Ⅱ 拉致

 1


 愛矢と愛弓は時間ぎりぎりまで待ったが、結局、武居は来なかった。

「寝坊でもしたのかしら、武居ったら」

「急に体調が悪くなったのかもしれないよ」

 遅刻するわけにもいかないので、二人はあきらめて登校した。念のため、周りに充分注意して、人通りの多い道を選んで歩いて来た。

「誰も現れなかったわね」

 校門に着いたところで足を止めて、愛弓が言った。

「やっぱり思い過ごしだったのよ。ね、愛矢」

「……うん」

 愛矢はまだ来た道の方を気にしていたが、愛弓にうながされ、そのまま校舎に向かって歩き出した。

 愛弓はまず、武居のクラスを覗いてみた。

「やっぱり、武居は来てないみたい。あとで家に行ってみようよ」

 愛矢は黙ってうなずいた。


 2


 愛弓たちは帰りに直接武居を見舞うことにした。家から行くより、学校からの方が武居の家に近いのだ。

「行く前に電話した方が良かったかな」

「いいわよ、直接会って様子が見たいし。あ、あそこよ」

 愛弓が指差した家は、玄関が道路に面していた。

 愛矢は大金から逃げていて、ここで武居と顔を合わせた時のことを思い出した。

 また、それとは別の記憶もよみがえった。

 表札が夏の日差しを浴びている。玄関の前の石畳を歩いていると、額に汗が浮かんだ。繰り返している、と愛矢は思った。さっき愛弓が「帰りに武居の家に寄ろう」と言った時から、かすかに感じていたのだ。

 愛矢はインターホンに手を伸ばす愛弓の後ろ姿を見つめた。これは武居だ。そして、中からドアを開けたのは愛矢だった――一年前は。

 チャイムが鳴ると、武居の母親が「はいはい」と言って出て来た。明るく気さくなお母さんだ。

「あら、愛弓ちゃん、どうしたの?」

「こんにちは。あの、今日優介くん、来なかったから。具合でも悪いのかと思って」

「え? 優介なら学校に行ったわよ。それもすごく早い時間に」

 愛弓は一瞬、理解出来ずにぼうっとした。それからすぐ、血の気が引いた。

 何も言えずにいる愛弓の代わりに、愛矢が一歩前に出た。

「やっぱり、武居、間違えたんだよ」

 愛弓がえ? と愛矢を見る。

「実は、学校の花壇を荒らした人がいて、また来るかもしれないから見張ってようってことになったんです。午後三時にって言っておいたのに、時間を聞き間違えたんだね、武居ったら」

「まあ、ごめんなさいね。あの子、そそっかしくて」 

 武居の母親は愛矢の話を疑う風もなく笑った。

「今ごろ勘違いに気付いて学校で待ってるかも。行ってみよう。ねっ、愛弓」

 愛矢は青ざめた愛弓を見やり、すぐまた武居の母親に目を戻した。

「それで、今日は遅くなるかもしれないけど、心配しないでくださいね」

「ええ、優介の帰りが遅いのはよくあることですから。でも気を付けてね、なるべく早く帰るのよ」

「はい、大丈夫です」

 武居の母親が軽く頭を下げ、ドアを閉める。

 愛矢は愛弓の手を引いて歩き出した。つんのめって付いて行きながら、愛弓は愛矢の背中に聞いた。

「どこに行くの? 学校? ねえ愛矢、どこに……」

 愛矢は低い声で答えた。

「古藤先輩の家」


 3


 愛矢は古藤の家の呼び鈴を鳴らし、少し間を置いてまた鳴らした。

 古藤の両親は共働きで、二人共夜遅くなるまで帰って来ない。それどころか、何日も帰らないことさえざらにあるという話だ。もっとも、古藤がそう言っていただけで、本当かどうかはわからない。愛矢も愛弓も、古藤の両親を見たことがないのだ。

「愛矢か。何だ、こんな時間に」

 今日も家にいるのは古藤一人だったらしく、開いたドアの向こうに現れたのは彼の不機嫌な顔だった。

「武居が大金に連れて行かれたんだ」

 愛矢は前置きなしに告げた。

「何だって?」

 束の間わけがわからないと言うように眉を寄せてから、古藤もさすがに少し顔色を変えた。

「戻って来たのか、あいつ。そう簡単に戻って来られないように、うんと遠くへ飛ばしたのに」

 古藤のつぶやきに反応したのは愛弓だった。うつむいていた青い顔を上げ、古藤に詰め寄った。

「あの人たち、警察に突き出したんじゃなかったんですか?」

「うん? おれがそんなことを言ったか?」

「もう大丈夫って言ったじゃない」

「当分の間は大丈夫と思ったんだ。ろくに金もなく、どこかもわからない見知らぬ異国をうろうろする羽目になったろうし」

「何てことしてくれたの? それを恨んで復讐に来たのよ。部長のせいだわ」

「命の危険がある場所へは送らなかったよ」

「そういう問題じゃないでしょう!」

「花たちの仕返しをしただけなんだが……しつこい奴だな」

 古藤は髪をかき上げて愛矢を見た。

「確かに大金なのか?」

「犯人は去年起きたことを再現してる。武居の家の前で事故を起こし、花壇を荒らして、そして、武居を連れ去った。大金以外に考えられない」

 愛矢は壊れた腕時計を古藤に差し出した。

「それは?」

「ここに来る途中、武居の通学路に落ちてるのを見つけたんだ」

「武居のか?」

 古藤は受け取って文字盤を見た。

 針は動いていなかった。七時二十分を指して止まっている。ガラスの部分には刃物で傷付けたように、文字が刻まれていた。

「何だ、これは……才?」

「オオガネ。全部片仮名だよ」

「ああ」

 古藤はしばらくじっとその傷を眺めていたが、「何かこわいな」とつぶやき、腕時計を愛矢に返した。

「で、今度は何で武居なんだ」

「愛弓はもう連れて行けないと思ったんだろう。実際、警戒してたし。……もっと気を付けていれば良かった」

 愛矢は悔しそうに言った。

「まんまと敵の手に落ちたのは、武居の注意が足りなかったせいだろう。……まったく。おれはこれから行くところがあったのに。着替えて来るから待ってな」

「部長、一緒に行ってくれるの?」

 愛弓はびっくりして聞き返した。

「何だ、その意外そうな言い方は」

「だって、これから行こうとしてたのって学校でしょ? 部長のことだから、武居は警察にまかせればいい、花壇を元に戻す方が大事だって言うかと思ったわ」

「花のかたきを討つために行くんだ」

 古藤はそう言ったが、一年前の古藤ならそんなことは言わなかっただろうと愛矢は思った。


 4


 三分ほどで、古藤が着替えて来たのはフード付きの黒いトレーナーだった。揃いのズボンに靴も真っ黒で、上から下まで黒づくめだ。

「まるで泥棒みたいな格好ですね」

 愛弓は古藤の装いを呆れ返って見つめた。

「そんな服で行くんですか?」

 闇にまぎれるためだ、と古藤は主張した。

「去年と同じなら、大金はあの空き地にいるんだろ。あそこは愛矢が破壊して、何も残ってないはずだ。隠れ蓑がない。出来れば覆面も欲しいところなんだが……」

「それじゃ強盗ですよ」

 古藤につっこみを入れてから、愛弓は愛矢と顔を見合わせた。

「やっぱり堂々と助けてくれる気はないのね」

「そこはゆずれないんだな」

「さあ、行こう。空き地の上空までひとっ飛びだ」

 鬼退治にでも行くように、意気揚々と古藤は言った。

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