Ⅲ ロミオとジュリエット

 1


「ああ、もうだめ」

 息が切れて、愛弓は足を止めた。

 講堂の裏である人物を見掛け、様子が気になって追って来たものの、やっぱりやめるべきだったかと少し後悔していた。

 ひざに手を置き、呼吸を整える。

 ――今、何時だろう。もうすぐ出番だ。戻らなくちゃ。

 そう思った時、近くですすり泣く声が聞こえた。

 愛弓は辺りを見回した。すぐ先の木の陰に誰かいる。女の子だ。

「あなた、さっき講堂の裏にいた……」

 声を掛けると、彼女はもう逃げず、涙に濡れた顔を愛弓に向けた。

「あなた、二組の相原あいはら和菓子さんね。昨日、白雪姫の劇で魔女の役をやってた……」

 和菓子はうなずいた。

「どうして泣いてるの?」

「……」

「もしかして、講堂を荒らしたのは……」

「わたしよ」

 しゃくりあげながら、和菓子は答えた。愛弓は息を詰めた。

「どうしてそんなこと」

「さがしてるものがあったの」

 少し落ち着いたらしく、和菓子はかすれた声で話し出した。

「指輪、なの。大事な指輪なの。彼がくれたの。金色で、内側にダブリューのイニシャルが入ってて……。うっかりはずし忘れて学校まで着けて来ちゃって、劇の小道具を整理してる時に気付いて制服のポケットに入れたんだけど、家に帰ったらなかった。あの日は学校中走り回ってたから、どこで落としたのかさっぱりわかんない」

「それで、衣装や小道具をかき回したのね」

「ごめんなさい」

「指輪は見つかったの?」

「ううん。結局見つからなかった。もう、捨てられちゃったのかも」

 和菓子は顔を覆っていよいよ激しく泣き出した。

「泣かないで。わたしもさがしてあげるから。きっと見つかるわよ」

 愛弓はなぐさめるように和菓子の肩をなでた。

「ポケットに入れようとした時に落とした可能性が一番高いんじゃない?」

「わたしもそう思ったから、講堂をさがしてたんだけど……」

「じゃあもう一度、講堂をさがしてみましょうよ」

「でも……」

 駆け出そうとする愛弓に、和菓子はおずおずと言った。

「講堂では、これから劇が……」

 愛弓ははっとして口を押さえた。これからの劇には、愛弓が出るのだ。

 気付いた時はもう遅かった。ほんの数秒後に、開演のベルが鳴り響いたのである。

 ――行かなくちゃ!

