さよなら、私の金屈巵仲間。


カーセックス未遂事件。

楽しかったか?


楽しかった。


でも、楽しいことばかりじゃない。

そのあとしばらくの間、私はカウンセラーを受けなければならなかったし、Sとは会えなくなった。


泣いて喚くだけ無駄だった。

笑いながら、感動ポルノに涙を流して、

「死ぬことが怖くなった「生きたい「希望が湧いてきた「生きていることが幸せだ」」。

そう言わなければ、私はひとりで外出することすら許されなかった。



その時の気分を、今もまだ引きずっている。

誰かに強制されて、幸せに生きなければならない。

誰かに強制されて、笑っていなければならない。

そんな人生、ロボットにでもさせておいてよ。


某ネズミーランドの頭の中的なタイトルの、子供向け映画でさえ、カナシミとイカリが出てきて、ヨロコビがお留守になる時があるっていうのに、どうして私だけが正常でいられるっていうのだろう。


「楽しかったのに、ぶち壊しだね。」

私があの幸せな一瞬を思い出して口に出すと、Sもそれらしく返事をしてくれた。


「そうだね。あの時は、楽しかった。」


バスを降りて、足摺岬に着いた。

新宿から9時間。

家から10時間。


岬の柵ぎりぎりまで近付き、乗り出すように

身体を押し付ける。

広大な水の大地だ。

視界が海と波に呑まれ、

耳にザバンザバンと音が張り付く。

潮の香りが鼻を通り、海を渡る風が身体を包む。

夕日が沈みかけている。


向こうの方に見える白いひとつの灯台が、夕陽に照らされて茶色がかっている。

海も、じきに黒と夕陽色を分けた色に染まる。

最高だ。

昼間のうちならば、青い海に岩にぶつかり白くなる水飛沫を存分に堪能できるはずだ。

多分、そこまで深くない。

落ちたら確実に死ねる。

私がそう確信した時だった。


「あ。」

Sが珍しく声をあげた。

「なに?」

私が振り向くと、Sが指をさした方に男が1人立っていた。

バスで一緒になった、あの人だ。


しかし、様子がおかしい。

見つめているのは美しい灯台や荘厳な海ではない。

多分、何も見てはいないのだ。


私はその雰囲気を感じ取り、胸の高鳴りを抑えきれずにSに話しかけた。


「飛ぶかな?」


応えを待たずして、答えを得た。

男が柵の外に出たのだ。

つまりは、私の期待通りに。


「良いこと思い付いた。」

「なに?」

「賭け…!」


そう言うや否や、私はバッと駆け出した。

Sは背後でただ見ているに違いない。

構わない。

止めないで。


「何してるんですか!!」

私はなるべく悲痛そうに聞こえる声で叫んだ。


「危ないです!!」

「来るなぁ!!!」


男は駆け寄る私を避けるように前へ前へ踏み出していく。


「自殺なんて止めてください!

どうして死のうとするんですか!?

生きていれば良いことだってあるのに!

もっと自分を大切にしないとダメです!」


私が声の限りに叫ぶのを、男の人はただ後退りしながら見つめていた。

あと6歩下がってくれれば、他には何もする必要がなかった。

バランスを崩して真っ逆さまに落ちるだけだ。

私は胸の高鳴りを抑えて、あと一押しと叫んだ。


「やり直しましょうよ!帰りましょう!

貴方の帰りを心配してる人がいますよ!自分を殺さないで!」


男は私を見つめている。思考停止タイプだ。

だったら良い言葉を知っている。


「嫌なことから逃げましょう!

その場しのぎで逃げたって、今は良いじゃないですか!

!」


そう言って手を伸ばす。感動ポルノ並みに涙を流して。

柵を越えて、左手で柵を掴みながら右手を伸ばす。

その時、すぐそばからSの声がした。


「止しなよ。」


振り向くとSが柵のすぐそこにまで来ていて、私をじっと見つめていたから驚いた。

驚いたついでに、私は左手を離して男を掴んだ。


傍観者のSが、誰かを助けようとするなんて。

例えそれが私でも、私はそれに驚いた。

数秒の間見つめ合っていた気がする。

けれど、本当は1秒にも満たなかったかもしれない。

私を振りほどこうとした男がやはり後ずさり、そして私は手を離さないまま、足を踏み外した。


足が地面を離れた瞬間から、全てがスローになった。

男と目が合う。服の中に風が入ってきて、身体中で落下を感じる。

岸壁で腕やら頬やらを擦りながら。

それらしく絶叫してみる。

海が近づいてくる。

私は目を見開いた。

最後の景色が夕陽に染まる海なら、悪くない。


身体に何かが当たった。

弾力。

視界には、白い繭のようなネット。

トランポリンのようなそれに触れ、私は座り込んだ。

向こうに大岩があって、それと崖とを渡した落下防止ネットか。

場所が悪かった。


男はガクガクと震えながら海を見下ろしている。

「無駄だよ。この高さじゃ、精々ジャンプ台にしかならない。」


座り込んだ男はおよおよと泣いて、私は空を仰いで、流石に崖をよじ登ろうとは思わないから、救助を待った。


ほどなくして、警官とセラピストが現れた。

セラピストは男を端っこへ連れて行き、警官が私に詰め寄る。


こいつも異常者か?


