私と夕焼け空(中) あと背後の何か

私と夕焼け空(中) あと背後の何か




 あの夕暮れから、私は暇さえあれば河川敷に足を運んだ。そして二回に一回ほどの頻度、まとまった時間と天候に恵まれた時に、私は絵の道具を持っていく。

 私はあの日の夕暮れを、捨てようとしたキャンバスの上に描こうと試みた。幸いにも、元の絵も油絵で描いていたから上からでも塗り潰すことはできる。

 しかし、できるということと、簡単かどうかというのは別のことだった。凹凸のできた下地の上に筆を走らせるのは、想像以上に困難だとやってみて分かった。

 本来、上書きをする際は凹凸を削って描きやすいようにするのがセオリーだ。でも私は、それをすることを拒んだ。それがただのエゴだとは分かっていたが、元の絵を不要だと削り取ってしまえば、私が求めている、あの夕日は描けないと思ったのだ。

 私は今日も、西に傾いた太陽を浴びながら、椅子と三脚を河川敷に置き、絵の具で暗いキャンバスに新しい色を足していく。まずは夕暮れに照らされた空と雲から、そしてその淡い空を支える暗い地面と川……。

 あの河童を名乗る犬は、気紛れに私のもとへ現れては、私のそばで寛いでいた。絵の感想は完成してからと大して述べず、ただ上手いじゃないか、良くそんなの描けるなと簡単な感想を述べるだけだった。

 他にも、この河川敷に来てから色々な人と出会った。散歩中の話し好きなお爺さん、この人に出くわすと十分以上話してしまうので夕立のようなどうしようもなさを感じた。トレーニングだとフラフラになるまで走る黄色いジャージを着た女の人、やるじゃねえかと絵を見る度に笑う彼女は対抗心を燃やしてまたメチャクチャに走っていく。強そうな犬を連れた褐色の肌の女の子は、私を見る度に少しの間見学させて欲しいと申し出てきた。その姉と聞いた背の高い女の人は逆に、一瞥するくらいでさっさと私の後ろを通り過ぎていく。

 それらの日々の出会いが私を活気付け、また足を運ぶ動機にもなった。

 しかしそれでも、筆をキャンバスに走らせていくその瞬間だけは、私は常に一人になった。満足行くまでパレットの上で色を作り、絵の上に塗り足していく行為は、私にとって孤高そのものだ。耳に届く人の営みは遠く、川のせせらぎや呼吸音、風の音が私の意識を飲み込んでいき、世界に残るのは絵と私だけになり、やがて私さえも消えていく。

 とはいえ、それは筆が乗っている時、集中できている瞬間に限った話だ。


 ここに通って十日程経ったか。私はパレットを持ったまま、絵の前で彷徨いてばかりいた。

 夕暮れに照らされた草むらは描けた。しかし、その奥の川の色がどうしても描けないでいたのだ。いや、より正確には、その色が分からなかった。

 何度も夕暮れを見つめて、パレットに色を加えていくも、どうにも納得がいかなかった。河童犬(私はあの犬を、そう呼ぶようになった)に聞くも、何を拗らせているんだか分からないと首を傾げられた。所詮は犬だと、私はなじった。

 私は土曜の午後を、そうして何もキャンバスに描き足せずに終わらせてしまい。溜息をついて画材を片付け始めた。

 そして、また日が沈んだ川を見つめる。このまま帰りたくない。何が足りないのだろうと、私は底の見えない、決して深くないはずの川を睨む。なぜ、あれが描けないのか。

 川の音は昼も夜も変わらない。その姿も、きっと日夜を通じて変わることはないはずだ。しかし、こうして改めて見ると、底が見えず、滑るように表面の凹凸を変えて流れていく水というのはどこか不気味だ。ただ音を立てて下流に向かう様には昼間のような生命感はないが、機械のような無機質な感じもない。なら、この不安感は一体どこから来るのだろうか。

 そんなことを考えている時だ。私はふと足元、コンクリートで補正された土手と川の合間にある草むらから、靴が片方、顔を覗かせているのに気がついた。

 それはマジックテープで止めるタイプで、けれども子供のサイズではない。きっと作業用の安い靴だろう。捨てられて随分と経つのだろうか。表面は泥に、それも臭い立つくらいに湿った泥で汚れていた。

 以前から、こういう靴が落ちているのを見る度に疑問に思ってきた。なぜ、水場にはこういう靴が落ちていたりするのだろうと。

 ふと背中に、冷たさを感じだ。まるで触れるか否かのところまで氷を近づけられたような、そんな現実的な寒気だ。

「………」

 何かいる。私は振り返ることもできず、その場に立ち尽くした。背後に気配を感じている。冷たさを覚えながらも、背中や頬を舐められているような不快な感覚、生命感を肌が感じているのだ。

