Confusion the Waitress

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本編

 いつもと同じ駅前から、いつもとは違うバスに乗って、僕らはゆるふわな世界へと踏み出した。

 窓の外は、ナトリウムランプのオレンジ一色で染め上げられている。聞こえるのは、後ろで唸りを上げているエンジンと、大きな車体が風を切るごうごうという音くらい。暇つぶしの手段がない高速バスの車内というのはとても退屈。同行者が寝入ってしまえば、なおさらだ。

 朝、いきなり電話で呼び出されて、待ち合わせ場所に向かったらいつの間にか車上の人に。一泊二日で旅行に行きましょうと告げられたのは、バスが走り出した後だった。おかげで、僕たちがどこに向かっているのか、何が目的なのかさえもわからない。そんな、怒涛の勢いで始まった旅だから、僕の持ち物といえば小さなかばん一つだけ。その中に入っているのも、財布に手帳、携帯電話、音楽プレイヤー、あとは薄い文庫本くらい。

 こんな調子で大丈夫なのかと不安になるけれど、僕をこの事態に巻き込んだ張本人いわく、「一泊だけなんだし、問題ないよ。服だって、いざとなったらランドリー使えばいいし」とのこと。確かに正論なんだろうけど、なんというか、適当である。

 バスがトンネルを抜けた。柔らかな陽光で車内が一気に明るくなる。窓の外を見る。そこには、さっきまでとは対照的な青一色の光景、海と空とが見渡す限り一杯に広がっていた。静かだった車内も、この景色をきっかけに一気に賑やかとなる。

 僕は隣の席の方を向いた。肩にかかるふわっとした深い茶色の髪が、穏やかな呼吸に合わせて上下している。そのあまりに安らかな寝顔に、伸ばしかけた手が止まるけれど、この景色を目の当たりにした時の表情を見てみたくて、僕は彼女の方に手を伸ばした。

「美樹さん、起きてください。海ですよ、海!」

 僕はそう声を掛けながら、美樹さんの肩を揺する。美樹さんはいつもどおりに、ふわー、と大きな口を開けてあくびをして、そしてその眠そうな目が窓の外に向いた途端、一気に輝き始めた。

「うわー、きれーい!」

 勢いよく寄りかかってきた美樹さんに、僕の身体は押し潰される。

「うわ、あぶな。美樹さん、おも……」

「失礼な。重くなんてない!」

 思わずこぼれた僕の言葉に強い口調で反論しながら、更に体重を掛けてのしかかってくる。触れ合った部分から伝わる体温を感じながら、さっきの寝顔にときめいてしまった事は黙っておこうと思った。


 しばらくして、バスは目的地と思われるバスターミナルに停車した。そこには、名前くらいは聞いたことがあるけど実際に訪れた事は無い、マリンレジャーで有名な観光地の名前が掲げられていた。

 車内から殆どの乗客がいなくなった頃、僕たちも彼らの後に続いてバスを降りた。暖房の効いていた車内から一歩踏み出しただけで、少し湿った空気の冷たさがコート越しに伝わってくる。温暖な気候の土地とはいえ、この季節に来るとさすがに風が冷たい。そして、その中にかすかな潮の香りを感じて、すぐ近くに海があるんだって事を実感する。

 美樹さんは大きく伸びをすると、荷物取って来るからと僕に告げて係の人の方に向かって行った。しばらく経って美樹さんは大きなキャリーバッグを引き連れて戻ってきた。一泊二日の旅行の為には不釣合いな程に大きな荷物に僕は驚いて、一体何が入っているのかと尋ねてみたのだけれど、美樹さんは薄い笑いを浮かべながら、まだ内緒としか答えてくれなかった。

 バスターミナルを出た僕たちは、美樹さんの提案に従って少し遅めの昼食をとることになった。なんとなくで選んだ店に入り、一番オススメされていたメニューを二人揃って注文。刺身がたっぷりのった丼ものは、その謳い文句に違わず美味しくて、僕も美樹さんも思わず顔がほころんだ。


 バスから降りた頃から曇り始めた空は、店を出る頃には一面の低い雲に覆われていた。

 暖かな陽射しをもたらしてくれた太陽はもう分厚い雲の向こう側で、冷たい潮風は分厚いコートの生地をいとも簡単にすり抜けてくる。よく、海沿いの天気は気まぐれだって言うけれど、もうちょっと陽射しを残していて欲しかったなんて思う。

