26.

 長い距離を歩くことにはそれなりに慣れているつもりだった。それでも、この暑さの中を気を張り詰めながら動き続けるのは、正直しんどい。

 左手の指がアタッシェケースの重みで痺れ始めたのはずいぶん前だ。


 あの後、再び歩き始めた私は、唯々諾々と通話の声に従うことになった。

 あるときはフェンスとビルに囲まれた更地を横切り、またあるときはなぜかロックが解除されているドアを通り抜け、大通りを堂々と横断したかと思えば、目の前に道路があるのにわざわざデッキを上がってまで車道を避ける。

 そのほとんどが、私の知らないルートだった。実のところ、知らないというよりは、知りようがないという方が近い。警察官でもない人間が、私有地の、しかも公に開放されていない部分になんて、そうそう立ち入れるものではない。それに、街中をくまなく探索できるドローンもクローラも私達にはない。そもそも使用の許可が降りない 。私たちにできるのは、せいぜい校舎の中、ビルとビルの隙間、商業エリアから一ホップの範囲をこそこそと歩き回るくらいでしかないのだ。

 何が「この街には地図がない」、だ。私は記憶の中の得意げな顔に向かって毒づいた。

 彼らはほんとうは、この街の内側にあることは何でも知っているのだ。


 相変わらず知らない道は多いけど、自分がどこにいるのかはなんとなくわかっている。中区画と東区画の境界、北寄り。

 人々の動きからやや外れ始め、活気が失われつつありながら、まだ積極的な再開発が始まるには至っていない。そんなエリアだ。

 さっきからヘッドセットは一方通行の指示だけに使われている。世間話でもすれば応えてくれるのだろうか。

 通話の声――アシスタントを自称している――曰く、奴らには仲間がいる、らしい。でも、それが本当かどうかわからない。

 通っているルートのせいか、ほとんど人とはすれ違わない。とはいえ、遠目に見えるスーツ姿の男性が、私を追うものでないか、疑心暗鬼でおかしくなりそうだ。

 もしかしたら、通話口の向こうへ聞けば、答えを教えてくれるのかもしれない。でも、恐ろしい答えが返ってくるのを聞かされそうで怖かった。どちらにせよ、私にはその返事が本当かどうか、確かめるすべがない。

 あるいは、アシスタント――つまり人間ではないというのが本当かどうかさえ。



 そこで止まってください。絶対に角から身をのり出さないで。


 今までにない厳しい口調にすぐさま歩む足が止まる。冷たくて無機質なその声が私の肝を冷やす。

 ちょうど、ビルの細い隙間から片側一車線へと出ようとしていたところだった。

「これは――ちょっと面倒です」

 打って変わって、困ったような口調は、合成されたものにしては感情がこもりすぎていると感じる。でも、そう感じることはなにかの証明になるだろうか。

「どうしたの?」

「ここから先はどのルートを通っても見つかってしまいます」

「待ってたらやり過ごせたりしない?」

「それを期待してここまで来てもらいましたが、監視の目が緩んだことはありませんでした。おそらくはここを防衛線としているのだと思われます」

「じゃあ回り道?」

「それもあまりうまい手ではないようです。結局はどこかで同じような警戒線を横切らなければなりません。選択肢の中でこのルートは比較的リスクが小さい方です」

「ってことはここを通過できたら逃げられるってこと!?」

「100%安全とは言えないですが、リスクはかなり小さくなります」

「だったら、多少強引にでも突っ切っちゃわない? まだ多少は走れるよ」

「その選択は推奨できません」

 そんなことはとっくに考えている、と言わんばかりの回答。いや、これは私が勘ぐりすぎているだけ? 疲れているのだろう。頭がよく回らない。

「あなたについての詳細な情報は、まだ彼らに出回っていません。突破できる公算は高いですが、その代償として彼らにあなたの姿を晒すことになります。それは決して取ることができないリスクです」

「どうして私の情報が出回ってないってわかるの」

「――それを今説明することはできます。ですが、できれば安全を確保してからにしてもらえますでしょうか」

 あんたねえ、と、反射的に声を上げそうになって、必死でこらえる。

 大きく息を吸って、吐く。

「それさあ、信じる根拠は何もないけど信じてくれって言ってるのと同じだってわかってる!?」

「はい。その上で、瑞月さんはより安全な方を選ぶと信じて、この話をしています」

 信じる? 私を?

 一体私の何が彼女(?)にそう信じるに値すると思わせたのか。

 それでも、今の私は、ため息をつくことしかできない。そして、続く言葉に従うことしか。

「それで、私の安全さはいったいどれくらい良くなるの?」

「ほとんど確実、です。あなたを特定可能な情報が彼らに渡ることはありません」

「それで、私は何をすればいいの」

「それにはひとつお願いがあるのですが」

「さっきから一つどころじゃなくお願いばかり聞いている気がするけど……それで、内容は?」

「あなたの衣類を買い取らせてください」

 ……はい?

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