覚醒

 一方、現場の警察官は絶望の最中だった。

 イブが、あの女に指一本触れることすらあたわず撃破された。それだけじゃない、搭乗者わ引きずり出して、その肉を食い始めたのだ。

 異様な光景。非日常の出来事。

 そんなのはホラー映画の世界での出来事だ。現実であるはずがない。

「うっ」

 ある警官は嘔吐を繰り返す。

 これまで死体は何度も見てきた人間だった。交通事故で脳を飛び散らかした礫死体。真夏に部屋で孤独死していた腐乱死体。慣れていた、そのはずなのに。それでもこの光景は、吐き気を催すほど酷かった。

 人間が、人間を食う。

 こんなにおぞましい事が他にあるのか。

 あれが、こちらに来たら。

 そう考えてしまったら、もう駄目だった。

 堰を切ったようように、誰も彼もが逃げ出した。

 押し合いへし合い、狂乱の逃走劇。

 応援が到着する気配すらない。本部の無線は状況を報告せよの一点張り。そんな質問、この場の誰が説明できようか。何が起こっているのか知りたいのは正に現場の人間なのだから。

 そんな状況で、イブが再度動き出すのに気がついた人間は居なかった。気がついたとすれば、人間ではないもの、奴くらいのものだった。

 その鎧の駆動音は静かなものだった。

 腹を貫かれているというのに、動くのに支障はなかった。電子機器には多少狂いはあるようだが、そのおかげでカズキが乗り込んでも認証ではじかれて作動しない、ということもなかった。