 僕たちは、駅から続く幹線道路の歩道を歩いている。僕の右後方には例の大きなキャリーバッグが続き、そのハンドルは美樹さんではなく、僕の右手が握っている。

 先程、食事を終えて店を出た時のことだ。

「じゃあ私が地図見るから、浩くんはこっちよろしくね」

 そう言って美樹さんは僕にキャリーバッグのハンドルを差し出した。地図の読めない僕は喜んでその役割を引き受けた。でも、同時に僕は美樹さんに対する申し訳なさを感じてしまう。なぜなら、この連携は美樹さんが何度も僕の方向感覚のデタラメさを思い知らされた経験から獲得したものだからだ。

 僕の前で地図とにらめっこしていた美樹さんが足を止めた。美樹さんは僕の方を振り返り、目の前に立つ背の高いビルを指差した。

「ここが今夜泊まる宿ね」

 その細い指が指す方向に首を向けた僕は、予想以上に豪華な外見に一瞬言葉を失ってしまう。

「ここ、ですか」

「ん、どうしたの?」

「いいんですか、こんな良さそうな所に泊まっちゃって」

「大丈夫大丈夫。ノープロブレム」

 戸惑う僕に向かって笑いかけながら、美樹さんは華やかに飾られたエントランスに向かって歩き始める。僕は、急ぎ足でその姿を追いかけた。

 美樹さんがチェックインの手続きをしている間、することのない僕は、ぼーっと辺りを眺めていた。赤いじゅうたんが敷かれた広いロビーは吹き抜けで、子供連れからビジネスマンまで多くの人で賑わっている。その奥では何かの設営なのか、何人かの従業員が忙しそうに働いている。非日常的な光景に、遠くに来てしまったなあなんて思ってしまう。

「お待たせ。じゃあ、行こっか」

 手続きを終えた美樹さんがカードキーを手に戻ってきた。

「何階の部屋ですか?」

「んーとね、8階だって」

 僕たちは二人揃ってエレベータに乗り込んだ。僕がボタンを押すとドアが閉まり、エレベータは滑らかに上昇しはじめる。


 美樹さんがドアにカードキーを差し込むと、ピッという電子音と共にロックが解除された。美樹さんがドアを押し開け、僕とキャリーバッグがそれに続く。広々とした部屋に二つ並んだベッド。その奥には大きな窓が広がっていて、このホテル自慢のオーシャンビューが楽しめる……はずだった。そう、天気さえ良かったら。

「あーっ、雨降ってる」

 窓に駆け寄った美樹さんが声を上げる。今、窓の外に広がっているのは相変わらずの低く暗い雲で、とうとう雨まで降り始めたらしい。せっかくの景色も、これでは台無しだ。ついてない、と口に出そうとしたその時。

「よかったね、降り出したのが着いてからでさ」

 振り返りざまのこの一言で、僕の暗い気持ちなんてどこかに消えてしまった。僕は笑みを浮かべながら、

「そうですね」

 と答えた。

 美樹さんは窓から離れ、ばふっという音を立ててベッドに腰掛ける。

「見て見て、このベッドすっごく寝心地良さそう」

 その言葉に促された僕はトランクを直立させて、もう一つのベッドに座る。改めて部屋の中を見回すと、インテリアはシックな色調で統一されていて、なんというか、格好いい。

「お洒落な部屋ですね」

「うん、来てよかったよ」

 美樹さんはとても満足げな笑みを浮かべている。その表情に、朝から何度も感じていたものと同じ違和感を見出した僕は、覚悟を決めてまっすぐ美樹さんの方を向いた。いい加減、問いたださなきゃいけない頃合いだろう。

「じゃあ、そろそろここに来た理由を聞いてもいいですか」

「理由、って言われても、二人っきりで旅行したかっただけだよ」

「それだけじゃないんでしょう?」

「な、なんのことかな」

「とぼけても無駄です。美樹さんが突然僕を呼び出すのは大抵変な事を思いついた時です。それに、何ですかその大きなトランクは。見るからに怪しいじゃないですか」

「ひどいなー……まあいいか。それじゃあ、お楽しみの時間といきましょうか。」

 そう言うと美樹さんはベッド脇のトランクを倒すと、中をごそごそといじり始めた。

「じゃーん!」

 元気な掛け声と共に美樹さんがトランクの中から取り出したのは、黒を基調としたメイド服だった。なんというか、うん。言葉がない。

「どう? どう? かわいいでしょ!?」

 メイド服を身体に当ててはしゃいでいる美樹さんを、僕は呆然と眺めていた。荷物がやたら大きかったのはこれが理由だったのか。

 でもこのメイド服、見れば見るほど手間がかかっている。ゆるりとしたロングスカートに、ちりばめられたふわふわの装飾。素材も安っぽくないし、縫製もしっかりしている。ドンキホーテのコスプレコーナーではとても手に入りそうもない。日常的に着る事を前提とした、いわば本気のメイド服だ。……なんだ、本気って。

