立ち上がる女

「よ、よお嬢ちゃん。無事だったか」

「……先生」

「ナイト様が一緒じゃなかったか?」

 柊は格納庫の冷たい床に這いつくばっていた。安西が助け起す。歩けないことがこれまで以上にやるせないて、辛かった。

 カズキは行ってしまった。戦場へと、死地へと。

 彼女の声ですら、今のカズキには届かなかった。

 無二の親友の死が、カズキの心に深い闇を落とした。

「……森田君は」

 戦場へと視線をやる。

「……そうか」

 安西は察したように頷く。

「でも、あの兄ちゃんなら案外やっちまうかもな。こんな絶望的な状況でも覆しちまうような、そんな奇跡を起こせるかもしれん。瞬間思考、つったか? イブのスピードとあの能力が噛み合えば、奴だって––––」

「無理だよ」

「どうして? 実際あいつは人型を倒したことのある唯一の人間だろう。増援を待つ間の、時間稼ぎくらいはできるだろう?」

「もう彼は、人間じゃ無くなっちゃったんだ。復讐に取り憑かれて、思考を放棄した獣になってしまった」

 カズキは、現実から目を背けた。

 それは、何者をも寄せ付けない心の壁。自分の中に閉じこもって、あまつさえ、自分の中にある記憶からも目を背けた。

 親友の、公平の死を認められなくて、思考を遮断した。

 そうしなければ心が潰れてしまうから。生きていけなくなるから。

 そしてすべての責任をヴィクターに求めた。

 生きる意味さえ、怪物に依存した。

 その結果が、あれだ。

「こ、こりゃ……」

 安西は絶句した。

 格納庫から戦場の様子を窺うと、眼前には凄惨な光景が広がっていた。

 それは屍の山。

 巨人たちの打ち棄てられた墓場。

 辛うじて動いている機体もあったが、それももう虫の息だ。

 数秒後には、黒い波に飲み込まれているのが容易に想像できた。

 考えるまでもなく、劣勢。

「現実を見ず、思考を停止させて、どうして瞬間思考がつかえると思ったの? いいえ、彼は気づいていたはずだわ、それが使えないことくらい。それでも復讐心に駆られて、飛び出して、結果があれ」

 手足をもがれた巨人が一機倒れている。

 いよいよ獣でもなくなってしまった。あれではもうヒルコではないか。

 イザナミとイザナギに捨てられた子供。

 川の流れにも抗うことのできない、不完全な存在。

「逃げるぞ、嬢ちゃん」

「逃げる? 一体どこに?」

「どこでも! とにかく逃げろ! 俺たちゃ警察の人間じゃねぇんだ! 市民には逃げ出す権利があるんだよ!」

 安西が強引に車椅子の把手を引っ掴む。そして走り出そうとするが、車椅子はそれを抵抗するように重たかった。

「嬢ちゃんブレーキを外せ!」

「嫌です。逃げるなら、先生だけ」

「どうして!? ここに残って、君がやれることなんてないだろう!? だったら、逃げる以外に選択肢はないはずだ!」

「私は、警察官です。足がなくなったって、歩けなくなったって、私が警察官であることに変わりはないんです。身分の話でなく、心の中にある誇りの話です。誰かを護りたい、そう思うことに、それ以上の理由がいりますか?」

「理屈なら後で沢山聞いてやる! だから今は!」

 安西は強引に柊を抱き上げた。抵抗する柊だったが、病室ぐらしのせいか、筋力が著しく衰えている。結局安西の力には抗いきれなかった。

 なんて無力なのだろう。

 仲間の役にも立てない、ただただ遠くから見守っているだけの存在。

 そんなの、仲間だと言えるのか。危機に陥った時、その人の為に立ち上がれるのが本当の仲間なんじゃないのか。

 例え、彼に嫌われようとも、憎まれようとも。

 護りたい、役に立ちたい、助けたい。

 どんな手段を使っても。

「安西先生、血液型は確かOでしたよね」

「何を言ってる! そんな場合じゃ……」

「推定身長百七十七、推定体重七十てところですね」

「だから、何を」

「人間の血液は体重の十三分の一程度あるんですよね。そしてその三分の一を失うと、命に危険がある」

「本当に、何を言っているんだ!」

「ごめんなさい、先生。私には行かなきゃならないところがある」

 そう言うと、柊は安西の肩口に噛み付いた。

「––––ッアァ!」

 噛まれた、というより抉られた。

 柊の歯が皮膚を破り、筋繊維を噛み砕いていく。安西は声にならない音を漏らすばかり。

 振りほどこうと暴れてもみるが、先ほどまでの非力な女の子はもうそこにはいなかった。安西にがっちり組みついて離れない。それどころか、だんだんと締めていく力が強まっていく。

 まるで、安西の身体を搾り取るように。

 血を飲んでいるのか。

 柊由紀には、ヴィクター化の傾向が見られていた。血液は日に日に黒ずんでいった。

 それでも手元に置いていたのは、彼女の脳がヴィクター化の兆候を見せなかったから。

 ヴィクター及び人型の脳を散々いじくり回して得られた情報。

 奴らは人間からヴィクターとなるとき、脳が新しく作られる。

 古い脳みその内側から、まるで植物のように成長し、ある日表層のそれを食い破り別の脳が生まれるのだ。

 ヴィクターと人間の常識がことごとく異なるのはこのせいだ。

 彼らは人を殺すことに全く罪悪感を覚えないのだ。それどころか、それを種の是としていると思われる。

 それは、先日の事件で発覚したこと。

 落合と呼ばれる人型が警察官を拉致し、拷問を行なったという。人を人とも思わぬ壮絶なもの。

 そのサディスティクさは、奴らの行動を見るに明らかではないか。人間をいたぶり、弄んで殺すその行動、彼女らの共通点。

 推測にしか過ぎないが、偶然とも思えない。

 だが柊由紀には、脳の新陳代謝どころか残酷性のカケラも見当たらなかった。テストでは鬱の傾向が見られるだけで、暴力性の片鱗すら出てこなかったのだ。

「あっ……が……」

 だというのに。

 隠していたのか、今の今まで。

 か弱い悲劇のヒロインを演じ、自らのヴィクター化を紛れさせていたというのか。

 有り得ない。

 データは嘘はつかない。

 これは……

「ごめんなさい、先生。でも、もうこうするしかないの」

 安西は白目をむいて、そのまま倒れ込んだ。肩口の傷はさほど大きなものではなかったが、顔は蒼白だった。

 柊は立ち上がる。

 そして歩き出した。

 二つの脚で、自らの意思で。

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