Ⅳ ずっと前からのファン

 1


 愛矢は武居のクラスに行き、簡潔に用件を告げた。

「しのぶさんに会って欲しいんだ」

「え……」

 束の間、武居は絶句した。椅子に座ったまま、正面に立った愛矢をびっくりした目で見上げている。

「しのぶさんって……」

「今城しのぶさん」

 武居は広げていた本を閉じ、身を乗り出した。

「それ、どういうこと?」

 武居のまっすぐなまなざしに、愛矢はほんの少し躊躇した。やっぱり、武居にこんなことを頼むべきではないのかもしれない。

「ごめん。わけは言えない。とにかくあの人のファンとして、しのぶさんに会ってくれないかな」

 事情を話して、武居まで巻き込んでしまうようなことは避けたかった。

「そりゃあ、ファンとしてそんな嬉しいことはないけど」

 それ以上聞くまいと思ったように、武居は微笑んだ。

「いいよ。いつ?」

「出来れば今すぐ」

「今すぐ?」

 愛矢はうつむいた。

「――彼女が何をするかわからないのに、武居と会わせるわけにはいかない。そう思ってたんだけど、もう……わたし一人じゃ、どうすればいいのかわからなくて……」

「それだよ、愛矢。愛矢は一人で抱え込み過ぎるんだ」

 武居は机の上に置かれた愛矢の手を、優しく握った。

「おれたちは友達だろう? 何でも話してよ。いつでも力になるから」

「ありがとう、武居」


 2


 愛矢は武居を伴って、しのぶの泊まるホテルまで行った。

「こんなところに入っていいの?」

 武居が心配そうに尋ねた。

「そもそも、入ろうとして入れる場所じゃないよね」

 愛矢は誰もいない廊下を進み、鍵など掛かっていないかのように、しのぶの部屋のドアを難なく開けた。

「もしかして、部……」

「それは口にしないで。怒られるから」

「……わかった」

「手段を選んではいられないんだ」

 武居に聞こえない声で、愛矢はつぶやいた。わたしにはもう、どうしていいかわからない。でも、武居なら。長い間、彼女のファンだった、武居なら。

 部屋の中は無人だった。愛矢と武居は一旦外に出て、ラウンジのソファーに座って待った。もうコンサートは終わっているはずだ。

「ちょっと様子を見て来る」

 愛矢は立ち上がってしのぶの部屋のドアの前まで行った。中から人の声が聞こえる。しのぶの声だ。いつの間に帰って来たのだろう?

 聞こえるのはしのぶの声だけだった。電話で話しているのだろうか。「うるさいわね」「ほっといてよ」などと、いらだたしげに怒鳴っているようだ。

 一瞬、このまま引き返した方がいいんじゃないかと愛矢は思った。彼女の精神状態は不安定だ。今刺激したら、大変なことになるかもしれない。

 そのうちに、怒鳴り声は止んだ。次に聞こえて来たのはすすり泣きの声だった。

 愛矢は意を決してノブをつかんだ。

 しのぶはベッドに身を投げ出して泣いていた。愛矢がドアを開けたのと、彼女が顔を上げたのは、ほとんど同時だった。

「またあなたなのね」

 驚くよりも、うんざりした様子でしのぶは言った。声がかすれている。

「今日はあなたのファンを連れて来たんだ」

「まだそんなこと言ってるの。何を言われたって、わたしの気は変わらないわ。さっさと警察に引き渡せばいい」

 愛矢は黙り込んだ。それから、武居のいるラウンジへ引き返した。

「武居。来て」

「どうしたの」

「お願い、しのぶさんを思いとどまらせて」

「何のこと?」

 武居は床に目を落として息を呑んだ。

「煙が……」

「しのぶさん!」

 愛矢はぱっと振り返った。

 しのぶがライターを持って、後ろに立っていた。

「本当にわたしのファンだって言うんなら、道連れにしてあげる」

「しのぶさん、あなたは……」

 震える声で愛矢は聞いた。

「あなたは死ぬ気なのか」

「そうよ。わたしはもう、生きていたって仕方がないの」

 しのぶは再びライターの火をつけ、床に落とした。

「わたしには歌が全てだったんだもの。わたしの歌を聴いて、ファンの人たちが喜んでくれる……それがわたしの生き甲斐だったんだもの。誰も聴いてくれる人がいないのに、歌ったって仕方ない。歌えないなら、生きてたって仕方ない」

 ピンクの絨毯に炎が燃え広がり、しのぶの顔を照らした。愛矢の後ろで、武居が立ち上がったのがわかった。

「しのぶさん……」

「武居。逃げて。火が回らないうちに」

 小さく咳込んでから、武居は手を伸ばした。

「しのぶさんも……」

 煙に目をやられたのか、彼は前が見えないようだった。手探りで、しのぶのいる位置を確かめようとしている。

「生きて下さい。おれはあなたの歌が好きです」

 しのぶは呆然と武居を見つめた。視線が定まっていない。夢を見ているような目付きだ。

 武居は言葉を継いだ。

「初めてしのぶさんの歌を聞いたのは、小学校に上がる前だから……もう八年経つのかな」

「八年前……」

 うわごとのように、しのぶがつぶやく。

「わたしはまだ、十代だった……。たまたま主題歌を歌った映画が大ヒットして……」

「映画は知らないけど、歌が好きだったんです。『アイリス』っていう」

 炎は床を這い、煙は壁を伝って天井に上った。まるでわたしたちを避けているみたいだ、と愛矢は思った。

「おれはちょうど怪我で入院していた時で、手術も、リハビリも、毎日がつらくて、死んでしまいたいって何度も思った。そんな時にしのぶさんの歌を聴いて、励ましてもらったんです。しのぶさんの歌は、おれに勇気を与えてくれた。おれに生きる力を与えてくれたんだ。だから、あなたも生きて下さい」

 それで、と言って、彼は少し照れたように笑った。

「出来れば一度、握手してもらえたら嬉しいんですけど」

「わたしは……」

 しのぶは泣きながら、わずかに手を差し出し、武居に触れようとした。武居がよろめき、その手は触れずに宙を泳いだ。

 愛矢は倒れ込んだ武居を抱えてしのぶを見た。

「早く出るんだ!」

 愛矢の声に呼応するように、三人の体がその場から消えた。


 3


 気が付くと、そこはホテルの近くの公園だった。

「ここは……」

 言い掛けて、愛矢は口をつぐんだ。しのぶがそばに立っていたからだ。

「あなたがやったの?」と、彼女は聞いた。

 古藤との約束だったので、愛矢はうなずいた。

 サイレンの音が近付いて来る。古藤が呼んだのだろうか。愛矢は目を閉じたままの武居を見下ろした。

「その子、大丈夫?」

「うん……気を失ってるだけだ」

「わたし、もう行かなくちゃ」

 しのぶがゆっくりと立ち上がった。

「しのぶさん……」

「その子の目が覚めたら伝えてくれる?」

 愛矢に抱えられている武居を見ながら、彼女は言った。

「戻って来たら、罪を償って戻って来たら、その時に、握手してあげるって。今のわたしには、そんな資格ないから……。きっと戻って来るから、その時に……。そう、伝えてくれる?」

「伝えるよ、必ず」

「約束よ」

「しのぶさん……!」

 愛矢は目に涙を浮かべて、しのぶの後ろ姿を見送った。


 4


 ――五月五日。今日は愛弓が企画した、武居と古藤の誕生会だ。

 初めは武居だけのつもりだったが、古藤の誕生日が四月七日だと晴樹に聞いて、それならついでに祝ってやろうということになったのだ。

「何だ、この部屋は」

 めいっぱい飾り付けしたリビングに一歩入るなり、古藤が呆れた声を出した。

「誕生会だよ、先輩と武居の」と愛矢。

「この間、ダブルデートしそこなったでしょ。今日は埋め合わせのダブル誕生会ってわけ」と愛弓。

 何も知らされていなかった古藤は、二人の言葉に目を丸くしている。

「おれの誕生日はひと月も前だぞ」

「いいじゃないか、近いんだし」と愛矢。

「二十八日が近いと言えるのか?」

「もっと早く教えてくれてれば良かったのよ。そしたら、ちゃんと当日に祝ってあげたわよ」と愛弓。

「別に祝ってもらわなくてもいいんだけどな」

 古藤はあまり気乗りしない様子だったが、愛矢の用意したプレゼントを見ると、ころっと機嫌が良くなった。

「花の種、いろいろ買ったんだ。先輩、夏の花が欲しいって言ってたでしょう」

 愛矢は包みの中身を一つ一つ説明した。

 古藤は目の色を変え、早速蒔こうと言い出した。

「武居、遅いわね」

 愛弓が心配そうに言った。

「また風邪でも引いたかな」

 愛弓に睨み付けられて古藤が黙った時、玄関のチャイムが鳴った。

「遅くなってごめん」

「誕生日おめでとう、武居」

「ありがとう」

 愛弓にプレゼントを差し出され、笑顔で受け取る武居。すっかり二人の世界だ。

 愛矢と古藤は気を利かせて席を外した。

「今度の事件では、色々ありがとう」

 愛矢が言うと、古藤はわざとらしく首をかしげた。

「色々? おれは何もしてないぞ。全部愛矢がやったんだろ」

 確かに、そういう約束で助けてもらったのだ。

「五月の誕生花はすずらんなんだよな」

 話題を変えるように古藤が言った。

「へえ。……先輩は何の花が一番好き?」

「おれは花はみんな好きだ」

 思ったとおりの答えで、愛矢は何だかおかしくなった。

「愛矢は?」

「わたしは……」

 愛矢はそっと、古藤を見上げた。

「……わたしの一番好きな花は……」

「愛矢ー! どこ行ったのー? ケーキ食べよー!」

 愛弓の呼ぶ声がする。

 ドアの方に目をやりながら、古藤が笑った。

「二人の世界は終わったようだな」

 愛矢もつられて笑うと、愛弓に向かって叫び返した。

「今行くー!」

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