黒の館
馬車を降りると海の匂いがした。鋭く
使者たちは馬車を下りると、扉の脇で直立不動の姿勢をとった。ゼペットは二人の使者に見送られながら、執事の後に続いて巨大で重厚な黒い屋敷に足を踏み入れた。
†
屋敷の中は外と変わらないほど暗かった。執事が
「ゼペット様をお連れ致しました」
重みのある声がノックに答えた。
「お通ししろ」
召使はドアを開け、体を二つ折りにすると部屋の中に手を差し伸べた。部屋の中も暗かった。闇の中から太い声が響いた。
「よくぞおいで下さった」
ゼペットは声のする方に目を凝らした。闇の中にぼんやりと白い何かが見えた気がした。
「灯りを。どうか入ってお掛け下さい。【ナポリの魔術師】よ」
執事が書斎の
「医師のジアッキーノと申します。ご来訪感謝いたします」
ゼペットの頭の中では、担当者の声が繰り返し響いていた。
……死体を生き返らせる……死体を生き返らせる……死体を生き返らせる……
白い手袋に恐る恐る触れ、すぐにへたり込むようにソファーに座ったゼペットを、あたかも診察するかのように見つめていた仮面の医師は、向かいのソファーに腰を下ろすと口を開いた。
「ひどく汗をかいてらっしゃる」
ゼペットは急いで手の甲で汗を拭った。
「それに顔色も優れない」
ゼペットは両の手で顔を洗うようにゴシゴシこすった。
「呼吸は浅く早い。四肢が小刻みに震えている。何かに脅えているようだ」
ゼペットは深呼吸をすると首を振った。
白く笑う仮面はしばらく黙って、それから突然大声で診断を下した。
「噂の医者のことを考えておられますね!」
ゼペットが震え上がったのを見て、医師は面白がるように続けた。
「死者を操る医師の話だ! 違いますか?」
必死で首を横に振り続けるゼペットの様子に満足したように、仮面の医師は声を落として言った。
「ご心配なく。死者など出てまいりません。まるっきり根も葉もない噂、というわけでもありませんが。ワインでよろしいですか?」
ゼペットは大急ぎでうなずくと、渡されたグラスの中身を一気に飲み干した。医師はゼペットの震えが収まってくるのを待って、グラスにワインを注ぎ足した。
「急にお呼び立てをして申し訳次第もありません」
もう何度謝られただろうか? ゼペットはもう一口ワインを飲むと言った。
「そんなに急いで何を作らせようってんで?」
白く笑う仮面は、ゼペットの問いに
「仕方がありませんでした。誰もが口を揃えて言うのです。『人間の体を作るなど【ナポリの魔術師】にしかできない』と」
「つまり私に……」人形、と言おうとしたゼペットは、我知らずその言葉を避けた。「……人型を作れ、と?」
「それで救えるかもしれない命があるのです」
ゼペットは目線を自作のサンダルに落とした。ある程度の欠損なら補うことはできる。だが、命まで救えるものだろうか?
「人型で救えるって、いったい何の
「病ではありません」
医師はワインボトルを持ち上げた。ゼペットは手を振って断った。医師はボトルをワインクーラーに戻した。
「世には『医者にかかった』ことを知られたくない、隠さなければならない人が大勢います」
ゼペットが黙っていると、白く笑う仮面が、表情にそぐわない悲しげな調子で語り始めた。
「わざわざ【闇に潜む医師】を訪れる患者には、皆それぞれ事情があります。無論、私自身にもあります。なにしろ人の体を切る。教会に知れたら大変な騒ぎになるでしょう。ですのでこれまで私と患者との間には『診療について一切口外しない』という黙約がありました」
【闇に潜む医師】はテーブルに両手を付いてゼペットのほうに身を乗り出した。
「しかし貴方様は別だ。私の患者ではありません。ここからの話は秘密厳守です。
ゼペットは恐怖と好奇心を天秤にかけた。運命の天秤が傾いた。
「
仮面の医師は再びソファーに納まると少し意外そうに「ありがとうございます」と震える声で言った。
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