2.

 法律の上では、この街はただ一つの駅の内側に存在することになっている。地方を代表する、この国の大都市の一つがまるごと駅の中に飲み込まれている。

「九つの路線、八つの連絡駅、七つの区画、六つの百貨店、五つの事業者、四つの大地下街、三つのバスターミナル、二つの行政区、一つの街」

 このフレーズは、この街の異常さをよく言い表してる。

 

 実際、この街の中では、国が発行する身分証明書より、居住者定期の方がよほど通用する。この学校は定期券を学生証と一体にしてるから、ポケットの中のこれ一枚で、本当に全てが済んでしまう。私、櫛部瑞月という人間は、このカード一枚と、それに紐付けられたアカウントで説明できてしまう。

 まあ、そもそも、この街では大人でも免許なんてほとんど持ってないんだけど。

 この街の人にとっては、運転免許が必要なエリアなんて都市と都市を移動する車窓に映る、自分とは縁のない光景でしかないんだ。

 私だって、故郷での暮らしで片時も手放せなかった小型限定免許を、今では個人用キャビネットの奥にしまい込んでいる。

 自動運転のミニトラムに乗れば好きな場所へ行ける。ミニトじゃ時間がかかるならメトロがある。ミニトとメトロで行けない場所は、もう街の外だ。

 

 コンコン、コン。

 物思いを遮ったのは約束通りのノック。仁望だ。

 どうぞと答えながら、私はカーテンを捲る手を下ろした。


「わっ、真っ暗だ。どしたの、電気もつけずに。あ、先お風呂行ってきたから」

 照明が点く。眩しさに一瞬目がくらむ。振り返ると、そこにいるのは当然、仁望だ。寝間着姿の彼女の長い栗色の髪は、まだ湿り気を帯びている。

「じゃあ私も行ってこよっかな」

 そう言って私は窓から離れる。クローゼットから、着替えを用意する。

「たまには瑞月もお湯に浸かってくればいいのに」

「どうせ浸かるなら時間を気にせずゆっくり入りたいってだけ」

 割り当てられた時間しか使えないこの学校の大浴場はあまり好きじゃなかった。その点、シャワーブースなら二十四時間いつ行っても構わない。


「あ、そうだ」

ドアを開けまさに部屋を出ようとしたその時の声に私は立ち止まる。

「息抜きもほどほどにしておいてよね。瑞月が退学になったりしたら、困るんだから」

「困るって、何に?」

 事が露見したときは、仁望は私のことを絶対にかばわないでと決めてある。

 仲は良かったけどお互いのことは詮索しなかった。たしかに部屋にいないときは多かったけど、ラウンジか自習室にいると思っていた。どうやって外へ出ていたのかは見当もつかない。そう言えば、怪しまれはするだろうけど、一応の筋は通るだろう。

「瑞月以上に信頼できるルームメイトなんて、いると思ってないから」

「……ありがと」

 月城仁望という人物は、ふとした拍子にこういうことをなんでもないみたいに言う。四年前、最初に会ったときから、ずっとそう。たまらなくなって私は、少しだけ乱暴にドアを閉める。



