夜を這いずり回る者たちについて
試験勉強とレポートのせいで私の部屋に一日中こもりきり。いい加減気詰まりになっていた私達は気分転換に外へ出ることになった。
「じゃ、暖機してくるから。啓子はゆっくりでいいよ」
そう言って佳歩が家を出てからしばらくして、静かな住宅街にはやや不釣り合いな低い音が響き始めた。
私は、軽く出かけるだけにしては少しだけ念入りに部屋を片付けてから、ドライブのとき専用にしてるバッグをいつも通りにコートハンガーからはがして、一度だけ、真っ暗な廊下を振り返る。玄関の扉を開くと、暑く湿った空気が流れ込んでくる。点けっぱなしのエアコンに無駄な仕事をさせないようすぐに鍵を掛け、マンションの外階段を降りて、近くの駐車場へ向かう。
佳歩はいつでも念入りに暖機運転をする。こんな、エアコンなしでは寝付けそうにない時期にあっても。
私が思うに、きっと佳歩のそれは、車だけじゃなく自分の気分も整えている。その証拠に、昔はしょっちゅう「そんなに急がなくていいのに」と、不満そうな顔を向けられたものだ。いまはあえて、ゆっくり目なくらいで部屋を出るようにしている。
住宅街の片隅にあるこの駐車場は、街中のとは違って料金が24時間上限付きで金額も手頃だから重宝してる。まさか、時々尋ねてくる人間のために月極駐車場を借りる訳にもいかない。
佳歩の車はどこにいてもすぐわかる。エンジンがかかっていれば少々ぶしつけなその音を聞き分けられるし、なによりその鮮やかな色がひときわ目を引く。
女子大生が乗り回すにはちょっと勇ましすぎるこの車は、彼女の車好きな親戚が乗っていたもので、今は「貸してもらってる」。つまりは、そういう名目で実質的に好き勝手に使っているらしい。
後のドアを開けて、荷物を放り込む。よほどの大荷物じゃない限り、荷室を使うことはない。後部座席にバッグを置いて、おしまい。泊まり用のボストンが入らなくなったら、そのときはじめて出番が来るかもしれない。それって北海道横断? って感じだけど、一度くらいはそういう旅もしてみたいものだ。
前のドアを開けて、今度は私の身体を滑り込ませる。一度クーラーの効いた車内に入れば、もう二度と外には出られたもんじゃない、って気分になる。
私が近づいてくるのをミラーで確認していたのだろう。佳歩はこちらの方を見向きもしない。流れている音楽に合わせて、ハンドルに乗せた人差し指が踊っている。さっき荷物を置いたときに気づいていたけれど、今日はAMラジオの気分みたいだ。
私の方も、一言も発しないままにシートに腰掛け、シートベルトを締める。パチン、という小気味よい音。
佳歩がライトを点ける。パーキングブレーキを解除し、ギアをドライブレンジへ。
そうして、わたしたちの車は、夜の道を泳ぎ始める。
いつものように。
せせこましい住宅街の道を抜ければ、すぐにバイパス道路へ入る。私たちを遠くへ連れて行ってくれる大きな流れ。
実のところ、夜のドライブはいつだって爽快だ。いつでも渋滞しているあの道も、この時間なら通行量は少ない。同じ時間を掛けて、普段の何倍も遠くへ行ける。
この車より輪を掛けてやかましい改造車が、時折右側車線を駆け抜けていくのを除けば、とても穏やかなドライブだ。
ドライバーならともかく、助手席に乗っている人間で、さまざまな灯りに照らされた夜の道を嫌いな人間は、きっと少ないのではないだろうか。
窓の外を流れるのはオレンジ色の街灯、色とりどりのネオンサイン、24時間営業の真っ白な蛍光灯。
昼間には気にも留めないような店々が、どうしてこうまで魅力的に映るのだろう。
交差点を曲がる度に、ステアリングホイールをくるくると回す佳歩の細くて白い指が、暗い車内の中で輝いて見える。
もし私が免許を取って、運転する側に回ったなら、彼女の目にも同じように私のことが映るのだろうか。
そうであったらいいなと思う。
早く教習所へ通って、免許を取ろうと、私は密かに決心した。
数十分のドライブの後、郊外型の喫茶店に入る。
ドライブスルーじゃなくて、ちゃんと店内の席に座るタイプの店。良く入るチェーンだけど、こういう郊外型の店は初めてだ。
店内が広々としていることを除けば、駅前の店となにも変わらない。
私はふたりぶんの飲み物を注文する。佳歩にはいつも通りのカフェラテを、自分の分は抹茶ラテで。
私が席に着く頃には、佳歩はもう自分のノートパソコンを広げていた。ずっとキーボードを叩いているから、おそらくはレポートを片付けている。
私は、次の講義の参考書に目を通すことにした。教養科目で、そんなにまじめに読むこともないのだけれど、気楽に興味範囲を広げられるのが楽しい。
結局、プラスティックカップの中で氷が溶け切り、従業員が閉店時間を告げに回ってくるまで粘ってから店を出た。
帰りの道では開いている店もまばらになり、どの車線も大型トラックばかり走っている。
夜が、ドライブが、この自由な時間が、私たちの関係が、いつまでも終わらなければいいのにと思う。
でもそれは叶わぬ願いだ。どんなものだって、永遠に留めておくことは出来ない。
だから私は祈る。この景色を、この感情を、いつまでも忘れずにいられますようにと。
来た道を忠実になぞって、私たちは元の駐車場へと戻ってきた。
なめらかに車体を枠の内側に納めた佳歩の手が、シフトレバーをパーキングレンジへ入れ、ハンドブレーキを引く。そしてとうとうエンジンが止まり、急に訪れた静寂が耳に痛い。
車の外は相変わらずの蒸し暑さだ。車を降りて伸びをひとつすると、おまけにあくびがついてきた。流石に夜ふかしが過ぎたかもしれない。
誰もが寝静まった駐車場からの道は輪を掛けて暗く、そのとき初めてやけに月が明るいのに気づく。今夜は満月だ。
さあ、家へ帰ったらシャワーを浴びよう。ふたりいっぺんにとはいかないから、まず佳歩が入って、その次に私が入って、そのまま佳歩を追いかけるみたいにベッドへ倒れ込んで。
朝起きたらちゃんとした朝食を作ろう。時間としてはブランチみたいなものだろうけど。なにせ、明日の講義は午後からなのだ。それにもう、課題のレポートは書き終えている。
ああ。だから。
そんなゆめみたいないちにちのめざめをたしかなものにするために。
いまはただ、アラームをかけるのをわすれずに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます