ハロー、私の新しいS
新宿駅に立ち戻った私は
明日峰というのは私がつけた名前だ。
名もない山だから、名称が必要だった。
人混みで、カーセックス未遂事件の山に行こうなんて、流石に言えない。
歩いたら2時間はかかるので、途中でタクシーを拾い、山の麓までタクシー代を払った。
財布の中がだいぶ心もとなくなってきた。
ATMに寄ってくるべきだったと思いながら、財布を鞄にしまい、私は見えない山頂を見上げた。
未開拓というべきか、車で行くことを前提に舗装されたというべきか、…言いたいことは伝わるだろう。
高尾山のような観光の為の山ではないのだ。
去年はふたりで登ったから楽しかったが、ひとりで登るのは退屈だ。
徒歩の客は獣道のような踏み慣らしただけの道しかないし、残念ながら近道みたいな階段もない。
茂みを掻き分ける動作が必要で、気がつくとなんかの虫が服についている。
でっかい蜘蛛がついていた時には、流石に勘弁してよと思ってしまった。
八合目。
なんて立て札はないけれど、丁度そのくらいだろう。
蛇がうねる様な道が佳境に入って、16つ目のカーブを右にハンドルをきって、17つ目のカーブと丁度その半分のところ。
ここに間違いない。
カーセックス未遂事件のあと、パトカーの中でセラピーの話をろくに聞かないで、溢れる涙を無視するように、カーブの数を数えていたから。
絶対に、もう一度ここに来てやろうと思っていたから。
確か、廃車が捨てられていたのは、向こうの斜面だ。
最新式のガードレールを避けて、古びた旧式のガードレールの隙間を抜け、斜面をずり落ちるように進む。
ここからは時間勝負だ。
茂みに隠れたって、温度やら二酸化炭素やらの感知センサーからは逃れられない。
季節は冬。
雪こそ降っていないが、凍えそうな寒さだ。
落ち葉が粉々に分解されて、脚を滑らせたらどこまで落ちるか分からない。
「そこにいたの。」
あぁ、やはり。
丁度、車があった場所だ。
私たちが大声で笑いながら割れたガラス窓を塞いだ場所だ。
唯一、幸せを感じた瞬間の場所だ。
「お母さんが探していたよ。
いつも思うけど、Sのお母さんて美人だよね。
帰らなくていいの?」
私はずり落ちないように気をつけながら、Sに近づく。
「ここに決めたの?」
傷だらけになった手のひら。
擦り切れたズボン。
虚ろな瞳に、私は問いかける。
「あんたが羨ましかったんだけどな。
優しい家族がいて。
そりゃあ、お父さんはいなかったけど。
お母さん、良い人じゃん。
あんたが生きていてくれさえすれば、って、そういう顔してるもん。」
私は落ちている携帯を拾う。
着信を示すランプが点灯している。
『着信57件。』
財布を拾うとチケットの端っこが見えた。
盗まれたと言ったチケット。
足摺岬に私を連れて行きたくなくて、チケットを無くしたと嘘をついて、靴をゴミ箱に、上着を隅っこに捨てたんだと気づく。
足摺岬に行けば、私が死んでしまうと思ったんだろうか。
「あんたってほんとの馬鹿なんだね。
私は最初から知ってたよ。
私とあんたじゃ見つけたいものが違うって。
私は死に場所を。
あんたは死ぬ時を、探してたんだよね。
あんたは死ぬ場所なんて、どこだって良かった。
そうでしょ?」
私は問いかけながらSの足元に腰掛けた。
清々しい気分だ。
Sに先を越されてしまうなんて焦燥感が、Sを見つけた途端に吹き飛んで行った。
宙ぶらりんのS。
選択肢はここにあると、教えてくれてありがとう。
眼下に広がる、『生に縛られた世界』。
その中で、Sが示してくれた。
私たちは選択肢を持って生まれてきていて、ちゃんと『死』を選択する権利を、選択する自由を持っていたのだと。
最高だ。
この世界は、本当に手に入れたいと願えば、それをものにできるのだ。
生まれてくることは選べずとも、死ぬことは、死ぬ瞬間は、死ぬ場所は、私たちは選ぶことができる。
それが世界だ。
誰が、どんなに研究しても、死にたい人の考えることは、健全な連中には分からない。
だから、死の選択肢を最後まで奪い切ることはできないんだ。
最高だ。
最高なことに気がついてしまった。
ゲラゲラ笑った声は、頂上まで届いていただろう。
木霊して、私の元に帰ってくる声を聞いて、また笑って、Sも笑ってとその脚をつかむ。
「私次第ってわけね…。
気付かせてくれてありがとう。S。」
「なにしてるの!!!」
女性の怒鳴り声に、私は静かに振り向いた。
あぁ、幸せって、続かない。
顔面蒼白の女の人が、滑り落ちるように斜面を歩き、私たちに近づいて来る。
気がつけば、アラームが鳴り響いていた。
女の人は私とSを交互に見ている。
口をぽかんと開けて、目を泳がせて、まるで打ち上げられた魚みたいだ。
「彼を殺したの?」
震えた声で聞く女の人に、私は立ち上がって、真っ直ぐ前を見据えて答えた。
「えぇ、殺したわ。見殺しにしたわね。それが何か?」
「だって、そんな…」
「彼のことを何も知らない貴方に、彼の自殺を止めるべきだったなんて、言わせないわ。