 一歩踏み出す。

 感覚は、ゲームセンターにあったあのゲームと同じだった。もう一歩踏み出す。すでにこの鎧はカズキの半身だった。

 溜め込んで、深く一歩を踏み込んだ。

 機体はその動きをトレース、増幅させて再現する。韋駄天の如き速さでイブが走る。

 身体が軽い。

 AIが戦闘モードに切り替わる。殆ど思考を読み取って動いていると思えるほどに過剰な先読み。ここまでくると被害妄想に近い。

 死肉を貪る女へ、不意の、渾身の一撃をブチ込んだ。

 手応えはあった。拳の感触、なにより数メートル吹き飛ばされた女がその威力を証明していた。

 しかしカズキは緩まない。

 飛ばされた方向へまた高速で駆け寄り、うずくまる女を、渾身の力で踏みつける。地面に敷かれたアスファルトが割れて、オンナが沈み込む。しかし、それだけだ。

 随分頑丈な女だった。

 考えても見れば、屋上から飛び降りて無傷なのだ。人間ではない。おそらくは、ヴィクターと同種、あるいはその強化版といったところか。

 だからこそ攻撃の手をやめず、反撃する間も与えず処理する、などとカズキが考えているわけではなかった。

 多くの苦痛を与えて殺す。

 それしかなかった。

 結果的にそれは正解だった。

 女がいかに硬かろうがこの物量差では、こちら側が攻撃の手を休めない限りなす術がないのだ。

 更にこのマウントを取った状態。上からタコ殴りにされるばかりで、レフェリーストップがかからなければ、緩やかに死を待つだけだ。

 よほどのことが起きない限りは。

 女の体が膨れ上がった。黒い塊が女の皮膚から湧き上がったと思った瞬間に、イブが弾き飛ばされた。

 生体金属だ。

 ヴィクターの表皮にこびりついて、幾多の攻撃をはじき返して来たあの忌々しい装甲。

 それがまるで意志を持ったように女の右腕から突如生え、イブを軽々と放り出したのだ。

「だから、痛いって言ってるでしょ!」

 気の抜ける呑気な声。自分が優位であることを信じて疑わない声。

 カズキは空中で体制を立て直し、ふたたびアスファルトを蹴って接近する。

 最速の左ジャブ。

 しかしそれはひらりと、木の葉が舞うようにかわされる。

「ははっ、無駄だよ! そんなノロマじゃ私に届かない!」

 すかさずミドルキックを放つ。それも空を切る。

 やはり厄介なのは奴の機動力だった。

 あの生体金属、やはりヴィクターの亜種であることは間違いなかった。

 もしこの小柄な体格にヴィクターのパワーが内蔵されているとしたら。イブの腹部を貫くほどだ。ありえない話ではない。そうなればそのスピードも尋常ではないはずだ。

 そして女の反射速度。

 イブの攻撃は通常の感覚では到底避けることは出来ない。カズキ並みの反射速度を誇り、尚且つ回避するための命令伝達能力が桁外れの化け物ということになる。

 このままでは前任者と同じ末路を辿るのは自明の理だった。

 憎い。

 女はよけるだけで、攻撃をしてこなかった。戦いを楽しんでいるのか、挑発しているのか。

 憎い。

 はらわたが煮えくり返る。

 殺す。

 右フックを打つと見せ、半身を翻し裏拳に切り替える。女の顔面数ミリまで追い詰める。

 憎い。

 頭に血がのぼる。

 殺す。

 公平の仇を討つ。

 もっと。

 もっと速く。

 思考を加速させる。

「っ!」

 ミドルからハイに変化するキック。横薙ぎの一閃が女の髪を掠めとる。

 その一撃で、女は余裕の態度を辞めた。対面する男が、自らの速度に慣れつつあると感じたからだ。慢心を捨て、獲物を速やかに食い殺す。遊びから狩りへと思考を切り替える。

 が、すでに遅かった。

「!?」

 カズキのハイキックが女の顔面を捉えた。

 フェイントを織り交ぜたその攻撃は、確実に女の体に叩き込まれていった。

 頭の中のコンボがカチリとはまる。

 攻撃が速くなった訳ではない。

 カズキは時間を遅くしたのだ。

 女の反応速度0.1秒を何十倍にも拡大し、動く方向に攻撃を合わせていたのである。

 人間の体感速度は、個人によって大きく異なる。同じ映画を見てある者は早く感じたり、ある者は遅く感じたりするのがいい例だ。

 また、一流の野球選手はバッティングの瞬間放られた球が止まって見えるという。

 極限の集中力。

 カズキがなぜゲーム界で王と呼ばれるのか。

 それは反射速度に加え、見てから思考することができる集中力があったからである。

 反射に頼っていたならば単純な動作しか出来ないが、そこから思考することによって戦略を立てることができる。

 言うなれば瞬間思考。

 後出しジャンケンで負ける方が難しい。

 彼の目の前には今、永劫一フレームの世界が広がっていた。

 もう力の差は圧倒的だった。

 イブの攻撃を避けるということは、その予備動作をを察知し動き始めなければならない。

 例えば重心が前に傾き左肩を引けば、十中八九右ストレート。逆に引かなければ左が来る。蹴りの場合は単純で、軸足を見れば予期できる。

 女はそれを恐ろしい動体視力で捉え、回避をしていたのだ。

 ならばそれを逆手に取ればいい。

 重心を前に出し、左肩を前に出してやる。女は反射的に右に回避行動を取る。だから右膝を女の腹に叩き込む。

 良い的だ。勝手に死地に飛び込んで来る。

「がはっ––––!」

 いつの間にか女は地に組み伏せられていた。なるほど、喉を押さえつけてやれば多少なりとも苦しいらしい。

 こんなものでは足りない。

 苦痛を与えなければ。

 最大級の苦痛を。

 地獄すら生ぬるいほどの苦痛を。

「お前は、何をすれば死ぬ?」

 カズキが問う。激情がカズキの心を駆り立てる。しかし声は反対に、凍えるような冷え切ったものだった。

「さぁ? そうそう死なないよ、私は」

 女が笑う。挑発的な目、態度。どうやって抜け出してやろうと考えているのだろう。相当な頑丈さがあると見て間違いない。

 それは好都合だ。

 右腕を女の腹に当てがう。

 ドンッ!

「ぐっ!」

 先ずは腹に穴を開ける。

 流石にジャベリンの貫通力ならばダメージを与えることは出来るらしい。

 再装填。

 発射。

 もう一つ穴ができる。

 再装填。

 発射。

 更に穴。

 徐々に横にずらしながら、女の身体を切り取っていく。

 先ずは上半身と下半身を分けなければ。そうしなければ話が始まらない。機動力を奪い、それからどうするか。指を一本ずつ穿つか。それから腕、肩。そうして腹からまた徐々に削いでいこう。下半身を無理矢理食わせるのもいい。心臓と脳みそは最後だ。死んでしまっては意味がない。

 再装填。

 発射。

 再装填。

 発射。

 再装填。

 発射。

 再装填。

 発射。

 再装填。

「止めろ!」

 腕を掴まれ捻りあげられる。抵抗を試みるが腕が動かない。振り返るとイブがカズキを羽交い締めにしていた。

「もう死んでる!」

「えっ?」

 女は既に事切れていた。黒い血の泡を吹いて白目を剥いて、絶望に満ちた顔をしていた。

 いつから?

 どうして死んでしまったんだ?

 俺の許可も無しに!

 まだこれからだというのに!

 簡単に死なないなんて、嘘を吐きやがって!

 ––––るな。

「ふざけるな!」

 足りない、全然足りない!

 殺し足りない、与え足りない!

 決意が芽生える。確固たる決意。残酷で悲しい決意。

「地獄に叩き落とす」

 公平の夢でもあったイブ。カズキは機甲機動隊入隊を決意した。ヴィクターを殺すために。痛みを与えるために。

 全てのヴィクターの災厄になるために。

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