 簡単な仕切りで区切られているだけのシャワーブース、案外私はここが嫌いじゃない。当然男女別だし、清掃もちゃんと行き届いていて、清潔だ。

 熱い湯で汗を流しながら、私は故郷にいた頃、免許を取った時のことを思い出していた。さっきの物思いの続きだ。

 小学生でも取れる限定免許で乗れるのは簡単な乗り物だけだ。エアコンはついてないし、速度も出ないし、危険回避はしても目的地まで自律運転してくれるわけではない。

 それでも私にとっての世界を変えた。それまでの私は、通学も買い物も、バスや家族の車に頼るしかなかった。私の世界はひどく狭いものだった。

 誰にも頼らず、自分ひとりで好き勝手に移動できることの気持ち良さ。あの時の気持ち、世界が広がる感覚は、今でも鮮やかに思い出せる。


 今、この街では自分で運転なんてしなくても、故郷の何倍も便利に暮らせる。好きな時に好きな場所へ辿り着ける。

 なのにどうしてだろう。まるで同じところをぐるぐると回り続けているみたいだという錯覚に、陥ることがある。

 私は、この街の中に閉じ込められて、ほんとうはどこにも行けないんだ。そんな強迫観念みたいな考えが、ふとした瞬間に浮かんでしまう。

 ……いけない。こういうことを考えるのは調子がよくない時だ。

 私は、お湯の温度を上げて、頭からそれを被った。 



 部屋へ戻った時には、仁望はもう自分のベッドに入っていた。

 済ませなきゃいけない課題はない。念のため、椅子に掛けたデイパックの用意を確認する。

「明日の支度はすんだ?」

「職場見学の予習課題?」

「それもそうだけど、瑞月のことだからもう終わらせてるんでしょ? その後の話」

「明日は管理会社だから駅南まで戻って解散だよね。どこ遊び行こっか」

「ちゃんと考えておいてね」

「はいはい、仁望もね」

 軽口で答えながら、私も自分のベッドに入る。

「それじゃ電気消すよ?」

「うん。おやすみ、瑞月」

 リモコンで照明を消した。



 すんなりと眠りにつけなくなったのは、いつのことだっただろうか。少なくとも、この街に移り住んでからのことなのは確かだ。

 私はいつもの通り、かぶった布団の中でテキストリーダーの明かりを見つめていた。本当はケータイを使うのも良くないんだけど、毎夜のごとく何もせずにぼうっとしていられるほど、私の精神は退屈に強くない。

 私が倒れでもしない限り、学校はこのだから私のこのやや不健康な生活習慣を知らない。知っているのは、私と、もしかしたら仁望と、あとはこのアカウントの管理業者だけ。


 実のところ、この街はたった一つの企業によって支配されている。OGO。情報産業の巨人。私たちの生活は、あらゆる意味で彼らによって監視されている。この端末の使用状況もそうだし、街頭の移動履歴もそう。

 そして、この街の住人は、自ら望んで、そのプライベートを差し出している。

 当たり前のことだ。幼い頃からOGOのアカウントを持ち、どれだけクリーンで質の良い履歴を蓄積していくかで、提供される生活の良さが決まる。

 余計なことに首を突っ込めば、それだけリスクが増大する。禁忌を犯した者の最悪の結末は、アカウントの削除だ。

 アカウントの削除、これほどまでに恐ろしいことは、なかなか想像できない。

 パーソナルデータがどのサーバにも蓄積されていないってことは、まともなサービスを受けられないってことだ。それは人間らしい生活を失うことと、何も変わらない。

 アカウントを削除されたら、新しいアカウントでまたやり直すか、あるいはマイナープロバイダーに乗り換えるかの選択を迫られる。どちらにしても生き地獄だ。赤子にも等しい存在として扱われるか、ろくなサービスを受けられない環境に甘んじるのか。

 そんな思いをするくらいなら、余計なことには首を突っ込まず、ただただ目の前の競争に専念したほうがいい。


 自らの有能さ、利用価値を示し続けることだけが、この街に存在することを許される、ただひとつの方法だ。特にこの西区画では。

 この学校のシステムはその小さな縮図だ。

 入試の成績がよければ、学費が免除される。テストの得点か寄付金の額が高ければ、すこしだけいい施設を使える。高層階の部屋、使用者の少ない浴場、最上階にある上級ラウンジ。

 この街に生まれた人々は、その価値観にとてもよく順応している。

 翻って、私はどうだろうか。心の底から、ただ健全に、良好な評価を得られるだけのことをして生きていくべきだと、そう思えているだろうか。

 あるいは仁望。私と同じく、この街の出身でない彼女は、どこまでこのシステムを受け入れているのだろうか。


 ケータイに表示されている教科書のページは進まず、ただスリープさせないための無駄なタップを繰り返している。

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