黒の館

 馬車を降りると海の匂いがした。鋭くとがった月の明かりで見ても、たった今馬車で来た道ははるか遠くまで続いているようだった。わだちの両脇に沿う芝生は入念に手入れされていた。広大な私有地に違いない。ゼペットは逃亡をあきらめた。例え義足でなくてもこの広さではとうてい逃げ切れないだろう。

 使者たちは馬車を下りると、扉の脇で直立不動の姿勢をとった。ゼペットは二人の使者に見送られながら、執事の後に続いて巨大で重厚な黒い屋敷に足を踏み入れた。


 †


 屋敷の中は外と変わらないほど暗かった。執事がしよくだいのロウソクに火を点けると、ホールの両脇の壁に巨大な額縁が同じ間隔で窓枠のように並んでいるのが浮かび上がった。まるで大聖堂のようだったが、外からの明かりは一切入らないようになっていた。柔らかいカーペットの上を延々と歩いていくと突き当りに舞台装置のような階段があった。階段を登って踊り場の中央の扉から長い廊下に抜け、しばらく何もない廊下を歩き続けた。自分がどっちを向いているのかも分からなくなり、恐怖と不安で汗がにじみ出てきた頃、執事がとびきり豪奢ごうしやなドアの前で立ち止まり、ノッカーを鳴らして言った。

「ゼペット様をお連れ致しました」

 重みのある声がノックに答えた。

「お通ししろ」

 召使はドアを開け、体を二つ折りにすると部屋の中に手を差し伸べた。部屋の中も暗かった。闇の中から太い声が響いた。

「よくぞおいで下さった」

 ゼペットは声のする方に目を凝らした。闇の中にぼんやりと白い何かが見えた気がした。

「灯りを。どうか入ってお掛け下さい。【ナポリの魔術師】よ」

 執事が書斎のしよく台にロウソクを移した。黄色い灯りが、仕立ての良い黒い服を着た男を照らし出した。顔にはヴェネツィアの祭りで使うような白い仮面を付けていた。白く見えたのはこの仮面だったのだ。仮面の男は歩み寄ってくると白い手袋をはめた手を差し出した。

「医師のジアッキーノと申します。ご来訪感謝いたします」

 ゼペットの頭の中では、担当者の声が繰り返し響いていた。


 ……死体を生き返らせる……死体を生き返らせる……死体を生き返らせる……


 白い手袋に恐る恐る触れ、すぐにへたり込むようにソファーに座ったゼペットを、あたかも診察するかのように見つめていた仮面の医師は、向かいのソファーに腰を下ろすと口を開いた。

「ひどく汗をかいてらっしゃる」

 ゼペットは急いで手の甲で汗を拭った。

「それに顔色も優れない」

 ゼペットは両の手で顔を洗うようにゴシゴシこすった。

「呼吸は浅く早い。四肢が小刻みに震えている。何かに脅えているようだ」

 ゼペットは深呼吸をすると首を振った。

 白く笑う仮面はしばらく黙って、それから突然大声で診断を下した。

「噂の医者のことを考えておられますね!」

 ゼペットが震え上がったのを見て、医師は面白がるように続けた。

「死者を操る医師の話だ! 違いますか?」

 必死で首を横に振り続けるゼペットの様子に満足したように、仮面の医師は声を落として言った。

「ご心配なく。死者など出てまいりません。まるっきり根も葉もない噂、というわけでもありませんが。ワインでよろしいですか?」

 ゼペットは大急ぎでうなずくと、渡されたグラスの中身を一気に飲み干した。医師はゼペットの震えが収まってくるのを待って、グラスにワインを注ぎ足した。

「急にお呼び立てをして申し訳次第もありません」

 もう何度謝られただろうか? ゼペットはもう一口ワインを飲むと言った。

「そんなに急いで何を作らせようってんで?」

 白く笑う仮面は、ゼペットの問いにもつともだという調子でうなずくと、理解を求めるように両手を開いて肩をすくめた。

「仕方がありませんでした。誰もが口を揃えて言うのです。『人間の体を作るなど【ナポリの魔術師】にしかできない』と」

「つまり私に……」人形、と言おうとしたゼペットは、我知らずその言葉を避けた。「……人型を作れ、と?」

「それで救えるかもしれない命があるのです」

 ゼペットは目線を自作のサンダルに落とした。ある程度の欠損なら補うことはできる。だが、命まで救えるものだろうか?

「人型で救えるって、いったい何のやまいで?」

「病ではありません」

 医師はワインボトルを持ち上げた。ゼペットは手を振って断った。医師はボトルをワインクーラーに戻した。

「世には『医者にかかった』ことを知られたくない、隠さなければならない人が大勢います」

 ゼペットが黙っていると、白く笑う仮面が、表情にそぐわない悲しげな調子で語り始めた。

「わざわざ【闇に潜む医師】を訪れる患者には、皆それぞれ事情があります。無論、私自身にもあります。なにしろ人の体を切る。教会に知れたら大変な騒ぎになるでしょう。ですのでこれまで私と患者との間には『診療について一切口外しない』という黙約がありました」

【闇に潜む医師】はテーブルに両手を付いてゼペットのほうに身を乗り出した。

「しかし貴方様は別だ。私の患者ではありません。ここからの話は秘密厳守です。らせば命の保証はない。聞いてしまったら関わらざるを得ません。お帰り頂くのは今しかない。いかがなさいますか?」

 ゼペットは恐怖と好奇心を天秤にかけた。運命の天秤が傾いた。

うかがいましょう」

 仮面の医師は再びソファーに納まると少し意外そうに「ありがとうございます」と震える声で言った。

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