彼は貴女の所有物ではないし、世間や世界の所有物ではないもの。
私たちから、死の選択肢を奪わせたりしない。誰にも。誰にもね。」
「ロープは…」
「見てわかるでしょ。これは蔦。
今時のロープじゃ、首を吊る前にセンサーで切れるもの。」
私は視線をあげ、太い蔦を撫でるように手を伸ばした。
「編んだのね。素敵。これだけ滑る落ち葉のカーペットだものね、少し集めて足元に積んで、お薬飲んでうとうとでもすればこうなるわ。
よく考えたものね。尊敬する。紙おむつでも履いててくれたら、もっと良かったけど。」
「あなた…、あなたは、それでいいの?」
彼女は今度は哀れむような視線で私に問う。
「あなたは一緒に死ななくて、いいの?」
ふと視線を戻し、私は気付く。
彼女の驚愕の表情は、恍惚の色へと変わりつつあった。
あぁ。
溜息のような深い呼吸の後に気がつく。彼女は、こちら側の人間だと。
「構わないわ。私、この人とずっと一緒に死ぬ場所を探していたの。
彼がお気に入りの場所を見つけられて、良かったと思ってるくらいよ。」
私の言葉に、彼女は驚いたように、憧憬するような視線で、私を見つめてきた。
「自殺名所は行き尽くしたわね。
八木山橋、華厳の滝、青木ヶ原樹海、東尋坊、天ヶ瀬ダム、あとは和歌山の三段崖。
他にも行ったけど、あぁいうのってさ、名所っていわれる名所には、看板が立ってるの。
家族の顔を思い出してってね。
馬鹿みたいだと思わない?
全ての家族というものは、絶対的にその人の味方で助けてくれるんだって健全な人は信じてる。
生きることだけが善で、死ぬことは総じて悪。
それって、『あなたにとっては』、でしょ。
そういうのは何度も見てきたけど、あんな安い誰かへの言葉で思い留まるくらいなら、お涙頂戴のヒューマンドラマだけで生きていけるよ。
ねぇ、貴女もそう思わない?」
「…。…そうね。……とても、分かるわ。」
彼女は少し視線を下げて、左の手首をこすった。
着慣れないスーツを纏う彼女は、ひどく疲れているように見えた。
どうやってここまで来たのかは知らないが、車などの音がしなかったことを鑑みれば、そりゃあ疲れてしまうだろうと思った。
「1度脱線した電車は破棄されるだけ。修理されて元どおりになるのは、ほんの一部だもの。
その一握りになったって、私たちはまた絶望に怯えながら生きていくしかないんだから。」
途端、彼女は泣き出した。
お馴染みの黒い鞄が無抵抗のまま地に落ち、斜面を滑り落ちていく。
あの中に一体、大切な何が入っているというのだろう。
救いの言葉辞典を、彼女はどこで落としてしまったのだろう。
彼女は泣いた。
泣いてどうにかなるわけじゃないなんて、もう知りすぎているはずなのに。
ボロボロと、まるで、初めて『この世界は生に縛られている』と気がついた時の、私のように。
「そうね…もう、救われないよね…」
「さして大きなことは望まないのに、私たちは、『要は気持ちの問題』って後ろ指さされて、それでもっと、幸せにはなれないと気付くの。
貴女も幸せに、なりたかった人間でしょう?」
「…救って欲しかった…。
毎日毎日、お前なんか要らないって言われる地獄から、誰かに。
貴女が生きていてくれればいいって、誰かがそう言ってくれれば、私は救われたのに。」
「でももう届かない言葉になってしまったものね。」
「貴女が全てを失っても、一緒にいるからねって言って欲しかった。」
「でも夢物語って知ったんだもの。」
「立ち止まってしまうのが怖かった。」
「棘道だから?いいえ、整備された平らな道を歩けない、ただポンコツなだけって気づいてしまった。」
「私だって、幸せに生きたかった。生きていたいってもう一度心から思いたかった。」
「でももう無理なの。」
答え合わせをするように重ねる言葉が、私たちを狭い世界に閉じ込めていく感覚をおぼえた。
話を続けてみると、彼女の持っているものも、その知識も、とても古びたもので、今の技術には到底叶わない代物だとわかった。
だから私は提案をした。
「ねぇ、私と死ぬ方法、探さない?」
「死ぬ方法…。」
「えぇ。素敵でしょう? あなた、名前は?」
「静香。」
静香。
図らずも、またS。
偶然にも、前も、その前もSだった気がする。
「宜しくね。」
ハロー、私の新しいS。
そして私は明日峰を、カーセックス未遂事件山を後にする。
死ぬ方法を探す。
その目的を見つけて、少し目に光を灯した新しいSと共に。
15時はとっくに過ぎていた。
この物語が簡単に幕を引くように、私の人生も、きっと簡単に終わるのだろう。
おめでとう、私。
最高の幕引きを見つけられたら、あとはきっと、最高の幕引きの為の道のりを探そう。
例えば、母親に反抗するとか。
例えば、妹をご飯に誘うとか。
そうやって、死ぬ為のお荷物を整理して、そして、お気に入りの場所に辿り着いたら、あるいは…。
おわり。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます