Ⅰ しのぶ
1
「愛弓。武居が来たよ」
愛弓の部屋のドアを開けて愛矢が言った。
勉強机に向かっていた愛弓は、一瞬ぎくりとなって返事を忘れた。
「愛弓?」
「何の用なの」
思わずとげのある言葉が口をついて出た。
「え?」
愛矢は首をかしげた。困惑した表情を浮かべている。
「あ……武居、何の用事で来たのかなって」
愛弓はあわてて取り繕った。
「別に用がなくても、武居はよく遊びに来るじゃないか」
「そうね」
「どうしちゃったの。愛弓、ほんとにこのごろおかしいよ」
「そうね。わたし、このごろおかしいわね」
愛矢は心配そうに愛弓を見た。
「武居と何かあったの? けんかでもしたの?」
愛弓は重々しく息を吐いた。
「わからないのよ」
「わからないって、何が?」
「特に何かあったわけじゃないの。けんかもしてないわ。でも、何だかもやもやして……」
どうも要領を得ない愛弓の返答に、愛矢はもう一度首をかしげるしかなかった。
2
愛弓の様子がおかしいと思っていたのは、愛矢だけではなかった。
「おれ、愛弓を怒らせるようなことしたかな」
階段を降りて来た愛弓を見るなり武居は言った。いつもならすぐ上がって来るのに、今日はまだ靴を履いたままだ。
内心動揺しながらも、愛弓は平静を装った。
「……別に、何も」
「じゃあ、何か悩みでもあるのか?」
「ううん」
「じゃあどうしたんだよ。理由を言ってくれよ」
「わたし、どうもしてないわ」
顔をそむけた愛弓を見て、武居は悲しそうにうつむいた。沈黙が続く。愛弓は階段の途中に、武居は玄関のたたきに立ち尽くし、お互いにそれ以上近付こうとしない。
「おれ、嫌われちゃったみたいだね」
やがてぽつりと武居は言い、ドアから出て行こうとした。
「違うの」
愛弓は思わず呼び止めた。急いで残りの階段を駆け降り、武居のシャツをつかむ。けれどそこでまた、言葉に詰まってしまった。
武居がじっと見つめ返して来た。優しい目で、うながすように。
「あ、あのね……」
「うん」
愛弓は目を閉じ、思い切って聞いた。
「シノブって、誰?」
一瞬、何のことかわからなかったらしく、武居は目をしばたたかせた。
「シノブ? え……それって、
愛弓は武居の顔を見ていられず、下を向いた。
「この間武居のクラスに行った時、友達とその人の話をしてるの、聞いちゃったの」
「ああ、コンサートの話?」
胸が痛んだ。武居がまったく悪びれないことが、よけいにつらかった。けれど、ちゃんと確かめなければいけない。武居の気持ちを――これからどうするべきなのかを。
「コンサート、行くの?」
震える声で、愛弓は聞いた。
「うん……」
まだ話の内容が把握出来ない様子で武居は答えた。
「愛弓も一緒に行く?」
「行かないわよ!」
思わず強く言ってしまい、愛弓は下を向いて口ごもった。
「だって、その……じゃましちゃ悪いし」
武居は目を丸くしていた。
「じゃまなんてことないよ。何でそんな」
「だって武居、その人のこと好きなんでしょ?」
「うん」
「即答したわね」
「ずっと前からね、もう八年も前からずっと好きなんだ。今回この町に来るって聞いた時は感激だったよ」
――そんなに前から? わたしと会う前から?
