Drowning Lessons

 ドアをノックする時はいつだって緊張する。

 そもそも、ノックしなければ入れないドアというのは、許可が無ければ入ってはいけない場所に存在するのだから。

 私が立っているのは、とあるホテルの、とある部屋のドアの前。

 そして私は今日も扉を叩く。この、灯が泊まる部屋の扉を。


 パタパタと、スリッパの音がする。しばらくの間があって、チェーンを外す音。こんなちょっとした時間でさえ、私の心拍数を上げるには十分だ。ロックを外す音がして、そしてついにドアが開く。ふわっと冷たい空気が顔を撫でる。

「いらっしゃい」

 灯はそういって私を招き入れる。防犯意識が半分、誰かに見られたくない気持ちが半分で、私はそそくさと部屋に入る。

 会ってから一年も経っていない相手をどこまで信用していいのか、という話についてはおいておく。

「なんとなく、今日あたり来るんじゃないかって思ってたんだ」

 全体照明はすでに消えていて、ベッドサイドからのぼんやりとした光だけが、薄くらい部屋の中で私を振り返る彼女を後から照らしている。

「部屋寒すぎない?」

「寒すぎる、ってくらい寒い部屋で布団かぶって寝るのが好きなの」

 それに、と灯は付け加える。

「これくらいでいいんだよ。これから暑くなるんだから」

「恥ずかしいこと言うな」

 些細なやりとり。たったそれだけのことなのに、まるではじめての時みたいに、緊張してしまう。柄にも無く。もう、何度も繰り返して、慣れっこのはずなのに。

「シャワーはもう浴びた?」

 ああ、もう。どうして灯はこういうことを平気で言うんだろうか。これじゃまるであからさまにしに・・来たみたいじゃないか。

 言葉の代わりにうなずきを一つだけ返す。

 そんな私の思いを知ってか知らずか、そっか、と彼女はつぶやいて。

「じゃあ、しよっか。」

 そう言って彼女はせまいシングルベッドの長辺に腰かける。そうして、私の方へ向かって手を伸ばす。

 いわゆる「おいで」の格好を見せつけられた私は、生唾を飲み込んだ。


 今晩私たちはこの場所に泊まっていて、ただし大きな部屋が取れなかったから三人ともバラバラの部屋。

 そんな状況で、三人のうち二人だけが逢い引きしようというのだから、やることと言えば決まっていた。


 惹かれるようにふらふらと近づいた私は、こわごわと灯に抱きついて。布越しの体温。灯の体温はいつも私より高い。そのまま、押し倒す。二人分の体重を抱き留めたベッドからスプリングの音。

 見つめ合う一瞬。私は唇を重ねる。瞳を閉じて、ただ視覚以外の情報だけに集中する。たとえば、身体が触れ合った部分の熱や唇の柔らかさだとか、彼女がいつも使っているシャンプーの香りとか、唇をこじ開けていく時の味、すこしずつ荒くなっていく呼吸の音、なんてものに。

 顔を離す。さっきより赤味の増した顔がそこにある。その興奮を、私が作り出したのだという事実が、私の中の何かを駆り立てていく。

 ベッドに横たわったまま、灯がゆっくりと服をはだけていく。まるで、私に見せつけるように。

 その誘いに乗って、私はその体に触れる。腕、お腹、そして胸へ。肌寒い部屋で触れる滑らかな肌は燃えるように熱い。

 私が灯の身体に夢中になっている間に、灯の手は私の服に手をかけている。その手がボタンを外していく。ひとつひとつ、丁寧に。もどかしいくらいに。

 ふたりとも裸になった上体で抱き合って、もう一度キスしようとしたその時、ちょっとまってと言って身体を起こした灯は、部屋の中で最後まで残っていた光を消した。

 そうして私は、今夜もまた灯に溺れていく。



「これは溺れる練習なのです」

 はじめてした・・あと、お互いまだ裸のまま、ベッドの上で灯がそう言ったのをはっきりと覚えている。

「溺れるというのはつまりですね、自分のしたいことをすること。わたしが思うに、帆風さんは禁欲的に過ぎます」

 自分が禁欲的な人間だなんて思ったことがなかった私は、思わず「はぁ?」なんて声を上げてしまう。

「禁欲的というのとはちょっと違いますかね。抑制的というか、抑圧的というか。とにかく、どこかで自分を抑えている」

「全然自覚ないんだけど」

「そうですか? でも、そういうのってよくないと思うんですよ」

 人の話も聞かず、ベッドの上で四つん這いになって迫ってくる灯に、私は壁際へと追い詰められる。

「何より、私が気に入りません」


「だから帆風さんには自分から『欲しい』って言ってもらいたいのです」


「わたしは、いつだって誰かから何かを与えられていたいんです。だから、与えられるためならどんなことだってします」

「それって矛盾、というか本末転倒じゃない? 自分が与えられるために誰かに何かを与えるってことでしょ?」

「うーん、それを言われるとつらいんですけどね。でも、上手く言えないですけど、自分がずっと抱えておくことと、一度相手にあげたものが戻ってくるのとでは、何かが違うと思うんです」

 こういうのは桐果さんのほうが上手く説明できそうですね、と灯が付け加える。

 ここにいないもう一人についての話題が出て、その存在を置いてけぼりにしてしまったことを思い出して少し罪悪感が湧く。

「あっ、いま後ろめたいって思ったでしょ?」

 図星だった。

「そういうのがよくないんですって」

「やりたいことをやればいいんですよ。誰かの目なんて気にしちゃダメです」

 少しムキになった顔で、灯がわたしに迫ってくる。

「だから、今はわたしだけを見てください。この部屋にいるのはわたしたちふたりだけなんですから」



 あれから、どれだけの夜をふたりで過ごしただろう。

 毎晩ではない。部屋割りによっては当然無理だし、逆に私たちふたりが相部屋になったときでも、なにもないまま終わることもある。

 それでも両手では数えられないくらいには、この関係を続けてきてしまっている。

 あの時、灯が言ったことについて、私は何度も考えている。考えても、未だにわからないままだ。

 わからないうちはこんな関係を続けてしまってもいいんじゃないかって思ってしまうときもある。

 でも、した・・後の朝、桐果の顔を見た途端に、そんな思いは吹き飛んでしまう。今すぐ泣いて縋って謝りたくなる。

 そんなこと思う資格もないってわかってるのに。


 

 どうすれば、この関係を続けていられるのだろうか。

 灯は答えを知っている、はずだ。教えてはくれないけれど。

 私は、その岸辺にたどり着かなきゃいけない。

 果たして私は、水に落ちても沈まずに泳ぎ切ることができるのだろうか。

 私は、どうしたいんだろう。

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