「こんなもの一体どこで手に入れたんですか」

「趣味に努力は惜しまない!」

 ビシッ、と僕に指を突きつける。言ってる事は格好いいのに、残念ながら行動が追いついてない。僕はため息をついた。

「はいはい、わかりましたよ。要するに、誰も知らないような場所でコスプレデビューをしてみたかったと、そういうことですか」

 呆れ顔の僕の発言に、美樹さんはきょとんとした顔になる。

「何言ってるの? これは、あなたが着るの」

 数秒間、無言のまま時が流れた。そして、放心状態となった僕の口から辛うじてこぼれたのは、

「へっ?」

 という間の抜けた言葉だけだった。


「浩くんにはメイド服が似合うんじゃないかって、ずっと思ってたんだ」

 えーっ……と、どんな反応を返せばいいのだろう。苦笑いすることしかできない。

「ウィッグ、化粧道具、ガーターストッキングまで。浩くんのサイズで揃えるのちょっと大変だったんだから」

 僕の戸惑いなどお構いなしに美樹さんはトランクケースの中身をベッドの上へと広げていく。

「せ、せっかくこんないいとこまで来たのに、観光しないんですか?」

「外、天気こんなだけど?」

 そういって美樹さんは窓の外を指差す。ガラスの向こうは相変わらず灰色一色、風と雨とで荒れ模様だった。この天気では外に出ようと言う気にはちょっとなれない。

「まあ最初から観光する気なんてなかったけどね」

「薄々は気づいてましたけどやっぱりですか」

 机の上の冊子にはホテル内の施設やイベントについての案内が載っていたけど、美樹さんを止めるための材料にはならないだろう。僕は軽くため息をついた。その時だ、バタンという大きな音が部屋に響いた。驚いて顔を上げると、そこで美樹さんが僕を見ていた。驚くほど真剣なまなざしで。

「……やっぱり、嫌だった?」

 部屋の外では強い風がごうごうと木々を揺らしている。窓一枚隔てた内側の暖かな空気が少しだけ喉に痛い。

「浩くんがどうしても嫌なら、残念だけど今日は諦める」

 美樹さんの目がまっすぐ僕の目を見つめ、僕は美樹さんから目線を外すことができない。

 絶対に嫌ですって、強く言い切ってしまえばいいのだ。そうすれば、僕はめでたくこの緊急事態を回避できる――でも、本当にそれでいいんだろうか。

「ちょっとだけ待ってもらえませんか」

 少しの間言葉に詰まってから、僕はそう口に出していた。


 自分以外の誰かに成り代わってみたい。そんな、いわゆる変身願望というものを、どうしようもなく抱いてしまう人は、きっと世の中に結構いるのだと思う。僕だって、そういうものに1%も興味ないって言い切ってしまったら、それは嘘になってしまうだろう。でも、そう簡単に自分の身分とか役割からは逃れることはできないから、その代わりに人はいろんな方法を使って、少しでも欲望を満たそうとする。例えば、髪型を変えてみるとか、普通着ないような服を着てみるとか、あるいはネット上で別の自分を演じてみる、とか。

「私としては、すっごく似合いそうって思うんだけどな」

 辛抱強く僕の言葉を待っていた美樹さんが口を開く。キラキラした瞳がチラリチラリとこちらの顔をうかがっている。

「それ、本気で言ってますか?」

 きょとんとした表情を見るに、どうやら本気らしい。ぼくはため息をついた。

 正直な話、この何気ない一言は僕を動揺させた。正確には、美樹さんがそんな基準で僕を計っていた事に対して、戸惑ってる。誰にだって服装に関する好み位はあると思う。例えば、美樹さんと会う時はスカート姿の方が多いのだけれど、時々見せるジーンズ姿もかわいいな、なんて密かに思っていたりもする。でも、タキシード姿が似合うかどうかなんて考えたこともなかった。でも。

 まあ、いいか。僕は思い直した。あるいは、開き直った。そんな真剣に思い悩むことでもないだろう。何より、美樹さんプレゼンツのイベントなのだ。準備に抜かりはないだろう。ならば僕はそれを楽しめばいい。