「じゃあ、武居はどういうつもりでわたしと付き合ってるの?」
「え?」
「二股掛けるつもり?」
「何言ってるんだよ。相手はアイドルだよ」
「アイドル?」
「好きって言うのはファンだってことだよ」
「ファン?」
今度は愛弓は目を丸くする番だった。
「愛弓?」
「……今城しのぶって、アイドルなの?」
「歌手だよ。今度コンサートでこの町に来るんだ」
「歌手……」
つまりは愛弓の勘違いだったのだ。武居は今城しのぶとコンサートに行くのではなく、今城しのぶのコンサートに行く話をしていたのだ。愛弓は思わず脱力してしまった。
「ごめんなさい。わたし、てっきり……武居が浮気してるんだとばかり……」
「浮気って……」
「今城しのぶが歌手だなんて思わなかったのよ」
「それで怒ってたの?」
怒っていたわけではない。やきもちをやいていたのだ。武居が夢中になっている女の子に。
「そっか。何だ、そんなことだったのか」
「何だじゃないわよ。そんなことでもないわ」
「あはは、ごめん。だっておれ、愛弓に嫌われたんだと思ってたから」
「わたしだって、武居はもうわたしのこと好きじゃないんだって思ったのよ」
「ごめん」
「わたしこそ、ごめんね」
二人は見つめ合った。何だか照れくさいような、くすぐったいような気がした。
「あーあ、わたしったら、一人でうじうじ悩んだりして、ばかみたい」
武居は何も言わずに愛弓の手を握った。
「武居」
愛弓は真っ赤になった。
「不安にさせてごめんな」
真剣な表情で言ってから、武居は優しく微笑んだ。
「良かった……愛弓に嫌われたんじゃなくて」
武居のその言葉に、愛弓は胸が熱くなった。武居が他の女の子を好きになったのだったらどうしよう、彼と別れることになったらどうしようと悩んでいた自分が、本当にばかみたいに思えた。
3
「イマシロシノブ?」
古藤は肥料を抱えたまま首をひねった。
「そういう名前の花は聞いたことないなあ」
「花の名前じゃありません。人の名前です。歌手の今城しのぶ」
訂正しながら、愛弓は武居に話を聞いた日のことを思い出して赤面した。――晴樹と八重子は留守だったから良かったけれど、あの時の会話は愛矢には筒抜けだったのだ。ああ、恥ずかしい。玄関先なんかで話すんじゃなかった。
「何だ、歌手か。おれはそういったものにまるで興味がなくてね」
冷めた口調で言い、古藤は愛弓に背を向けてしまった。
「知ってますよ。部長には縁がない世界だってことくらい、よーくわかってます」
武居だって、と愛弓は小さく付け加えた。
「あんまりそういうのに興味なさそうだと思ってたんだけど」
「武居が何だって?」
古藤は肥料を地面に置き、シャツの袖をまくり直した。
「ファンなんですって、その歌手の」
「へえ」
「今城しのぶ、二十六歳。山羊座のB型。九年前、十七歳の時にデビュー。四月十九日からこの町に来るそうです。コンサートのために」
「よく調べたなあ、あの武居が」
「それで今度の土曜日、一緒に行かないかって」
「今度の土曜日っていうと、二十一日か」
「そうなりますね」
愛弓は忙しく動いている古藤の手を眺めた。咲いたばかりのチューリップの世話をしているその手は、花のため以外には動きそうもない。
「やっぱり、部長は行きませんね」
「誘いに来たんじゃないのか?」
立ち去ろうとする愛弓を、古藤は意外にも呼び止めた。
「行くよ」
4
――四月二十日。
いよいよ明日はコンサートへ行く日だ。愛弓と武居、愛矢と古藤のダブルデート。みんな揃って出掛けるのは初めてなので、愛弓は浮かれていた。
スキップしながら帰宅すると、家の中は打って変わって暗い雰囲気だった。
「どうしたの?」
愛弓はテーブルに肘を突いて考え込んでいる晴樹に尋ねた。
「火事があったんだよ」
重々しく晴樹は答えた。
「二日連続だ。放火じゃないかって噂もあってね」
「放火?」
「今日被害に遭った人の中に母さんの知り合いがいて、母さんは手伝いに行ってる」
晴樹の横で、愛矢もため息をついた。
最近平和だったのに、また事件か、と愛弓は思った。けれど、この時は翌日のコンサートに気を取られていたし、それにいくら何でもこういう事件に自分たちがしゃしゃり出るわけにはいかないので、深くは考えなかった。そう――この事件が、いずれ自分の周囲に影響を及ぼすことになるとは、この時の愛弓には想像も出来なかったのだ。
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