私と夕焼け空(上) あと自称河童の犬

私と夕焼け空(上) あと自称河童の犬




 燃えるような色をした夕焼け空。私は一人、河川敷沿いを歩いていた。

 刻一刻とその位置を変えていく夕日は美しくて、その沈み行く様を永遠に留めていて欲しいという矛盾に満ちた願望を抱かせた。

 私はふと、手提げ鞄に入れていたキャンバスを引っ張り出した。

 暗い、いや、黒いのか。暗色を引き伸ばしたような、目につく物もない夜景がキャンバスの上でぶち撒けられている。

 テーマばかり軽率に重く、そして未完成な絵。最近の私の絵は、こればかりだ。

 うん、つまらない絵だ。頬を伝う涙は、悔しいがその事実を認めてしまっていることの現れだろう。きっと母さんの言う通り、私には才能なんてないのだ。

 そんな絵を描いてて、将来役に立つと思っているの。

 そう、母さんに言われた。

 何も言い返せず、一人窓から見える景色を描いていた私の背後には、私の好きな物を否定する声。そして言い返せない私自身が、キャンバスに描かれたものをどんどんと暗く、つまらないものに変えていった。

 絵を描くことを楽しいと思ってた。しかし、今では苦しいだけだった。目も耳も手で塞いでは、絵は描き終えることはできない。私の部屋の隅には、未完成の、気紛れに始まって終わってしまった絵が積まれていった。

 それももう、今日でおしまいにしよう。私は今日初めて、親と喧嘩することもないままに家から飛び出し、こうして絵と決別しようと近所の川を、ずっと上ってきた。

 もう一時間ほど歩いたか。この辺で良いだろう、今が良いだろうと、私はその絵を川、いや、あの夕日に投げつけてやろうと大きく振りかぶった。これで、私の絵描きとして終わろう。

「おい……何してる」

 その時だ。横合いから聞こえる、男の低い、くぐもった聞こえ辛い声。

 私は理不尽な苛立ちを覚えながらも、声がした方を見た。

「……何だ、泣いてたのか」

 そこには犬がいた。テリアだろうか、フサフサとした茶色の毛並みをたたえて、私を見上げている。

 私は周囲を見回すが、飼い主らしき人も見当たらない。河川敷にはこの犬と、私だけしかいなかった。

「おい、無視すんなよ」

 私の同様を他所に、その犬は口をパクパクとさせ、低い男の声で勝手に喋り続ける。

「そんなものを捨てるな。ここに住んでいるもののことを、お前は考えられんのか?」

 まったく、若者というのは……。と、その犬は吐き捨てるように言い、私の元に歩み寄ってきた。

 ヒッ。と、私の喉はヒクつき、悲鳴が漏れる。犬は構わず私の足元まで来て、ワンと吠えた。

「そのまま帰れ! もう二度と、ここに物を捨てるな」

 その言葉に、私は声を詰まらせた。しかし。

「……わ、私は、もう絵が描けれないんだ。家では絵を描くことを馬鹿にされているし、誰かに見せる訳でもない。別に才能も……コンテストで入賞している訳でもない。だから……」

 何を犬に、語ってんだよ。私の心の中で、そう毒づいた。しかし、別に頭がおかしくなったのなら、それでも良いかと、私は捲し立てる。

「だから、私は絵を捨てたって、別に……」

「だからって、俺の縄張りを、汚すなぁ!」

 犬は吠えた。

 もっともだ。私は口をつぐんで、顔を伏せた。何も言い返せない、しかし後で保健所に連絡してやろう。

 まったくよー。などと犬は何か考えるように彷徨きだし。

「なら、ここで描け」

 と、犬は言った。

「ここで?」

「家で描けないなら、ここで描けば良いだろ。見ろ、超綺麗な川だ。何だって描けるだろ」

 犬に倣って、私も河川敷を見る。ちょうど夕日が山の影に沈んでいく瞬間だった。夕日に掛かった雲が、夕日の赤を照らされピンク色に染まる。そして雲の隙間から覗く日の光。あれは赤というより金……いや、白だろうか。

 私と犬は、夕日が沈むまで、黙ってその景色を見送っていた。そして空が暮れ始めると。

「……ねえ、犬。何で喋ってんの?」

「喋ることができるから、喋ってんだが……え、何? キモいとか思ってんの?」

「あ、ごめん……気に障った?」

 気にするのはよそう。きっと人に言ったら私はまともな人生からも外れてしまうことになると、私はそう思うことにした。そしてキャンバスを手提げ鞄に入れる。次はこの暗いキャンバスに、あの夕日を描こうと決めて。

「また、来るから」

「ふうん……ま、いつでも来れば良いんじゃないか」

 犬はそう、素っ気なく言うと、ポテポテと上流の方へ歩き始めた。私はその背中を、ケータイのカメラで撮った。後でインスタに上げよう。しかし動画じゃないと誰も信じやしないか。

「あ……そうだ、お前ちょっと待て」

 行こうとしたのは、そっちだ。私はそう思ったが、黙ってやることにした。犬の姿は既に小さくなっているが、不思議と声はハッキリと聞こえた。

「さっき俺のことを犬と言ったな。見て分かんないか? 俺は河童だ」

「お前、さっきから良い加減にしろって」

 どれだけ私の中を壊せば気が済むのだろう。

 河童と名乗る犬は、それだけ告げると満足したようで、小さな尻尾を振りながら行ってしまった。


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