「……わかりました。僕、やります」

 僕がそう口に出した途端に、美樹さんの表情が満面の笑みへと変わった。

「えっ、本当に? やったー! じゃあね、まずは……」

 楽しそうに支度を始めるのを見ながら、美樹さんは駆け引きが上手いんだよなあ、なんて思った。あるいは、僕の方が下手すぎるのかもしれないけど。


「おし、こんなものでしょう」

 はさみでウィッグを整えていた美樹さんは満足そうにうなずきながら、僕の両肩に手を載せた。どうやら、すこしの間ぼんやりしていたみたいだ。机の上に外しておいた腕時計の長針は一周以上回っている。戸惑いながら着慣れない衣装に着替え、鏡台の前でメイクを施されているその間に、かなりの時間が過ぎていたらしい。

「さあさあ、はやくはやく!」

 スーパーご機嫌な美樹さんに促されるがままに椅子から立ち上がると、僕は壁にかけられた全身鏡の方を向いた。

 ……鏡の前にいるのは誰だろうか。それが自分以外の誰でもないということはわかりきってるし、ほどこされた工程の一つ一つを僕はこの目で見てきた。でも、複雑で念入りな作業を積み重ねた末に出来上がった完成状態としての姿を見ると、単体では意味をなさなかったことが確かな役割を果たし、結果的として普段とはあまりにかけ離れたものになった自分の姿に思考が追いつかない。本当にありきたりの表現だけど、まるで自分が自分じゃないみたいだ。残念ながら、それは今の自分が美しいということにはまったく結びついていないのだけれど。

「に、似合わない……」

「えーかわいいじゃん。ほら、ちょっと中性的な感じでさ」

 思わず美樹さんの顔を凝視する。真剣な表情からすると、どうやら本気で言っているらしい。

 でも、それでも。少し、ほんの少しだけ、思ってしまったのだ。今の自分の姿がいい感じなんじゃないか、って。


「それじゃあ、記念撮影といきますか」

 美樹さんは鞄の中からカメラを取り出すと、それを僕の方へと向けた。もっと柔らかい笑顔でと声を掛けられたけど、手元にある写真に硬い表情しか残っていない、僕みたいな人間にとってそれは無理な注文だった。いっこうに緩まない僕の表情に、さすがの美樹さんも諦めたようで、定番のはい、チーズというかけ声とともに閃光が走った。直後、ちょっと耳障りなモータ音が響き、カメラから小さなカードが排出された。美樹さんはその白いカードをテーブルの上に置き、にやけた顔でそれを見つめている。

「それ、デジカメじゃないんですね」

「うん、そっちも持ってきてるけど、すぐ写真で見られる方が雰囲気出るかなって」

 いわゆるインスタントカメラというものだろう。実際に使っている人は初めて見た。

「それとも普通のフィルムの方がよかった? きれいに大きく引き伸ばせるよ。その代わり現像には出さなきゃいけないけど」

 いたずらっぽい声で美樹さんが言う。冗談じゃない、相手にはそれが誰だかわからないとはいえ、こんな状態の僕を見せるなんて、ごめんだ。

「とんでもない。こんな姿、美樹さん以外に見せたくないです」

 何の気なしに口にした一言で美樹さんの動きが止まった。顔を上げ、僕の目をじーっと見つめる。心なしか顔が赤い。しばらくたってからボソっと口を開く。

「ちょっとキュンときた」

「……何言ってるんですか」

 改めて指摘されると、口にした言葉がのろけ以外の何者でもないって事に嫌でも気づかされて、自分でも恥ずかしくなった。なんとなく気まずいまま、無言のうちに待つこと数十秒。おぼろげに浮かび上がっていた像は、いまや完全な写真に仕上がっていた。

「ほらー、見て見て、よく撮れてるよ」

 さっきまでの沈黙が嘘のような明るい声色で、美樹さんが僕の方にカードを掲げて見せる。恐々とのぞきこむ。そこに写っていたのは、純白のエプロンドレスにこぼれるくせのないの黒い髪、落ち着いた色あいのメイド服、そしてほんのりとチークの色に染まったほほ。予想していたよりはずいぶんまともな見た目をしたメイド服姿の人物だった。本物の女性と区別がつかないとまでは行かないけれど、それとはまた別の、アンバランスなんだけど、これはこれで悪くないかも……と思ってしまいそうになるような、うまく言葉にできないけれど、そんな感覚。正直な感想としては、撮り方しだいで外見なんてどうにかなってしまうんだな、といったところ。でも、自分の見た目が普段と全然違う物になってしまうというのは、怖くもあったけど、少しだけ、ほんの少しだけだけど……わくわくした。

