地図のない街

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1.

 屋上の手すりに寄りかかって、ぼんやりと眺める夕日が好きだ。

 屋上って言っても、ここは最上階じゃない。三十二階建ての校舎のうち、教室フロアの上、学生寮フロアで一番下の階に相当する、言ってしまえば途中の屋上だ。

 常時施錠、学生立入禁止のここへ私が入れるのも、私たちの部屋がこの階にあるおかげだ。そうでなきゃ、掃除時間中にドア横の小窓の鍵が壊れていることに気づくことはなかった。


 空は青を通り越して紺色に近づいている。夏独特のぼてっと重い雲が茜色に輝く。今日は夕立の心配をしなくていい日だった。

 ビルの窓ガラスに陽の光が反射して、地上はさぞ眩しいことだろう。

 屋上に吹く風はいつだって強い。髪は乱れるし、目にゴミは入るし、物は簡単に飛んでいってしまうし、これだけはあまり好きになれない。

 下の方へ目線を向けると、もう街灯がまたたき始めている。その隙間を縫って、ふらふらとした液晶画面の灯りが行き交っている。

 ナビが算出した最速ルートを歩く人々の歩みに迷いはない。下手な路地に入り込んでしまえば、電波もGPSも届かない暗い場所を数十分さまよい歩くことにもなりかねないと――場合によっては身をもって――知ってるからだ。特に川の向こうの中区画でそんなことをすれば、危険な場所へ簡単に入り込んでしまう。この街では好奇心は猫だけじゃなく人も殺すのだ。

 人々の流れが途絶えるのは当分先のこと。どの区画も、それぞれ別の理由で眠ることがない。


 この地図のない街、高層ビルに埋め尽くされた街で、十二階というのは、それはもう笑ってしまうくらいの低層階だ。だから、最上階の上級ラウンジみたいに、数百メートル先の景色が見えるなんてことはありえない。

 ただ、この時期だけは、学校の前を東西に走る大通りのずっと先、山々の向こうへと夕日が沈んでいく様子を、最後まで見届けることができる。そのことに気づいたのは、入学して最初の夏、中一の頃。


 それ以来、私は多くの時間をここで過ごしてきた。たとえ夕日が見えない時期でも、成績優秀者ラウンジでさえ混み合うこの時間に、自分一人だけで外を眺めていられる方がずっとよかった。

 口裏を合わせてくれる、信頼できるルームメイトを持って、私は幸せだ。



 私はこの街の生まれじゃない。だから、この街へ来たときには戸惑うことが多かった。

 たとえば、合格後の提出書類で、寮のフロア希望調査なんてものがなんであるのか知らなかったし、提出してから数日後、電話口で「本当にこの希望でいいのか?」と尋ねられた時も、全く意味がわからなかった。


 その真意がわかったのは、入寮当日、歓迎会で三年の先輩から話しかけられた時。

 曰く、この街ではみんな高い場所へ住みたがる。だから成績順に部屋を割り当てる。成績優秀者の多い特待生は高層階の部屋を選ぶのが普通。地方出身でもそれくらいのことはみんな調べてる。つまり入寮までそんなことも知らずにいた私は相当珍しい。

 その言葉で、みんなが遠巻きにしつつも、私の様子を伺っている理由がわかった。

 私はただ、高いところへ住むと何かあった時逃げるのが大変だとか、風が強くて怖そうとか、そんなことを考えていただけなのに。

 その先輩は竹を割ったような人で、良い意味で空気を読まない。だからこそ、私に話しかけたのだと思う。逆に言うと、私はそれだけ周囲から浮いていたってこと。

 先輩が話しかけてくれたおかげで、堰を切ったように他の入寮生も話しかけてくれたし、一学期が始まるまでの春休みにはそれなりに友人もできた。

 それでも、私はこの街にとっての異物なんじゃないか、って感覚は残った。今でも、心のどこかで、そう思い続けている。


 こうして私は、特待生としては異例の十二階暮らしの身となった。

 幸いなのは、同じような変わり者の特待生が今年はもう一人いたってこと。



 太陽が彼方の山々へ沈んでいくのを見届けたあと、街を照らす残照が完全に過ぎ去るまで待ってから、ようやく私は屋上を後にした。

 ゆっくりと小窓を開けて、まずは様子をうかがう。物音がしないことを確かめてから、すっと身体を滑り込ませる。一応廊下からは死角になっているとはいえ、用心するに越したことはない。

 雑然と不用品が詰め込まれた棚に隠した雑巾で靴を拭う。風で乱れた髪と制服も同じく隠してあるミラーで確認。

 そして、しばらく様子を見てから廊下に出る。夕食後の時間は食堂やラウンジに残る生徒、自習室にこもる生徒が多いから、人とすれ違うことはあまりない。無機質な内装の廊下を自分の部屋まで歩く。

 部屋のドアを二回、すこし間を開けてもう一回ノック。返事が帰ってこないのでそのまま鍵を開ける。二人で決めた、中等部以来のルール。


 部屋の電気はついていなかった。

 暗い部屋のまま、二つ並んだデスクを通り過ぎて、正面の窓の側まで来て、少しだけカーテンをめくる。

 この街に住んでみると、高いフロアに住みたくなる気持ちはすぐにわかる。

 まず、この街では地面が高い。道路が何層にも重なった高架になっていて、一番上の高架は二、三階、高いところでは五階に相当する。だから地上は昼間でも夜みたいに暗い。歩く人なんてほとんどいないし、行き交うのは自動車、それも大型のバスやトラックばかりだ。ビルの出入り口も、高架デッキや地下街につながっているのが普通だ。

 そして何より、今みたいに窓の外を見た時だ。

 この街には遠くの景色がない。私が育った町みたいに、西を見れば山が、東を見れば数百メートル先の対岸が見える、なんてことは絶対に有り得ない。窓を開けたとして、見えるのは向かいのビルの窓ガラスだけだ。

 遠くを眺めることができるのは、一握りの成功者、最上層の住人か、街の端に住む、“降りた”人たちだけだ。ラウンジの類が最上階に置かれることが多いのも、そういう理由だろう。


 それでも、と私は思う。

 それでも私はこの部屋が好きだ。この、地を這うような、それでも実家に比べればずっと高いところにある、ささやかな私たちの二人のための場所が。

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