 愛弓は再び走り出そうとしたが、一旦立ち止まって和菓子を見た。

「わたし、三組の笛吹愛弓よ。待っててくれる? わたしこれから、劇に出なくちゃならないの」

 和菓子は黙ってうなずいた。


 2


 愛弓が講堂に駆け付けた時、劇はちょうど第一幕を終えたところだった。

「愛弓!」

 武居が幕の陰から飛び出して来た。

「武居、ごめん、わたし……」

「何してたんだ、心配したんだぞ」

「ごめん……」

 ただただ謝るしかない愛弓であった。

「代役立てたの?」

 愛弓は少しがっかりして聞いた。自分が悪いとはいえ、あんなに頑張って練習したのに、本番に出られなかったのでは台無しだ。

「代役は立ててないよ。愛弓がいない間だけちょっと出てもらったけど。愛弓が出られるなら、すぐにでも交代してよ」

「でも、ジュリエットが途中から変わったら、変でしょう。見ている人が混乱するわ」

「そんなことはないと思うよ」

 その時、舞台からジュリエットが戻って来た。その顔を見て、愛弓は目を見張った。

「愛矢!」

「愛弓。良かった、どこ行ってたの」

 ジュリエットのかつらをはずしながら、愛矢は愛弓に駆け寄った。

「愛矢が、わたしの代役をしてくれてたの?」

「うん」

「だって、愛矢」

 舞台に立つのは嫌だって言ってたのに……。

「ごめんね」

「ううん。でも、戻って来てくれて良かったよ。いつ間違えるか気が気じゃなかったんだ。わたし、お芝居下手だし」

「そうでもないよ、うまいもんだった」

 武居が横からフォローした。

「でもやっぱり、ジュリエットは愛弓じゃなきゃね。急いで服を替えよう」

 愛矢の言葉に愛弓もうなずき、二人は楽屋に駆け込んだ。


 3


 第二幕の幕が上がった。

 劇は順調に進んだ。愛弓はせりふを間違うこともなく堂々とジュリエットをこなし、あっという間に二幕目も終わりに近付いた。

 幕が閉じようとしている時だった。愛弓は幕と一緒に上から降りて来る、ある物に気が付いた。

 ――指輪だ。愛弓は手を伸ばして受け取った。内側にイニシャル。W。和菓子の指輪だ。こんなところにあったのだ。でも、なぜ今落ちて来たのだろう?

 舞台の袖に戻ると、愛弓は愛矢に声を掛けた。

「愛矢、お願い、和菓子さんを呼んで来て!」

「和菓子?」

 愛矢は怪訝そうな顔をした。

「中庭にいるの。行けば向こうで気付くと思うわ」

 愛矢がうなずいたのを確認し、愛弓は衣装を替えるために楽屋へ急いだ。


 4


「おかしいな、部長、戻って来てないみたいだ」

 劇を終えて舞台の袖に戻った時、武居が言った。

「愛弓をさがしに行ったはずなんだけどなあ」

 愛弓は武居の言葉を無視し、講堂の外に出た。愛矢が和菓子を連れて来ていた。

 愛弓が指輪を差し出すと、和菓子は目を見開いた。

「これ……どこにあったの?」

 愛弓は軽く首をかしげた。

「よくわからないわ。でも、見つかったんだからいいじゃない」

 和菓子は嬉しそうに笑ってうなずいた。

「ありがとう、愛弓さん」

 そして、少しためらってからつぶやいた。

「わたしのしたことが騒ぎになってるの、知ってたんだ」

 彼女の目が愛矢をちらっとうかがった。

「あんた、小野尾くんと話してたでしょ。その時、見てたから」

「ああ……」

 そうか、あなただったんだね、と愛矢は言った。

「わたしが彼と付き合ってることは誰も知らないの。だから、他の人に話すわけにはいかなくて」

「誰も知らないって、どうして? 内緒で付き合ってるってこと?」

 愛弓の問いに、和菓子はうなずいた。

「そう、内緒なんだ。うちの家族と彼の家族は仲が悪いの。うちが和菓子屋で、彼んちが洋菓子屋だからね。もし彼との関係を知られたら、きっとすっごく怒られる。引き離されるかもしれない」

「そんな……」

 それでは本物のロミオとジュリエットではないか。

「このままずっと秘密にして行くの?」

 愛弓は声を殺して尋ねた。

「これからのことは……わかんない」

「おかしいわ。家族の仲が悪くたって、あなたとその人は好き合ってるんでしょう。それを隠してこそこそしているなんて変よ」

「愛弓」

 愛矢が何か言いたそうに声を掛ける。愛矢も秘密を持っているから、和菓子の気持ちはよくわかるのだろう。隠さなければならないつらさも。だけど……。

「わたしだったら、そんなの嫌。好きな人と好きな時に会えないなんて耐えられない。反対されたっていいじゃない。引き離されそうになったら、わたしは二人で逃げるわ」

「愛弓……」

「愛矢だってそうするでしょう?」

 肩に掛けられた愛矢の手を振り払って、愛弓は言い募った。

「好きな人とはいつも一緒にいたいわよね?」

「うん……でも」

 愛矢は困っていたが、やがて表情を引きしめ、強いまなざしで前を見据えた。

「わたしは逃げない。二人で戦うよ」

 愛弓は思わず愛矢を凝視した。いかにも愛矢らしい言葉だと思った。

 二人は和菓子に目を向けた。和菓子は黙って泣いていたが、やがて顔を上げると言った。

「わたしも、戦いたい」

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