 自らの行いに満足した美樹さんはますます勢いづいて、デジカメに持ち替えた後に何十回、百数回とシャッターを切り続けた。さっき美樹さんが言っていたことは正しくて、デジカメでパシャパシャと連写されるよりもインスタントカメラで一枚ずつ撮られる方が、いかにも撮影されているって気分を味わえた。写真が現れるまでの待ち時間とか、実物としてそこにあるということは、小さなディスプレイを通して見るのより何倍も、強さとか、説得力みたいなものがある、というのが僕の実感だった。

 部屋の中でも似たような写真ばかりにならないよう精一杯の工夫をした。ツーショットで撮影してみたり、窓際とかベッドの上とかいろいろな場面を試してみた。毎回毎回ポーズに細かい指示が飛んでくるのはちょっと大変だったけど。

 予想していたのよりはずいぶんましだった自分の姿に安心してたとか、今まで着たこともなかったような服に身を包んでいる背徳感めいたものに舞い上がっていたとか、いろいろな理由があったのだと思うけど、とにかくこのときの僕は間違いなく調子に乗っていた……調子に乗ってしまっていた。

「ちょっと休憩しよっか」

 美樹さんは椅子に座り、うきうきとした様子で今までの戦果を振り返っている。一方の僕はベッドに腰掛けている。妙なテンションの高さや部屋の中で動き回ったりしたせいで息が上がってるし体も熱い。思わず首もとを開いて手で扇ぐ。人前でこんなことをしていたら、はしたないなんていわれてしまうのだろうか。そうだとしたら女の人って大変だな。そこまで考えたところで、今の来ているものを変に意識しちゃってる自分に気づいて恥ずかしくなった。

 少し気分が落ち着いたところで、美樹さんのにやにや笑いがうーんといううなり声へと変わっていることに気づいた。しかしその声は唐突にぱたりと止み、どうしたのかと顔を上げると、美樹さんが輝かしい笑顔をたたえながら、背もたれに体を預ける格好で僕の方を向いていた。なんとなく、嫌な予感がした。そして美樹さんが口を開く。

「ねえ、ちょっとだけ、外に出てみない?」

 さらりと飛び出てきた恐ろしい提案に、服が乱れることも気にせず勢いよく立ち上がってしまう。

「ななな、なに言ってるんですか!」

「いやー、ほら、やっぱ部屋の中だと同じような写真ばっかになっちゃうから」

「それはそうですけど……そもそも、外って言ったってこの大雨ですよ?」

「さすがに建物の外まで出るわけじゃないよ、こんな天気だし。ロビーの吹き抜けにシャンデリアがあったじゃない? ああゆうの背景にしたら見栄えするんじゃないかなって」

 もしかして、こんな天気じゃなかったら本当に屋外へ出るつもりだったのだろうか……言外のニュアンスに軽い恐怖を覚える。

「そうだとしても、でも写真を撮るためだけにここへ来た訳じゃないですし、それに人に見られるのはさすがに嫌です……」

 ちょっとこっちきてよと、机の方へと向き直った美樹が顔の無期はそのままで腕だけをこちらの方へと向けて手招く。僕が椅子の横に立つと、机の上で開かれた冊子の館内図を指で差しながら、こっちのエレベータは不便だからお客さんがこないだろうとか、ロビーに出るわけじゃないし、この階はホールを使う人くらいしかこないだろうから、たぶんお客さんと会わないんじゃないかとか、誰にも見つからずに外にでるための戦略について説明し始めた。いかにもその場しのぎなその作戦に相変わらず渋い顔をしていると、深いため息をひとつはいた後で美樹さんはこんなことを言うのだ。

「浩くんは、人に見られるのが嫌なだけで、外には行きたいんじゃないかな、なんて」

 外にでるのが嫌なんじゃなくて、誰かに見られてしまうのが嫌。逆に言えば、誰にも見られないなら外にでてもいいんじゃないか。心の中を見透かしたかのようなその言葉にとどめを刺されて、僕はもう何も言えなくなってしまった。


 なんであんな風に考えてしまったのだろう。エレベータに設置されている鏡、その中に映る自分の姿を見つめながら、僕はため息をついた。

 そう、僕は美樹さんの作戦に乗ってしまった。ここはホテルの建物の端の方、フロントやレストラン、大浴場、屋内プールやらの人気がある場所へと出るためには不便な位置にあるエレベータの中。美樹さんの立てた作戦がうまくいっているのか、あるいは偶然の神様が僕たちにほほえんでいるだけなのか、それはわからないけれどとりあえず今までのところは誰の目にも触れずにここまでくることに成功していた。

