置で把握できないものだろうか。

口ごもったSの代わりに私が答えた。


「私が付き添いです。姉妹ではありません。友人です。」

「あっ、そうなんですね~。失礼しました。それでは、まずこちらの施設について簡単に説明させて頂きます。

ここメゾン寧静はメンタルクリニックを併設した自殺幇助じさつほうじょ施設でございます。

入所ご希望の方は1年間のクリニック受診ののち、入所から丁度1年後にドナーになるか社会復帰するか選択して頂きます。

こちらの資料のとおり、約半数の方は社会復帰していらっしゃいます。

社会復帰に際しましては、こちらが提携しているクリニック、施設へ人材斡旋しておりますので、ご希望の方はみなさま定職に就くことが可能です。

ドナーをご希望される方も同じく提携先の病院へ移って頂き、そちらで健康診断等行いました後、ご希望のタイミングで手術室へ入ることが可能となります。」


女が話を続けている間、私は観賞用の水槽が、退屈と辟易を紛らわす為に置かれているのだと理解した。

今の話を聞いても尚、1年も待つくらいなら今ここで死んだ方がマシだと、Sは思わなかったようだ。

まだこの施設に微かな希望を抱き続けているSは熱心に耳を傾けていた。


「こちらの契約書にサインを頂き、入所日の1週間前までに入会金を頂く形となります。」


女がそう言った時、初めてSが口を開いた。契約書の一番下を指さしていた。


「両親のサインが必要なんですか?」

「左様でございます。ご家族全員のサインが必要となります。

また契約書へサインをしていただく際はおひとりずつ個室へ入室して頂き、承諾の意思を口頭でも確認させて頂いております。」


女が哀れみの表情を一瞬見せた。目元は無感情で、唇を頑なに閉じたまま、口角だけを上げた。

まるで挑発のような笑みだった。

先へ進もうとする女を遮って、私は口を挟んだ。


「親の同意を得られる人がいるんですか?」


抑揚のない言葉を発したつもりだったが、耳に届いたのは明らかに敵意のある反語だった。

Sが私を見た。

その顔は悲観に埋もれ、救済を求めていた。


「えぇ、勿論です。」


私と女はどちらかが折れるまで見つめ合っていた。

折れたのは女だった。

女は「申し訳ありません。規則ですので。」と言った。


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