本当の言葉

 達磨になってしまった機体の中で、カズキは絶望に囚われていた。

 怒りが、激情が獣のような呻きへとなり、機内で反射していた。人間らしい思考など、もう無い。

 ただただ本能に身を任せた狂犬のように、無くなった手足を振り回しているばかりだった。

 次第にエネルギーも尽きていく。

 イブは散々暴れまわり、突然ヒモが切れたように動かなくなる。駆動限界時間を超過したのだ。

 それでもカズキは暴れていた。

 コックピットから這いずり出る。

 あちこちから出血し、手足や肋骨を酷く骨折している。

 イブは設計上、コックピット内に衝撃が伝わらないように作られている。そうしなければ敵の攻撃どころか、イブが移動するだけで命に関わるからだ。

 つまり、あの女はイブを開発した研究者の想定の、何倍もの力も持っているということになる。

 第一人型ヴィクターと比較にならないほどの怪物。更にはヴィクターの群れ。

 全てがイレギュラー。

 警察の有する現状戦力では太刀打ちできないほどに、この攻勢は激しく、奴らが本格的に動き出したことを意味していた。

 それでもカズキはヴィクターの群れの中へと向かっていく。

 死んでも殺す。

 それが今の彼を支える、唯一の目的だったからだ。

「ゴホ––––」

 食道から迫り上がるものを感じ、思わず吐き出す。赤い赤い血の塊だった。

 もしかすれば肋骨が内臓を損傷しているのかもしれない。

 カズキは止まらない。

 痛みは感じなかった。

 感じる余裕すらなかった。

 ただ前へ。

 這いつくばり、頭を地に押し付けながら、ただ前へ。

 世界がモノクロになっていく。

 たった一メートル先が、なんと遠いのだろう。

 永遠に近づけない気がする。ズリ、ズリという布の擦れる音だけが虚しくこだましていた。

 カズキは黒い感情に飲み込まれゆく意識の片隅で、いつか見た夢を思い出していた。

 あれは、夜間訓練で仮眠を取った時のことだったか。

 その時も、夢の中で歩き続けるけれど、見えているはずのゴールにいつまでたっても辿り着くことができなかった。

 それでも、周りには仲間がいた。

 あの時の幸福さが蘇る。

 ガサツだけど熱くて、気の良い石原。

 引っ込み思案だけど、優しい心を持った小倉。

 姉御肌で快活で、芯の強い柊。

 それから。

 ズリ、ズリ、ズリ。

 カズキは少しずつ前へ進んでいく。

 後ろは振り返らない。辛いことが多すぎるから。

 立ち止まらない。思考が押し寄せて、心を押し潰されるから。

 何も考えず、前に進んでいくしかない。もうそれしか道が残されていなかったのだ。

 死ぬ為に生きていく。

 誰だってそうだ。

 父と母から産まれて、多くの仲間と生きて、そして一人で死んでいく。

 ならば、生きることとは死ぬことではないのか。

 死は平等に訪れる。

 だから。

 奴らにも、平等に与えなければならない。

 急激に寒さを感じ始めた。

 朝から肌寒いのは感じていたが、これほどまでの寒気は初めてだった。

 次第に焦点もぼやけてくる。

 奴の姿も二重、三重になっていく。

 それでも前へ。

 幻覚が見える。

 凄惨な戦場を、一人の女が歩いてくる。

 見たことのある女だった。けれど、それは有り得ない。彼女は歩けないのだ。カズキが守ることのできなかった彼女は、足を失っているのだから。

 だんだんと女がカズキに近づいてくる。

 右足には、黒い何かがまとわりついていた。

 それも見たことがあった。

 奴らの表層に、あるいはあの女の体内から吹き出すあの黒い金属。

 彼女はそれを右足の代わりにして、こちらに歩いてくるのだった。

 なんて幻覚なんだろう。

「森田くん」

 幻覚が話しかけてくる。

 ああ、もう末期なんだな。

 カズキは自然と察した。

「––––––––––––」

 何かを言おうと思うのだけれど、言葉にならない。獣の唸りだけが喉から溢れ出ていく。

「森田くん。私は、もう人間じゃ無くなっちゃったの」

 この世に死神がいるとすれば、きっとこんなに美しいのだろう。

 北欧神話のヴァルキリーのように、死にゆく人間を死後の世界へと導いていくのだろう。

「森田くん。私、もう仲間を失いたくないよ。だから、私は逃げない。私のできる精一杯を、貴方に託す」

「––––––––––––––––」

「だから」

 死神が手を差し出す。

 ああ、これで公平の元に行けるのか。

 約束を果たせなかったけれど、柊は許してくれるだろうか。

「カズキ」

 唇に、熱いものを感じた。

 その熱は全身を駆け回っていく。

 手に、足に、身体中に感覚が蘇る。世界が色彩を取り戻していく。心臓の鼓動が聞こえる。