 それはあの河童犬の喋る姿を見た時のような、未知への恐怖とは違う。背中にいるのはもっと身近、未知ではなく既知、原始的な恐怖だった。

 視界に映る川の向こうには、ヘッドライトを点けた車が通りを走っている。そんな日常が、ここからでは遥かに遠い。

 背後の気配。私と同じくらいの背丈の、冷たい何か。それは奇妙に細く、影のような姿をしていて、腕や指先が歪なまでに長い。そして決して背後を襲うような真似はせず、私の恐怖に歪んだ顔を舌なめずりして、待っている。

 何を馬鹿な。私はその想像を、頭から振り払おうと必死に自分に言い聞かせる。勝手に想像して、何を勝手に怖がっているんだ。

 そうだ、振り返ってしまえば良い。きっと気のせいなのだから、振り返って何もいないことを確認して、それでこの場は立ち去れば良いじゃないか。そう、私の理性が語りかけてくる。ほら、早くしないと、どんどん外は暗くなっていくぞ。

 いや、惑わされるな。と、私の体がその甘い申し出を拒絶する。この汗や浅い呼吸を気のせいで済ますつもりか。振り返って何かいたら、お前はどうする気だ。そんな甘い誘惑を捨てて、この感覚を信じろと。

 交互に主張と否定を繰り返す身体と理性。私はそれに脳内を引き裂かれるような頭痛と目眩を覚えた。このままじゃあ、背後を確認するでもなく、私は自分で自分を殺すだろう。

 このままじゃ、殺される。私はその恐怖に、ギュッと目を閉じた。視界から全てをシャットアウトし、ただこの恐怖に堪えていた。

 そんな時だ。また車が通り過ぎる音が、耳に入った。薄めを開けて見れば、川向うでまた車が、立ち尽くす私の存在に気づかぬまま横切ろうとしていた。

 助けて! と、私は叫ぼうとした。しかし、その声は嗚咽のような音を漏らしただけに終わった。声すら出ない、まるで喉の奥に指を突っ込まれたようだ。口内をなぞられるような不快感に、吐き気さえ覚えてくる。

 しかし、活路が見えたような気がした。私は目を見開き、川向うの土手を見つめる。少なくとも、この川を超えた先は、私の見知った世界だと確信できた。

 私は手にしていた画材をその場に落とし、川へとヨタヨタと駆け寄った。

 足元の靴を通り過ぎ、枯れ草を踏み込み、そして暗い水の中へ足を入れていく。その水は、驚くほど生暖かった。

 太ももまで水に浸かる。水の底は暗くて見えず、足元は愚か水に浸かっている部分はまるで見えない。その不気味さに、背筋が凍りつく。

 水の深さはこれくらいだ。このくらいのはずだった。私は必死にそう言い聞かせ、足を前へと進ませる。川の横幅は五十メートルもないくらいだ。きっと歩ける。

 ガボッと、水底を捉えていたはずの足が折れ、息を飲む間もなく腰まで水に飲み込まれる。踏み外した。私は悲鳴を上げながら、必死に足場を探しながら突き進む。その頃には、もう岸辺で囁いていたはずの理性は消し飛んでいた。

 陸地を、正面に見える電灯を目指し、私は声を漏らしながら足を進ませていく。もう少しだというところで、川岸を駆ける小さな姿が、私の目に飛び込んできた。あの河童犬だ。

「振り返るな! このまま上がってこい!」

 そう叫ぶ河童犬に従うまでもなく、私は急な運動で悲鳴を上げる体を押して川岸へ、それこそ手も使って這い上がった。

 助かった。きっと、助かったのだろう。そう自分に言い聞かせながら、私は電灯が描く光の円の中に飛び込み、地面に四つん這いになったまま息を整えていく。河童犬は、そんな私の周りをグルグルと回ったり、向こうの川岸を探るように見ていた。

「……大丈夫だな」

 河童犬はそう呟くと、私の頭のすぐそばに顔を寄せ。

「危なかったな」

 と、それだけ言う。私はそっと振り返って元来た方向を見たが、そこには何もありはしなかった。

「……こういう時は犬って、頬を舐めたりしてくれるもんじゃないの?」

「犬じゃないからな。減らず口を言えるだけの余裕がまだあるとは、驚いた」

「さっきのは……何だったの?」

 私は河童犬に聞くも、河童犬はこのまま帰れ、荷物は朝になってから取りに来れば良いと、私を諭した。

「今は言うことを聞け。明日には、二度とお前はあんな思いをしないようになる」

 私はその言葉に従い、私は遠回りをして家に帰った。

 そしてその夜、ベッドの中でボンヤリと置き去りにした絵のことを思った。あのまま放置しておいて、大丈夫だろうかと。

 そして……迷い続けた川の色、そのビリジャンに近い黒色が、ほんの僅かでも見出だせたと思いながら、私の思考は水に引き込まれるように沈んでいった。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る