逃避

 必死に走る。

 足がもつれそうになるのを懸命に堪えて前に進み続ける。

 奴らに背を向ける屈辱が心臓を焼く。激しい頭痛のせいで思考がまとまらない。それでも彼女を守らなければならない、それだけはハッキリと分かっている。

 ここは戦場になった。

 無数のヴィクターに取り囲まれている。

 あれだけの数の化け物と戦うことは初めてだった。これまでは一体ずつしか現れなかったはずのヴィクターが、群れをなして襲いかかってきたのだ。

 攻勢をかけてきた。これまでと比にならないほどの規模での戦力の投入を、あの女を先頭に。

 この辺見基地では防衛のため、常にソナーシステムを作動させている。ここは郊外の山地で集落も殆どない僻地ではあるが、万一ヴィクターが周辺に現れないとも限らないからだ。

 しかし、そのソナーシステムが今回になってヴィクター共に効いていない。強烈な音波を放っているはずのこの状況下で、活発な活動を止めない。

 異常事態だった。

 奴らもまた、突然変異種だとでも言うのか。

 当然、こんな集団で戦うためのノウハウはない。

 初めて尽くしのケース。

 この切迫した状況下で、隊員達も混迷に陥っていた。

「騎乗経験者は誰でもいいからイブに乗り込めっ! とにかく時間を稼げ! 都内の部隊がここに来るまでどうにか持ちこたえるんだ!!」

 前田中隊長の怒号。

 基地、と言ってもここは基本的に訓練施設である。自衛隊や軍のように、ここに戦力を保有しているわけではないのだ。基地内職員は教育隊の教官が数名、後は警部以上の幹部職員と事務員が在籍しているくらい。

 つまり、ここで戦力になり得る人間は、教官と非番に訓練へと訪れていた十数人の隊員だけ。

 二十にも満たない数で、あの軍勢を相手取らなければならないのだ。

 全く未知数の戦い。

 集団戦の経験もなく、これだけの数のヴィクターを見たことすらない。更には人型ヴィクターとの戦闘である。

 世界に一度だけしか事例のない人型ヴィクターとの戦闘を、この状況下で行うのだ。手練れの部隊員ですら殺されるほどの力を持った敵を、大量のヴィクターの中かい潜りながら戦わなければならない。

 不可能だ。

 絶望的な状況。

 全滅までにどれだけ時間を稼ぎ、後に来る増援に託すことができるか。これはそういう戦いだ。

「森田くん」

 柊の声にハッとした。

 いつの間にか基地内にある格納庫まで走って来ていた。ここまでくれば、取りあえず安全だろう。今のところ、ではあるが。

「柊はここに居てくれ」

 早く奴を屠らなければならない。報いを受けさせねばならない。あの女こそ全ての始まり、カズキの仲間の仇敵だ。

 この手で奴を殺さなければ。

 カズキは車椅子から手を離す。

 しかし、それは叶わなかった。

「駄目っ!」

 柊がカズキの手を離さなかった。

「柊」

 カズキが言外に離せと促す。だが、彼女はギュッと拳を握りこんだままだ。

 そこここで爆発音が響く。戦闘が始まったのだ。

 第一種装備、つまり重火器を用いての戦闘。鳴り響くサイレン。掃射の音が止まらない。これほどの火力を以ってしても止められない程、部隊は劣勢を強いられているのだ。

 行かなくては。

 まだ、ど新人のカズキでもきっとこの状況ならば駆り出される。何より人型ヴィクターと激闘を演じた唯一の人間だ。本部だってこの力を望んでいるはずだ。

 例え拒まれたとしても戦う。

 幸いにも、ここにはイブが相当量保管されているのだ。命令違反だろうがなんだろうが、カズキは戦うつもりだった。

「柊、俺は行かなきゃならない」

「駄目、行っちゃ駄目!」

 柊が叫ぶ。

 どうして?

 仇が目の前にいると言うのに。どうして柊は止めるんだ。

 こんな自分を。

「柊!」

「きっと今度こそ殺される! 向こうへ行ったら、もう戻ってこられない!」

「柊も、誰もが勘違いしている。俺は死ぬ為にイブに乗るんじゃない。殺す為に乗っているんだ」

「同じことだよ!」

「違う。死んでも殺す、という覚悟を持っているだけだ」

「同じだよ!」

 上ずって震える声。

 柊は泣いていた。しゃくりあげて、顔をぐちゃぐちゃにして、それでも手だけは離さなかった。

 どうして泣く?

 柊は、俺のことを憎んでいるんじゃないのか?

 誰も守れなかった俺を。

 無力で、何もできなかった俺を。

「君は、ただ考えないようにしているだけだ。自分の死を、残された人たちのことも。思考を停止させて、感じないようにしているだけなんだ。公平くんのことだって––––」

「やめろ!」

「聞いて! 私をちゃんと見て!真正面から受け止めなくていいから、見るだけでいいから。現実から、逃げないで!」

 柊は、掛けていたブランケットをひっぺがした。そこには、直視したくない現実がありありと映し出されていた。

 右の裾の、太ももの途中からペタンと平たくなっている。

 思わず目を閉じる。

 いやだ、見たくない。

 それを見るということは、心を引き裂かれるようだ。

 それは現実。

 柊の、無くなってしまった足。

 現実。

 公平が、死んだこと。

 現実は、虚しいだけだ。

「……」

 カズキは無言で、強引に柊の手を引き離した。無表情に、無感情に。

 翻り、再び駆け出した。カズキは戦場へと向かう。

「待って!」

 柊の悲痛な叫びにも目もくれない。

 彼女は必死に追いすがる。慣れない車椅子を操作し、カズキに追いつこうともがくが、走っていく彼の背中に追いつけない。

 そのうち彼女はバランスを崩し、車椅子から転落してしまう。それでも柊は、地面を這って彼の背中に手を伸ばす。

 カズキは、振り返ることもなかった。

「もう、仲間が死ぬのはやだよぅ」

 その小さな声が、彼の耳に届くこともまた、なかった。

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