 黒いモヤが晴れていく。

 思考が、戻ってくる。

 気がつくと、柊の顔が目の前にあった。

「柊、どうして……?」

 言葉が出ていく。確かに、カズキの言葉だった。

「人間じゃ無くなったって、何を……? その足は、一体……?」

「分からない。けど、私はヴィクターになってしまった。君の憎む、ヴィクターに」

「な……!」

「殺したいのは分かる。でも今は、私の言うことを聞いてほしい。そうしなければ、ここは、日本は終わってしまう」

 嘘だ。

「ヴィクターには血液を操る力がある。その血液には生体金属が含まれていて、それを自在に操ることであれだけの力を出すことができるの」

 嘘だ。

 柊がヴィクターなんて。

 嘘だ。

「今から、貴方に新しい力を託す。それは、あの女のように全身を包む鎧。あれ程までに大きなものはできないけど、それでも強力な力になることは間違いない」

 嘘だ。

 有り得ない。

 嘘だ。

 だったら、この憎しみを、どうすればいい。

 嘘だ。

 柊を殺すなんて、そんなこと。

「嘘だ」

「カズキッ!」

「嘘だ、柊がヴィクターなんて、そんなの有り得ない。だって、俺たちは一緒に厳しい訓練を乗り越えて、飯食って笑って、夢を語り合って––––」

「聞いて!!」

 左頬に鋭い痛みが走る。

 柊の手は震えていた。

「ちゃんと現実を見てっ! 私は、ヴィクターになってしまったの! 足を見て!」

 失われたはずの右足には、代わりに黒い足が生えていた。

「公平くんのことも! ちゃんと認めて!」

「だって、おれは、だって、それを、認めてしまったら––––」

「壊れない! 人間は、そんなに弱くないっ! 君が、カズキが人間の強さを信じなきゃ、どうしてヴィクターに勝てるのっ!!」

「俺は、俺は……弱いんだ。虚勢を張ってなきゃ、思考を停止させなきゃ、怖くて怖くて堪らないんだ……!」

 ずっと怖かった。

 ヴィクターが怖かった。

 痛みが怖かった。

 死が、怖かった。

 だから封じ込めた。

 記憶の奥底に。

「ヒーローを失った俺に、もう立ち向かう勇気なんて、無かったんだよ」

 カズキにとって、公平はヒーローだった。

 強くて、一本気で、勇敢で、心優しくて、ちょっと馬鹿なヒーロー。公平がカズキの心の支えで、永遠の憧れで、正義の象徴だった。

 カズキは少年のように、そのヒーローの活躍をただ願っていただけ。

 警察に入るときだってそうだ。

 ヒーローに活躍の場を提供できるのならば、きっとカズキは三島のあんな脅しがなくともあの契約に判を押していただろう。

 ヒーローを失ったとき、どん底に突き落とされた。

 強くて、カッコよくて、悪を挫くヒーローが殺されるなんて信じられなかった。

「どうして公平が死ななきゃならなかったんだ! どうして俺じゃ無かったんだよ!」

 湧き上がる後悔の念。自責の念。

 結局ここなのだ。

 自分への怒り。

 公平が死んで、自分がのうのうと生きていることの矛盾感。

 それが押し寄せて、生きていたくなくなる。

 だから心の奥に押し込んで、ヴィクターへと矛先を向けた。自分への怒りをヴィクターへの怒りに変換した。

 そうしなければ、到底生きていけなかった。

「なんで、公平が……俺が、死ねばよかったんだ……」

「カズキ……」

 柔らかい感触に包まれる。

 柊がカズキを抱きしめたのだ。

 柊の体は暖かくて、小さく震えていた。

 こんなことをされる資格、俺にはないのに。

 慰められるような価値が自分にはないのに。

 思ったより小さな身体だった。

「ごめんね、私に死者の声は代弁できない。公平くんがどう思ってるかなんて、誰にも分からない」

 カズキにはその言葉が痛いほど身に染みていた。

 何度も何度も公平の言葉を探して、見つからなかった。公平はもう、記憶の中にしかいない。不確かな記憶の中にしか。

 公平の本当の言葉は、もう永遠に聞くことはできないのだ。

「だから、私の声を聞いて。私の本当の言葉を聞いてほしい」

「本当の、言葉?」

「生きて。自分のためじゃなくていいから、私のために。私の生きる意味を奪わない為に、死なないで」

「柊……」

「ヒーローにならなくていいんだよ。強くならなくたっていいよ。普通に笑って、普通に悲しんで、普通に怖がって、普通に泣いていいんだよ」

 心に暖かいものが広がるのを感じた。

 ああ。

 きっと俺が言われたかったのは、この言葉だったんだ。

 頰に涙が伝った。

 嗚咽が上がる。

 柊はそれを、そっと抱きしめていた。

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