 再び意識を鏡の中へと向ける。美樹さん曰く中性的でかわいい、僕からするとギリギリでセーフ……と思ったらやっぱりアウト、くらいの外見。残念ながら、誰かに見られて男だと気づかれない、という水準には達していない。だからそんな僕にできることと言えば下に辿り着くまで、あるいは部屋に戻るまで、ただ誰かの目に触れることがないよう祈るばかりである。

 操作パネルの押しボタンは唯一三階のみに明かりが灯っている。三階は入り口ロビーの吹き抜けが続く階で、天井に掲げられたシャンデリアを大小幾つかの会議室とそれらを結ぶ廊下とが取り囲んでいるフロアだ。僕たちはこの人通りの少ない――と思われる――回廊で半ばゲリラ的な形で撮影しようとしているのだ。

 チン、というベルと共にゆるやかにエレベータの動作が止まる。目的の階に無事に到着したという安堵に、思わず美樹さんの方へと微笑む。美樹さんは言ったとおりでしょう?と言わんばかりの自慢げな表情でこちらの方を向いている。

 ゆっくりとドアが開く。その向こうに見える背の高い黒い影。すっかりゆるみきってしまっていた僕の思考が一気に恐慌状態へと転落する。ドアが開ききるのと同時に、スーツを着た男性の視線が僕を突き刺す。見られた! 不安が現実になってしまった恐怖でいっぱいになった僕は、男性の表情が戸惑いへと変化する前にエレベータの外へと駆け出した。美樹さんが何か言っているようだったけど、僕は足を止めなかった。走るのに邪魔となる長いスカートを両手で摘み、慣れない靴に何度も転びそうになりながら。吹き抜けに沿ってぐるりと続いている廊下を僕は走っていく。それでも、いつまでも走っているわけにはいかない。目に付いた物陰に僕は必死で駆け込んだ。

 全力疾走したせいでまだ息が切れている。それでも、気分の方は少なくとも自分の置かれている状況を考えられるくらいには落ち着いてきた。そして僕は気づく……ここ、どこなんだろう。今どこにいるのかわからない。夢中になっている間は数分間走り続けていたようにさえ思えたけど、現実にそんなことはあり得なくて実際はせいぜい数十秒といったところなんだろう。回廊から突き出た形の短い通路は薄暗く、その終わりには倉庫らしき部屋への扉がある。この奥の扉から突然人が現れたりしないか、目の前の通路を通る人がこっちを覗き込んだりしないか、不安で仕方がない。荒かった呼吸は少しずついつものペースへと戻っていくのに、心臓だけが、部屋にいたときのドキドキなんて比べものにならないくらいに激しく脈打っている。でも今のそれは、楽しくなんて全然なくて、ただただ不快で仕方のない動悸だった。

 さっきのエレベータはどっちだろうか。意を決して身を乗り出してみようとする。でも、周囲の様子を確かめる前に大きな音が響いてきて思わず体を引っ込める。拍手の音だ。どうやら、吹き抜けの下から聞こえてくるらしい。しばらくの間があってから、ハウリングの耳障りな音に続いて、マイクで増幅された男性の声が吹き抜け中に響きわたる。そういえば、昼間にロビーで何かの設営をしていたことを思い出した。どうやら、あそこでなんらかのイベントが行われているらしい。

 一階へ人が集まっているうちに部屋まで戻らなくちゃ。そうわかってはいたのだけど、足が動かない。僕はその場にしゃがみこんだ。どうしようもなく心細かった。美樹さんの、あの自信に満ちた、勝ち誇ったような笑顔を見たかった。

「お待たせしました。今夜のショーは友好都市宣言から20年目を迎えたことを記念いたしまして、海の向こうより特別ゲストをお招きして、本場そのもののケチャを……」

 その場の盛り上がりを損なわないような、それでも落ち着いた口調で、予定を進行していく司会者。僕はといえば、チャンスは今だと考えの上ではわかっていても、どうしても不安で、その場で俯いたまま一歩も歩き出せないでいた。

