丘に上がった船乗り

 捕鯨船に救われて故郷のナポリに戻ったゼペットはしかし、再び海に出ることはできなかった。クジラの胃液で足の指が溶けてしまっていた。

 医者に見せると「命があっただけで感謝なさい」と効能も分からない飲み薬をくれた。治せないということか。保険はどうなるだろうかと労働組合の事務所を訪れ、労災申請書を提出すると担当者は『クジラに飲まれた』と書かれた事由欄を指でトントンと突ついた。

「商船の船員がなぜクジラに飲まれるんです?」

 ゼペットが黙っていると担当者は書類を突き返し「出版社じゃあるまし」と言い捨てて次の船員の名前を呼んだ。

 医者にも治せない。保険もおりない。部屋を見回しても売れるものがない。ゼペットは困り果ててしまった。今日を気ままに生きてきた女好きの船乗りにたくわえなどあるはずもなかった。歩くのがやっとの中年男に新たな勤め口などあるものか。

 身から出たさび。誰も責める気にはならなかったが、ただあの組合の担当者だけは腹にえかねた。なんだあの態度は。認められないと言えば済むところを、出版社じゃないなどと……。

 翌日、ゼペットは紙とインクとペンを買ってきた。あの野郎の言うように出版社に持ち込んでやろうじゃないか。クジラの腹の中での体験を覚えている限り書き出すと、原稿を手に出版社に向かった。


 †

 

 ゼペットは編集者が頭をいたりパイプをふかしたり足を組んだりほどいたりするのを眺めていた。読み終えると編集者は原稿を片手に持ってもう一方の手でぱんぱんと叩きながら言った。

「リアルなのはいいよねぇ。クジラに飲まれるなんてねぇ。ただねぇ……こう、なんて言うかなぁ……」

 編集者は右手に持ったパイプで空中にぐるぐると輪を描いた。

はな? 色気? が欲しいんだよねぇ」

 なんだ。そんな話なら山ほどある。ゼペットはそもそものきっかけとなったインドの娼婦との話をした。編集者は指をパチンと鳴らすと大きく目配せした。

「いいよそれ!『好色男クジラに飲まれる』いいじゃない! あそこで新聞読んでる奴に詳しく話してよ。後はこっちで適当に書くから」


 †

 

 ――女好きの船乗りが、女に惚れる度にひどい目にい、遂にはクジラに飲まれてしまう――適当に書き流した『好色男クジラに飲まれる』は意外と評判になり、ゼペットはそれなりの報酬を得ることができた。以前なら即座に女遊びに使ったであろう金貨を目の前に、ゼペットは考えた。

 もう航海には出られない。書くネタがなくなったらおしまいだ。なにしろ新たに取材することができない。ここは放蕩ほうとうしてしまうより何か商売でも始めるのが得策だ。とはいえ何をするか……ぼんやりと考えながら目の前の金貨を一枚つまみ上げ、裏の彫刻を見て思い出した。


 学生の頃、美術の成績はずっと一番だった。特に彫刻はずば抜けていた。教師に自分が作ったと容易に信じてもらえない程だった。しかしその性質が彫刻に全く向いていなかった。なにしろ五分とじっとしていられない。天気のいい日に家の中にいるなど考えられなかった。一番の問題は女だ。木や石など削っていていつ美しい女に出会える? 世界中の女を見て回るにはやはり船乗りだ。


 それが今や動くのが億劫おつくうな有様とは。自分を情けなくも思ったが、女に少々懲りたのも事実だった。今なら辛抱できるかもしれん。ゼペットは指を失った自分の足を見た。試しに自分用の靴でも作ってみるか。

 翌日、必要そうな工具一式と適当な木材を見繕みつくろい、自分の足に合わせた木靴を作ってみた。だが実際に履いてみると、指がないので足を上げた時に脱げてしまう。ならばいっそ足の指ごと作ってしまえ。足の指が付いたサンダルのようなものを作り、それで町を歩くとたちまち評判になった。

 何だその履物は? 指も動くのか!

 指付きの不思議なサンダルの噂は広まり、同じように体に不具合を持つ人から、自分用のものができないかと問い合わせを受けるようになった。手ごたえを感じたゼペットは意を決し、郊外に一軒家を買うとそこを工房とした。


 こうしてゼペット木工細工店が産声を上げた。


 爪まで再現した精巧な造形。生身の体のような滑らかな動き。ナポリには木の魔術師がいる。ゼペットの評判は国中に広まり、その補助具欲しさに使用人の指を切り落とす貴族まで現れる始末だった。



 開業から五年を待たずして権威ある大病院の専属職人となった〈ナポリの魔術師〉ゼペットの名は、ヨーロッパ中に知れ渡ったのである。

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