山中訓練 1
夢を見ていた気がする。
大切な夢だったような。
涙が滲んだ目をこする。夢は霞のようにたちまち消えてしまって、ただただ沈んだ気持ちだけを残していった。
なんて理不尽なんだろう。
「森田、起きたか」
「分隊長、おはようございます」
「っつても夜だけどな」
二時間程度は寝ただろうか。
森の中は深い暗闇に飲み込まれている。たき火のオレンジ色の光だけが、取り残されたようにぽっかりと浮かんでいた。
「まだ交代には早いぞ」
例によって交代制で睡眠をとっていた。火の番という意味合いもあるし、万が一の場合の備えの意味もある。
「いえ、どうせもう寝れませんから」
カズキは一年ほど前から、慢性的な睡眠障害を患っていた。体は休息を求めて悲鳴をあげるが、脳が過敏になって眠れない。交番勤務時代は頭痛との戦いだった。
この隊に入ってからは重度の疲労のお陰で、気絶するように意識がなくなるから助かっていたのだが。やはり時々こういう風に途中で起きてしまう。
「そうか」
分隊長の坂本は、あまり立ち入って聞くようなことはしなかった。無口というわけではないのだが、あまり他人に興味がないような節がある。人間関係の煩わしさがない分、カズキにとってはありがたい存在である。
山中訓練に入ってからもう二日だ。
初めこそどんな厳しい訓練なのかと緊張したが、この二日は本当に拍子抜けだ。
山をただ歩き、食事になれば山頂へ行き、また歩く。たったそれだけ。距離のノルマはあるものの、一日かけてゆっくり歩けば達成できるような簡単なものだ。
ぬるすぎる。
噂で囁かれるような厳しさのカケラもない。
普段の訓練の方がよっぽど苦しいくらいだ。
もしかすれば、新人を脅すためにわざと流布された噂話なのではないか。
「それはあるかもしれんな。手応えがなさすぎる」
坂本も頷く。やはりそう感じるのか。
「脅かすだけ脅かして、やっぱレクリエーションでした、って線もあるかもな。先輩方のノリを考えると」
「ありえますね」
先輩隊員たちの性格を考慮すると、その推論もあながち否定できない。隊長含め、基本的に勢い任せで生きているような感じがする。
「まあ、考えても仕方がない。どうせ後五日は森の中にいなくちゃならん」
風呂なし、寝床なし、というのが地味に辛いかも知れない。基本的に生活環境は優遇されてきたので、いきなり劣悪な環境に放り出されたのはキツい。
一応沢を見つけたので、湿らしたタオルで体を拭くくらいのことはしているが。寺坂が居るせいもあって、裸で入るのも躊躇われる。
寺坂ならば、とも思うが案外こういう事にはどうにも免疫がないらしい。
当初、一人の隊員が構わず脱ぎ出した。暑さもあり、川に飛び込むつもりだったのだろう。新隊訓練が進むにつれ、寺坂が女性だということを殆どの隊員が忘れていた。カズキも、まあ寺坂だし、と思い気に留めなかった。
「ぎゃあああああああ!?」
そこには奇声を上げ、顔を真っ赤にして目を閉じた寺坂がいた。言動はあれだが、恥ずかしいところは恥ずかしいらしい。
紳士たれ、という分隊長の厳命を受け、水浴びは中止と相成った。
かと思えば寝床を共にするのには抵抗はないらしい。彼女のツボが分からない。
「…………」
こう見れば、唯の可愛い女の子なのに。
月の無い夜だった。
揺らめくあわい光りが彼女を照らす。いまだ残暑の残る九月。汗ばんで寝苦しそうに顔を歪めたその顔が、妙に扇情的だった。
ハッとして首を振る。
馬鹿か、俺は。何を考えている。
森がざわめいている。風がびうと吹き抜けた。夜の闇と風の音は、原始的な恐怖を思い出させる。太古の頃より受け継がれる根源的恐怖。
それは死。
人は死を身近に感じると、性欲を高めるという。それは人間が子孫を残すために備える本能なのだという。
頰の内側を噛み切る。鉄の味が広がる。
本能くらいねじ伏せられなくて、なんだ。
カズキの駆使する瞬間思考は、攻撃に対する防衛本能を抑え込むのが前提のものだ。攻撃に怯え、反射で目を閉じてしまえば使い物にならない技なのだ。
そういう意味で、ヴィクターに対する憎悪は都合がよかった。奴らに対する怒りは、容易に死の恐怖を凌駕する力になる。
思考を、身体を、心を、全ての力を奴らを殺すことに傾注せねば。本能に時間を取られている場合では無い。
「おい、森田」
坂本の呼ぶ声。
「何か聞こえなかったか?」
「え?」
全く気づかなかった。
「どこですか?」
「分からないが、茂みをかき分けるような音がしたんだ」
風ではなく、生き物が動いた音がしたのだという。この山に生息しているような生き物といえば、狸、イタチや猿、あるいは。
「熊とか、ですかね?」
「ばっ、馬鹿言うな! 冗談でも洒落にならん!」
ガサッ。
「!」
今度は明らかに音がした。しかも雰囲気からしてかなり近い。影に潜むものの息遣いが聞こえてくるようだ。
この場合火を消した方がいいのか。いや、野生動物ならば火を怖がるのでは。いかんせん知識がない。
そして。
それは突然現れた。
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