000.2 あおみどろ




 月に……帰ろう。



 カーテンを持ち上げて外を見ると、空には青い月が浮かんでいる。朧模様の雲を透かし、かの衛星の輪郭だけが仄かな青にぼやける。表皮は見えない。だがあそこに僕の帰る場所がある。

 湯で顔を洗い、鏡を見上げる。瞳の中に僕がいる。つめたい顔をした自分自身が。

 僕はジャンバーを着る。遠心力でその裾が真空の刃を生み出し、カーテンレールを切断する。ガシャンと音を立ててベッドに落下したカーテンレールがマットレスを貫通し、ばねを破いて床を突き抜け、マンションの下の階に落下する。カーテンの風圧で部屋中に散らかった本、新聞、時計、サボテン、リモコンや化粧道具が吹き飛び、弾丸のように壁に突き刺さる。いくつかは貫通し、外に飛び出す。僕は玄関へ歩いていく。床がきしみ、僕が二歩目を踏み出す頃には一歩目を踏んだ場所は完全に陥没し、びりびりとおそろしい音を立てて千切れる。ドアを開ける。ノブはティッシュペーパーのようにくしゃくしゃになり、郵便受けはひしゃげ、僕は潰れたドアの隙間をぬって外に出る。走り出す。階段を駆け下りる。低い地鳴りのような音が真夜中の団地に響く。僕はエントランスを真っ直ぐに走り抜け、自動ドアを突き破る。ぶつかった瞬間ガラスは飴細工みたいに歪み、身体の形に湾曲したと思ったら外側に向かって弾け飛んでいった。僕は自転車置き場に直行し、真っ赤な自分の自転車に飛び乗る。鍵を外し、蹴り飛ばしたスタンドが暗い茂みの中に吹き飛んでいく。自転車は滑るように走り出す。

 車通りの少ない国道を、足で漕いでタイヤが回転するよりもずっと速い速度で自転車が突き進んでいく。背後でぶるぶると震えていた団地が、悲鳴のような音を立てて自由落下するみたいに真下に向かって崩れ去る。広範囲に渡って粉塵が散り、コンクリートの破片が思わずブレーキを踏んだ乗用車のボンネットを突き破る。区画を埋め尽くすようにもうもうと立ち上った土煙の向こうに薄っすらと青い月が浮かんでいる風景を僕は思い浮かべる。帰ろう。月へ。

 商店街のアーケード下を走り抜ける。静かで人も車もない。あちこちで閉じているシャッターが風圧でガタガタと音を立て、自転車が去った途端にベリベリと剥がれ飛ぶ。アーケードを支える支柱が絶え間なく振動し、ビニール屋根は順番に吹き飛ばされていく。支柱はやがて土台の土をかき混ぜながら地中に埋もれていき、ビニール屋根のかすった屋台は土壁を突き破られる。直撃を喰らった一軒が倒れ、それに寄りかかるようにもう一軒が倒れ、自転車の進行方向と反対側に将棋倒しに崩れ落ちていく。

 やがて駅前の繁華街に辿り着いた。スクランブル交差点は今まさに赤になり、人波が引きはじめた。歩道にはまだ人がひしめきあっている。僕は人のはけていく交差点の中心で自転車を乗り捨てる。自転車は勢い余って地面を回転しながら滑り、火花を散らしながらガードレールに衝突した。そしてそれを吹き飛ばして丸善のショウウィンドウに飛び込んだ。ガードレールは逆鱗に触れられた竜のように鎌首をもたげ、今にも咆哮しそうな姿勢で雑居ビルに突っ込んでいった。僕は思わず自転車の黒く焦げ付いた軌跡を目で追った。地面は罅割れていた。罅の中心に立っているのは僕だった。

 ゆっくりと車が発進し始める。ごくゆっくりと。世界は空気に片栗粉を溶かしたみたいにごくゆっくりと動いている。

 そこへ、時間を切り裂くヒュンという音がする。ドンと肩を殴られたような感じがして、見るとそこには鋏が刺さっている。図工の時間に使うような普通の鋏が。

 やがてネオン明りに煌めく魚群のようなものが、向こうの高架橋の上から僕に向かって押し寄せてくる。凄まじい速度で。それは流星のようだ、と僕が思った瞬間には身体に凄まじい衝撃を与えて僕に突き刺さっている。安全ピン、シャープペンシル、耳かき、ドライバー、ペンチ、家庭科のあれ、ポールペン、それぐらいまで見た瞬間、目前に何かが――もうぼやけて見える距離じゃなかった――迫り、それは眉間にぶつかると、そのまま僕の脳天を貫通し、後頭部を抜けていった。脳髄を摩擦する細長いものの感覚を実感する前に、僕はもう倒れていた。ビルが高くて月は見えなかった。

 誰かが歩いてくる。粘質の空気の中をたゆたうように近づいてくる。文房具を踏みつける踵の音がする。

 真っ赤な目が僕を覗き込む。真っ赤な目が、僕の眉間に開いた穴から、交差点の地面を覗き見ている。燃えるような瞳が。



 そこで僕は思い出す。こんな片田舎では客は来ないが、僕は深夜バイトの最中だった。もう時間を潰す業務もなくなり、携帯でSNSを見ていた。それを思い出した。いつも意識の多くは無意識の地層で凍っていて、それがいくつあるのか僕自身にも検討が付かない。だが必要があれば僕はいつでもそのうちの一つを思い出すことができる。そうでないときは……眠っているのかもしれない。それは僕にはわからず、おそらく誰にもわからない。

 僕はコンビニの透明なドアの向こうに月を見る。青い光を放つ美しい衛星。帰らなくては……月に。あの海に。帰らなくては。

 僕は携帯を置く。カウンターにびしりと罅が入り、携帯は接触面から突き刺さった。制服のジャケットを脱ぎ捨てる。風圧でスナック菓子やくじの景品が宙を舞い、煙草のケースを突き破り、レジを粉砕する。蛍光灯が割れる。ドアを押すと、一瞬ほどねっとりと歪んですぐにバンと弾けた。僕は郊外の冷たい夜風の中に歩き出す。

 そしてオレンジ色の街灯を見て、あの目を思い出す……真っ赤な目。最後に必ず見るあの顔、あの殺風景な歪んだ表情は何だろう。怒り。憤り。悲しみ。どれも的を得ない。だが僕か、もしくは、僕を透かした向こう側にあるあの月に対する何かだ。それは間違いない。


 でも、あとどのぐらい、歩けばいいのか、それは僕にも……分からない。


 



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