 そんなとき。

「こんなとこにいた」

 人の声に、聞き慣れた声に顔を上げる。僕が望んでやまなかった、会いたくて仕方がなかった顔が、そこにあった。

「もう、どこに行っちゃったのかと思った」

 そう言いながら、美樹さんが明るい回廊から廊下の暗がりへと歩いて来て、僕の前で立ち止まった。僕はしゃがみ込んだまま美樹さんの顔を見上げる。

 そう。そんな、僕にはどうにもできなくなってしまった時に、魔法みたいなタイミングで美樹さんは現れるのだ。いつだって。

「別の階にまでは逃げてないだろうと思ったけど、こんなところにいるんだもの、見つけるのに時間かかっちゃったよ」

「だって、いきなり人が来て……」

「ばかだなー、なにごともないみたいな態度してれば怪しまれたりなんてしないのに」

 いや、メイド服着てる人間が外を出歩いてる時点で十分怪しいでしょう。内心でそんなツッコミを入れることができるくらいまでは、どうにか余裕が戻ってきた。

 と、安心の笑みと苦笑いとが半々位だった美樹さんの表情が急にまじめな顔になって。

 そして、しゃがみ込んでいる僕を上から包み込むようにして抱きしめた。

「ごめんね」

 美樹さんはの声が片方の耳にだけ響く。でも僕はその言葉をろくに受け止めることができなくて、それよりも密着した身体から、首に回された腕から、右肩に乗せられた顎から伝わってくる美樹さんの体温に翻弄されていた。

 不安なときに感じる誰かの体温の暖かさって、どうしてこうまで安心できるんだろうか。たとえ、どんなものを見ていても、どんなことを考えていても、触れ合う肌の熱は暴力的なまでにその全てを押し流してしまう。

 そのまま少し時間が経ってから、美樹さんが身体を離す。

「あっ……」

 感じた物足りなさに思わず声が出て、しまった、と感じた。美樹さんが一瞬だけきょとんとした顔をした直後、いつものにやにや顔に変わる。身体を離したとはいえ、抱きしめるのをやめたと言うだけで、腕はまだ肩に置かれたままだし、真正面には美樹さんの顔がある。間近で目線があってしまう分だけさっきよりも恥ずかしい。

「もっと続けていてほしかった?」

 図星を突かれてしまって、ドキッっと、心臓が躍った。

「かわいいなあ」

 たった一言告げられただけで、よりいっそう恥ずかしい気持ちがこみ上げてくる。顔が熱い。きっと真っ赤になってるんだろう。それを見せたくなくて、僕は顔を伏せる。

「顔を上げて」

 その声を聞いて、数秒の間ためらってから、ようやく僕は顔を上げた。その瞬間、美樹さんの顔が近づいてきて、そのまま、キスされた。くちびるが触れる。柔らかくて温かな感触。数秒間触れあってから、顔が離れる。

 見つめ合う。どうしよう。さっき、全力疾走した後と同じくらい、どきどきしてる。もちろん、人に見つからないかという不安もあったけど、身体の熱さがそれをかき消してしまったかのようで、部屋で撮影していた時に感じていた以上の興奮の方が、何十倍も今の僕をどきどきさせていた。

 でも、よく見ると、それは美樹さんも同じみたいで。いつもよりも顔が赤くて、息も普段より荒い。いつ誰が通りかかるかもわからない廊下の端っこで、しかも片方は女装でメイド服で。そんなおかしな状況で、二人が二人とも、ドキドキしてた。

 階下では演目がいつの間にか始まっていた。人の声による16ビートが、まるで僕の気分を昂ぶらせるための儀式みたいに響いてる。

 物足りなかった。どうしようもなく、もっともっと、美樹さんのくちびるが欲しかった。

「もっとしても、いいですか?」

 美樹さんは、少し目を見開いてから、こくりとうなずいた。

 今度は僕の方から顔を近づける。ゆっくりと顔が近づいていって、そしてようやくくちびるとくちびるがぶつかる。最初は、ふれあうだけ。それを続けているうちに、もっともっと欲しくなって、僕が舌を出して、美樹さんのくちびるをちろちろとなめる。美樹さんが唇を開いて、そしてとうとう舌が絡まりはじめる。抱き合うよりも強い強い感覚が、僕をいっぱいにする。そのまま、自分の格好や、周りのことなんて完全に忘れてしまうくらい夢中で、おそらくは数分の間、僕と美樹さんは、深い深いキスを、延々と交わし続けた。


 ずっと息を止めていたわけじゃないけど、それでもさすがに息が苦しくなって、顔を離す。至近距離で見つめ合う。お互いに、ハアハアと息が切れている。すこし呼吸が落ち着いて、再び口づけようと顔を近づけようとしたところで、突然階下から大きな音が響く。大勢の拍手の音だ。今自分が置かれている状況を思い出した僕たちは急いで身体を離した。

 我に返ってしまうと、こんな状況下でいったいなにをやっていたのかとその場で転げ回りたくて仕方がないけど、それでもとりあえずは現状から抜け出すことが最優先だ。耳をそばだててみると、吹き抜けの下で人の動く気配はまだなくて、イベントにはまだ演目があるみたいだった。全部の出しものが終わってお客さんが部屋に戻り始める前に、部屋まで帰らないと。

