ピノキオ異聞

玖万辺サキ

嵐を呼んだ男

 ゼペット・F・ピッノキオは若い頃、商船の船員だった。

 三度の飯より女が好きという大の助平すけべいで、世界中の女に会うための船乗りだと誰憚はばかることなく公言していた。インドに渡航した際に抱いた娼婦をこれぞ運命の相手と見初みそめると、祖国に連れて帰るべく夜の闇に乗じて船に連れ込んだ。

「俺と一緒に来い。結婚しよう」

 ところが出航するやいなや船は激しい嵐に見舞われた。黒い雲は船につきまとい、激しい風雨を浴びせ続けた。

 海の神はなぜこれほどまでにお怒りなのか?

 船長は乗組員たちに船内をくまなく調べさせた。しばらくの後、積荷の陰に隠れていたという娼婦が船長室に連れて来られた。

「どうして俺の船に乗ってる?」

「ゼペットに誘われたの。あたしたち結婚するのよ」

 船長は近くの船員にあごをしゃくった。間もなく顔を腫上はれあがらせたゼペットが後手に縛り上げられて船長室に入ってきた。

「その……一緒に帰りたかっただけなんで」

 船長は無言のまま立ち上がると、右手でゼペットを縛ったロープを、反対の手で娼婦の首根っこをつかみ、嵐の吹き荒れる甲板の上に出た。悠然ゆうぜんと船首まで二人を連行すると、いきなりゼペットを荒れ狂う海へと蹴り落とし、娼婦の顔に人差し指を突きつけながら「船に女を乗せてはいかんのだ!」と怒鳴った。

 娼婦は泣きながら繰り返しうなずいた。船長は娼婦をその場に座らせ、浮き輪を頭からかぶせて肩にかつぎ上げると「悪く思うな」と言って海に放り込んだ。

 船長室に戻って葉巻に火を点けた頃には、嵐は嘘のように過ぎ去っていた。船長は煙を吐き出すと割れ鐘のような声で叫んだ。

「ようそろ!」


 †

 

 ゼペットは鏡のようにいだ海原に仰向けに浮かんでいた。

 船は去り、嵐は去った。女はどこにも見当たらぬ。海の真ん中で干からびて死ぬ。なんと皮肉な様だ。ぎらぎらと照りつける太陽をにらみつけていると、風もないのに大きな波が起こり、同時に例えようもない悪臭がした。次の瞬間、ゼペットはまるで滝つぼに飲まれるように海中に引き込まれた。

 猛烈な悪臭で気が付くと、粘りつく床の上に倒れていた。

 ここはいったいどこだ?

 後手に縛られたままで壁に背を付けて立ち上がった。壁もまたぬるぬるしている。洞穴ではなさそうだ。出口を探さなくては。暗闇の中を壁伝いにもたもたと彷徨さまよっているうちに足の裏が焼けるように痛みだした。仰向けに転がって足を上げたが、痛みは収まらない。うめきながら体をよじっていると四方から液体が降りかかってきた。

 目も開けていられないほどの刺激。まるで地獄……いやここが地獄の入り口か。いよいよこれから裁かれるのだ。洞窟はいっそう激しくうねり、ゼペットは壁に床にと叩きつけられ、再び気を失った。


 †

 

 気が付くと太陽が照り付けていた。影になった人の顔が、ぐるりと自分をのぞき込んでいた。影の一つが後ろを向いて叫んだ。

「まだ息があるぞ!」

 後手に縛られた手に、肩口に、甲板の硬い板を感じた。担架に乗せられて医務室に運ばれながら、ゼペットはぼんやりと考えた。

 俺は……生きているのか?

 地獄の入り口にいたのではなかったか?

 なぜ戻ってこられたんだ?

 それに答えるように担架を運ぶ船員の声がした。

「俺ぁ長いこともり打ちしてるが、クジラの腹から生きた人間が出てきたのは初めてだ!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る