そう目で尋ねている。

異常者なら、死なせてくれればいいのに。


私は自殺志願者を目の前に、助けなくてはと思った少女を装い、偽善者の如く涙を流して訴えた。

おかげで目を付けられることなく、足摺岬を後にすることができた。


帰りの中村駅までのバスで、私は今回の試験的な飛び降りについて熟思し続けていた。

何が良くて、何が悪いか。

どんな場所は良くなくて、どんな場所が悪くないか。

沈思黙考。

Sは何も言わなかった。

Sというのはすごい人で、私が話しかけて欲しくない時には決して話しかけてはこず、話したい時には重い口を開いてくれる。

雨にも負けて、風にも負けて、そういう人には少しもなれなかったけれど、『弁えている』のだ。

空気が読めるとも言える。


バスを降りると、私はようやく夕飯について口にした。

けれど、Sは私を見下ろして、何か言おうとしている。

夕飯のことでは、ないようだ。


「なに? 足摺岬、楽しかったよ。」

「…。」

「夕飯食べるの? 食べないの?私、さっきのうどん屋以外ならなんでもいいよ。」


「もう止めよう。」


それがSの発した一言目だった。

ーなにが?

と聞き返す前にSは言った。


「止めよう。死ぬの。」


私はぽかんと口を開けたまま、Sを見つめた。

惚けたような顔をしていたことだろう。


「え?」


演技は上手い方だ。危険は全て、悲痛なふりした悲しい声で押し切ってきた。

けど、今は違う。演技なんかじゃなくて、本当に、心から悲しい声が出てしまった。

聞き間違いであって欲しいと思ったのに、Sは見たこともない顔でもう一度言った。


「俺と一緒に生きてみない?」


静寂の間があって、その間、私とSは見つめ合っていた。

Sはひどく真剣に私を見下ろしていて、私は今までにないくらい驚いて、Sを見上げていた。


やめて。


脳みそから出た拒絶反応が血流に乗って全身に巡る。

吐き気に、胸が締め付けられる苦しみに耐えられず、気がつくと私はポロポロ泣いていた。

Sは手を差し伸べることもなく、私をただ見つめて、じっと見つめて、ずっと見つめていた。


「どうしてそんなこと言うの…?」


Sは私の唯一の理解者だと思っていたのに。

死の選択肢を捜す仲間だと思っていたのに。

信用していたから、夜な夜なグラス片手に語り合ったのに。


言ったよね。『さよならだって人生だ』って。

賛同してくれたよね。


その彼が、『一緒に生きよう』なんて。

どうしてそんなこと言うの。

どうして。どうして貴方が私から、死の選択肢を奪うの。


「君となら生きていける気がするから。

君に死なないで欲しいって、きみが飛び降りた瞬間に思ったんだ。」


Sの前髪が揺れて、揺れる度に街灯が瞳の奥でチラついている。

陽は落ちて、暗い世界に人工的な灯りだけがぽつぽつと存在して、あとは全てシルエットに成り果てた陰になった。

そしてそれらが、私たちを取り囲んでいる。

ふたりだけの世界で、かけて欲しいのはその言葉じゃなかったのに。


せめて。

せめて一緒に死のうなら、嬉しかったのに。



私が返事が出来ないでいると、Sは帰ろうと言った。

新幹線に乗っている間も、私たちは一言も話をしなかった。

ただ、心の中で走馬灯のようにSとの日々を思い出していた。

つまらなくはなかった日々。

ペットボトルを金屈巵きんくつしと呼んで乾杯した夜が、カーセックス未遂事件が、手の甲に垂れた涙に映っていた気がした。


新宿から山手線に乗ろうと促すSを、発車寸前で私は突き飛ばした。

よろけたSが驚いた顔をして、閉まる電車の中に閉じ込められる。


「さよなら。」


そう告げたのを、彼はしっかりと見たことだろう。


ふたりで夢中になった死に場所探し、私は楽しかったよ。

さよなら、私の金屈巵仲間。





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