「とりあえず、部屋まで戻りましょうか」

 同じことを思ったらしい美樹さんの言葉に、僕はうなずいた。


 エレベータは思ったより近く、僕が駆け込んだ場所の十数メートル先にあって、箱が到着してさえいれば、誰にも見つからずに乗り込むことは簡単そうだった。

 壁から身を乗り出して待っていると、偵察に出た美樹さんが手招きする。エレベータが到着した合図だ。僕は急いで物陰を飛び出して、エレベータへと駆け込んだ。それにぴったりのタイミングで、美樹さんがドアを閉める。

 床へと押し付けられる感覚。途中の階で止まってしまわないかヒヤヒヤしながら階数表示のランプを見つめる。一、二フロア手前で減速を始めて少し怖かったけど、上昇する動きが止まることはなく、無事に目的の階へと到着した。

 僕たちの部屋はエレベータホールの近くにあったから、さっきよりは誰かと出くわす危険は少なかったけど、それでも念のために美樹さんに先導してもらって、それでようやく無事に部屋までたどり着いた。ドアクローザが働くのを待たずにハンドルを引いていち早くドアを閉める。カチャリ、というオートロックの音を聞いて、僕は深い深いため息をついた。

 靴を履き替えないまま部屋の中の方へと歩き、乱さないように気を使いながら、窓際のソファーに腰を掛ける。そしてゆっくりと、背もたれに体を預ける。張りつめていた気分が解けて一気に疲れがわいてきた気分。はぁ、というため息が、ここでもついて出た。

 美樹さんは部屋に帰ってすぐに洗面室へと入っていった。トイレのドアを開ける音はしなかったから、きっと化粧を落とすか直すかしているんじゃないかと思う。

 ベッドの枕元にあるデジタル時計は今が七時の少し前であることを示している。窓の外を見ればすでに真っ暗だ。

 パタパタというスリッパの音と共に、美樹さんが部屋に戻ってきた。僕の方を向いて、ベッドの隅にゆっくりと腰掛ける。どうやら化粧を直す方だったらしい。まあ、まだまだ寝るには早い時間だし、当然か。

「結局、外では写真撮れなかったね」

 そういえば当初の目的はそれだったんだっけ。すっかり忘れてた。

「いいですよそんなの。そもそも、そんなことしてみようと思ったことが間違いだったんですから」

「えーっ……まあ、しょうがないか。怒られなかっただけでも上出来としよう。じゃあさじゃあさ、家に帰ったらテレビにつないで写してみようよ。やっぱ大きな画面で見たほうが楽しいし」

「さすがにそれは勘弁してください……」

 ノリノリで撮影されている自分の姿なんか見てしまったら、その直後に僕たちがなにをしたのかを思い出さずにはいられない。僕が黙り込んだのを見て察してしまったのか、美樹さんも顔を伏せてしまう。

 無事にたどり着けるかどうか緊張していたせいで、さっきまでの興奮はどこかへ飛んでいってしまっている。それなのに、あのときになにをしたかだとか、そのときの感覚とかは今でも鮮明に思い出されて、だからその、正直に言って、かなり気まずい。

「とりあえずさ」

 先に口を開いたのは美樹さんだった。

「少し遅くなっちゃったけど、ご飯食べにいこっか」

「……そうですね」

 おなかもすいたし。とりあえずは、そうしよう

「じゃあ、この服脱ぐの手伝ってもらえますか?」

「えっ」

「えっ、って何ですか、えっ、って! 」

 まさかこの格好のまま、また外へと出すつもりだったのだろうか。

「このままの格好で外に出る訳ないでしょう?それに、もしそんなことしたら、せっかくのメイド服が汚れちゃいますよ」

 僕の言葉に、美樹さんが絶句する。

「どうしたんです?」

「またその服着てくれるの?」

 今度は僕が黙る番だ。僕が考えたのは洗濯とかクリーニングとかが大変だろうなって意味であって、また着るときのことを気にしているとかそういう意味じゃもちろんなくて。

 ないのだけど、あのときの興奮と、夢中になって交わしたキスの感覚も、とてもじゃないけど忘れられそうになくて。

 ああもう、だから期待に満ちた目で僕を見るのをやめてください!

 今回のようなことハプニングは勘弁で、それでも絶対にいやと言い切ることもできなくて。だから僕は無言をもって、その質問に対する答えを保留することにした、とりあえずは。

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Confusion the Waitress sq @squeuei

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